星野さんの話は、立て板に水、あるいは流暢というより、心からの思いを一つ一つ言葉を選びながらの丁寧な語り。
しかし、それがかえって、私の過去の記憶をゆっくりと、かつ確実によみがえらせるちょうどいいテンポの話であった。
星野さんが大学の構内に足を踏み入れたのは、入試発表日が最初だったようだ。
そういえば、大抵入試は郊外の大学関連施設。
だから、もし、入試の結果が落ちていれば、本校舎を見ないままそれで最後であった。
まあ、合格したのでその後はいやというほど校舎に足を運ぶことになるが・・・。
これは私も同様。
この辺も同じだな~と思いながらうなずき聞いていた。
その最初の大学校内の印象が、これを面白おかしく語ってくれた。
私も同感であったが、当時30数年前のわれわれ大学は、本格的な学生闘争は下火になっていたが、それでも残党(!?)がまだ活躍していて、そんな彼らの反体制ビラが校舎の壁という壁にべったり張られ、また、校庭、廊下などはそのビラが舞い散って、そのビラを踏みながら校舎に入る、という有様。
彼女はこんな光景を目の当たりにして、夢に見た明るく希望に満ちた大学風景が一瞬に砕け散った・・・。
星野さんは新潟県長岡市の出身。
田舎から大東京に一人ぽつんとアパート暮らしの最初は、それはもう、不安のどん底。
そんな気持ちを話しだし、ああ私もそうだったと、懐かしむ・・・。
私の大学生活のスタートは、変則的な6畳一間で、別に台所がわずかにある中野のクリーニング屋の2階。
同じ2階にサラリーマンが3人ほどいたように記憶する。
トイレは共同。風呂は銭湯という、大学生活のお手本(!?)のような下宿。
ただし、私は大学時代2回引っ越しをして、結局3つの下宿を経験することに。
つづく・・・。
確かに同世代なので、思い出がオーバーラップしました。
僕は、最初国立市の府中寮でした。赤旗が渾然と屋根に翻り、常に覆面パトカーが見張っていましたよ。
確かに安いのですが、いかんせん、遠い!!
中野なら近いじゃん!
よって、1年で東急線の都立大へと引っ越ししました。