かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

青春という名の、吉永小百合

2012-11-11 03:59:58 | 人生は記憶
 ある朝のことだ。いつものように布団の中で、朝刊をおもむろにめくっていると、僕を見つめる吉永小百合の顔がアップで飛び込んできた。それも、若いときの吉永小百合だ。
 と同時に、「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます。」という言葉が目に入った。
 僕は思わず飛び起きた。まるで大事件が起こった記事を、新聞で初めて見たときのように。
 その日、11月1日の新聞(朝日新聞)の朝刊に、1頁大で吉永小百合の顔写真が載った。(写真)
 彼女の写真の横に書かれた「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます」という言葉は、誰の言葉なのか。もしかして、僕のことを言っているのではないか、と思わず思った。
 すぐにそのことを打ち消した。確かに若いとき吉永小百合の映画は好んで見たし、多少の憧れは持っていたかもしれないが、僕の初恋は吉永小百合ではないし、彼女と会ったこともない。会ったこともない人を想像でというか妄想で恋するのも恋というのかどうかは別として、僕はちゃんとした初恋をしている、と思わず反芻した。
 そして、冷静に考えた。
 この台詞は、吉永小百合に憧れた、同時代もしくはその周辺の時代の人間の共有した思いだ、と考えるに至って現実に戻った。
 
 この紙上の写真は、吉永小百合のDVDマガジン(講談社)の宣伝広告だった。彼女が選んだ日活時代の映画ベスト20だとあった。
 第1回配本の「キューポラのある街」(1962(昭和37)年)をはじめ、「草を刈る娘」(昭和36年)、「泥だらけの純情」(昭和38年)、「青い山脈」(昭和38年)、「愛と死を見つめて」(昭和38年)など、彼女の青春映画が並んでいる。
 20本中17本が昭和30年代後半の、吉永小百合十代の頃の映画である。そして、「青春のお通り」が昭和40年作で、彼女が20歳のとき、「愛と死の記録」がその翌年作で、彼女の21歳のときのもので、これらを含めて19本が彼女の青春真っ只中の作品だといえる。
 残り「戦争と人間・完結篇」だけが、1973(昭和48)年作で、彼女の28歳のときの作品となっている。青春映画ラインアップの中で、あえて彼女がこの映画を選んだというのは、彼女の青春の残り火、もしくは青春と決別した映画だったのかもしれない。

 この数日あとの11月4日には、同新聞の見開き2ページにわたって、同じ吉永小百合の若いときの写真と文章が載った。同じ出版社の広告であったが、DVD付きとはいえ出版物では異例の大きさだ。
 宣伝記事には、キャスターでジャーナリストの鳥越俊太郎の文が載っている。
 そこでは、吉永小百合さんとは同じ誕生日なので、誕生会を開いて彼女を誘ったと書いていた。彼女は来なかったが、それ以来付き合いが始まったとある。
 よくある姑息な手を使うものだと(失礼)思わず嫉妬したが、誕生日(3月13日)が同じなら、彼がそうしたくなるのもむべなるかなと寛容に思った。
 サユリストを自認するタモリは、どう思っているだろうと思うだけで、面白い。
 かつて作家の野阪昭如も、サユリストを公言してはばからなかった。
 野球評論家で参議院議員もやった元南海、阪神のピッチャーの江本孟紀は、「僕は吉永小百合さんの結婚相手だったんですよ」と、いつかテレビでしゃべっていた。
 確かに彼は、映画「細雪」(監督:市川崑、1983年東宝)で、三女の吉永小百合の結婚相手役の色男として出演している。この映画は、岸恵子、 佐久間良子、 吉永小百合、 古手川祐子、 伊丹十三、石坂浩二と錚々たる出演メンバーで、その年のキネマ旬報日本映画2位の名作である。

 サユリストに少し遅れて、コマキストなる言葉も出てきた。
 そのくらい、栗原小巻(くりはら こまき)が人気だったときもあった。吉永小百合と誕生日が1日違いの栗原小巻(1945年3月14日生)は、「戦争と人間」(1部1970年、2部71年)、「忍ぶ川」(1972年)などの質の良い映画に出演して、若いながらも渋い人気を博していた。

 吉永小百合と同じ時期に早稲田大に通っていて、学食で彼女を見たことがあるという友人に、あなたもサユリストだったかと訊いてみた。彼は、「俺は隠れサユリストだった」と答えた。
 当時は、たとえ吉永小百合とて、正面切って芸能人のファンだと言うのはためらわれた。何を隠そう、僕が当時のプロマイドを持っているのは彼女だけだ。そういう意味では、僕も隠れサユリストだったと言えよう。
 初恋の人の名が小百合でなくとも、どきりとしたのはそうだったからなのだ。今では、サユリストだったと公言するのに、何のためらいがあろうか。

 *

 九州の片田舎の町では、中学生までは学校の許可した映画以外は自由には見られなかった。
 というわけで、中学を卒業して待ちに待ったように、僕はすぐに佐賀市まで映画を見に行った。自分の自由意志で見た初めての映画は、イタリア映画の「わらの男」だった。
 ピエトロ・ジェルミ監督の先の見えない男と女の物語だったが、今となってはストーリーも霧の中で暗い印象しか残っていない。中学を卒業したばかりの、女も恋も知らない少年にわかる内容ではなかった。なぜこの映画を見に行ったのかも覚えていない。芸術的映画だというので、背伸びして行ったのだろう。
 これに懲りたわけではないが、すぐに近くの田舎町の映画館に日本映画を見に行った。日活の「コルトが背中を狙っている」(葉山良二、芦川いずみ主演)と松竹の「番頭はんと丁稚どん」(大村崑主演)の2本立てだ。
 田舎町の映画館では、封切より少し遅れて上映されるのが常だったし、日活と松竹とか東映と大映といったように、違う映画会社の2本立ても珍しくなかった。
 やはり、日活映画は若者には人気があった。高校に入学した後の4月には、赤木圭一郎の「俺の血が騒ぐ」(共演:笹森礼子)を見た。もう1本は、洋画の「ターザンの決闘」だった。邦画と洋画の2本立てという組み合わせもあったのだ。

 吉永小百合の映画を初めて見たのは、高校1年の冬だった。
 「黒い傷あとのブルース」(監督:野村孝)という小林旭のヒット曲の映画で、旭との共演だった。小林旭主演の人気の「渡り鳥シリーズ」はまだ1本も見ていなかったが、僕は感動していた。

 仲間の裏切りで服役していた男(小林旭)が、出所後復讐するために横浜に向かう列車の中で、ふと少女ともいえる女(吉永小百合)と知り合う。コロコロと床にこぼれ落ちた果物を、男(旭)が拾って少女(小百合)に手渡すシーンだ。
 二人はそれから時々会うようになり、少しずつ恋心が芽生え始めるのだった。しかし、旭が突きとめた復讐しようとする男(大坂志郎)は、何と小百合の父親だった。
 最後のシーンは、旭が来るものとレストランでじっと待つ小百合。その姿を窓の外から旭は見ながら、黙って去っていく。
 何も知らない明るく清純な少女が、恋を知り始める女へ移りゆく姿を、まだブレイクする前の吉永小百合が演じる。少女の心を知りながらそっと去っていく、抑えた演技の小林旭に哀愁が漂う。それに、吉永小百合の父親役の、人がよさそうな大坂志郎が悪役をやるのも好演だった。

 すると朝日新聞の映画欄に、この映画が日活アクション映画としては半歩前進した内容だといった褒めた内容の記事が載った。
 次の日、僕は、体育の授業でラグビーをやったあとの泥で真っ黒になった足と運動靴を、並んだ水道の蛇口から出る冷たい水で洗いながら、隣にいる級友の男に話しかけた。
 「昨日の新聞見たか?小林旭と吉永小百合の映画「黒い傷あとのブルース」が、日活映画としては半歩前進した内容だと評価してあったな」と。
 彼は、「そうだ、あれはいい映画だ」と納得した返事をした。いや、僕が得意げに、一方的にいい映画だと話をしたのかもしれない。
 この映画は、小林旭と吉永小百合のコンビの最初で最後、唯一の日活作品となった。
そして、僕が最初に見た吉永小百合の映画であり、最初の小林旭の映画でもあった。

 「黒い傷あとのブルース」は、冒頭に書いた吉永小百合の選んだ「私のベスト20」には入っていないが、僕のなかの日活映画では、「キューポラのある街」と並んで、ベスト1である。

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