かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

上海への旅⑥ 上海の裏道

2009-11-18 03:53:00 | * 上海への旅
 不思議なもので、どこの国へ行っても売春は行われていて、それらしい場所がある。
 日本にもかつて遊郭があり、1956(昭和31)年、売春防止法が発布されるまで、売春は国で認められていた。
 ヨーロッパは、今ではフランス、ドイツ、スペインなど、国が売春を認めた公娼制度がある。オランダのアムステルダムでは、飾り窓(いわゆる売春宿)の一角があり、観光地にさえなっている。
 アジアは、タイを除けば概ね禁止されている。といっても、アジアでも、どの国でも売春は行われている。公認されていないというだけである。
 売春は、世界で最も古い職業の一つであるとさえ言われている。
 近年、ペンギンでもそのような行為が行われたという興味ある研究が発表された。もちろん、性の代価として受けとるのは金ではなく巣を作るための石だったというが。買春する方の雄に雌の連れあい(夫婦ともいうべき)がいた場合は、連れあいの雌のいないときにその行為は行われたというから、ペンギンも後ろめたさは感じてたようだ。

 では、売春とは何か?
 「売春」とは、対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手方と性交をすること(売春防止法2条)とある。
 金もしくはそれに相当するものを貰って行う性交渉が、不特定の相手だといけないが、特定の相手だといいということである。つまり、愛人関係などは売春とは言わないのである。
 では、複数の特定の相手と、月契約などの愛人関係はいいのであろうか。何人までが特定の相手といえるのだろうか。その数が多ければ特定といっても、契約制、会員制の売春といえないであろうか。

 *

 中国では、理髪店がその道だと聞いた。それに、通りを歩いていて、足浴マッサージ店にもその道の店があることを知った。つまり、理髪店も足浴マッサージ店も、その名の通りやっている普通の店はあるのだが、看板は普通のそれだが実態である中身はその道だというのが紛れているのである。
 もちろん、この上海でも、繁華街の裏には交渉次第で開く裏道があるのだろうし、街娼もいるのだろう。
 旅舎のある保定路には、場末であるが、旅舎のすぐ先に普通の足浴屋が並んでいる。理髪店もある。その先に、若い女の子が3人ソファに座っているだけの、見てすぐに普通の店ではないと思わせる、その道の足浴屋がある。
 また、昨晩行った阿娃食堂の通りには、夫婦らしい中年の男と女のほかに、マッサージ、マッサージと声をかけた若い女の子が一人いる、普通ではない足浴屋がある。

 中国には、「君子危うきに近寄らず」という諺があるが、反対に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という諺もある。
 僕は君子でもないし、虎児を得るつもりはないが、虎穴がどんなところかの好奇心は充分持ちあわせている。
 この日、10月17日の晩も、西安食堂で遅い晩食を食べたあと、その足浴屋の前を通ると、ガラスごしに昨晩、マッサージマッサージと声をかけた女の子と目があった。
 ソファに座っていた彼女は、またにっこり笑って誘いかけた。ソファの奥はカーテンが引かれていて、そのカーテンの先にベッドが1個あるのが見える。暗いその奥には、2階に上る階段がある。
 僕は、好奇心で彼女に「いくら」と訊いてみた。
 彼女は、「50元」と言った。
 この近辺の普通の足浴屋が、足浴20元、身体マッサージ30元と知っていたので、値段からしても普通のマッサージとは違うと分かる。彼女は、僕の疑問を察知して、さらにメモ用紙に「小、50元、大、150元」と書いた。
 体は発達しているが、表情はまだあどけない。僕は中国語会話帳を見ながら、「クーアイ」と言った。すると、彼女はオウム返しに「クーアイ、クーアイ」と歌うような、屈託のない笑顔を返した。
 都会で、このような風俗をやっている女の子は、地方から来ている貧しい子だと聞いた。繁華街ならまだしも、観光客も来ないこの侘しい通りで、どのような人が客なのだろうかと思った。近所の人が来るのだろうか。
 この店の主人とおぼしき中年男と、その女房とおぼしき中年女は、どうぞと言いつつも、自分が出る幕ではないと思ってか対応は女の子に任せていて、成りゆきを見ている。

 「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」
 ふとこの情景が浮かんだ。
 これは、川端康成の小説「眠れる美女」の冒頭に出てくる台詞なのだが、どきりとさせる。そして、この小説がいかがわしさを題材にした小説であることが分かる。
 驚いたことに、ガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」でも、いきなり最初に、この「眠れる美女」の台詞が出てくる。おそらく、川端の小説に影響を受けて、この小説を書いたのだろう。

 ぎらぎらした欲望と狡猾な罠が混じり合い行き交う都心繁華街の裏道と違った、上海の侘しい街角にも、娼婦たちの物語は息づいていて、そして生活がある。
 僕は店の明かりを振り返りながら、妄想した。
 「眠れる美女」のいかがわしさを、上海少女に滲ませて。
 そして、上海の侘しい街角に、アムステルダムの「飾り窓」との違いを思った。

 その足で、今日は疲れていたので、いつも通る旅舎の近くの足浴屋へ行った。普通の足浴屋だ。
 全身マッサージを頼むと、2階へ案内された。1階は数人が足のマッサージを受けていたが、2階は僕だけだ。真面目で実直そうな女性が、汗をかきながら、頭の天辺から足までマッサージしてくれる。ここは、いかがわしい雰囲気も素振りもない。60分で30元とはいかにも安い。

 上海の保定路の十字路の角にはコンビニがある。そこで明日のために、牛乳とパンを買う。
 コンビニの道路を挟んだ角には、屋台のような果物屋がある。笠電球の下で、いつも黙って座っているお兄さんがいる。僕と目が合うと、少しはにかみながら顔を崩す。
 僕は今晩は、リンゴ1個とバナナ2個とミカン4個を買う。例えミカン1個でも、ここでは量りで料金が出てくる。合計、5.…元。僕は6元払った。彼は懸命に釣り銭を払おうとしたが、コンマ以下の何角(元の10分の1)かは僅かな額だったので、僕はいいからと言った。
 料金を払った後、ブドウが美味しそうなので、1房追加して買った。6.…元。すると、彼は、前のお返しと思ってか、料金をまけようとした。こんな安い料金なのに。それに、決して暴利を貪っているのではない。決して豊かではなく、どちらかと言えばささやかに生きているはずだろうに。
 純粋な人間は、どこにでもいるものだ。
 深夜まで、彼は黙って働いている。昨日も。おそらく、明日も。

 *

 日が暮れ始めた頃、アムステルダムといえば「飾り窓」だと思い出した。しかし、地図には飾り窓など載っていない。現地の人に、盛り場はどこかと何となく聞き出して、その界隈にたどり着いた。そこは、ダム広場からさほど遠くない、川(運河)を挟んだ通りにあり、普通の繁華街の延長上にあった。しかし、一歩その領域に入ると、すぐに空気が違うのを感じた。
 といっても、女性の観光客すら物珍しそうに歩いているところを見ると、「飾り窓」がアムステルダムのもはや観光ゾーンなのであろう。そこには、淫靡な性風俗地帯という暗い日陰の印象はない。
 私は歩きながら、映画『飾り窓の女』で主演したマリナ・ヴラディーを思い浮かべた。
 ――既刊『かりそめの旅』(岡戸一夫著)第11章「めぐり会いのフランス・イタリア」より
  本に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
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