上海の空はどんよりとしている。晴れているのに、霞がかかったように灰色だ。
この憂鬱そうな空が、ここは日本ではなくて上海なのだと教えてくれる。灰色の彼方に、青い空がきっとあるのだろう。
幸運なことに喉の調子はよくなったので、この埃っぽい灰色の空気にも平気でいられるが、僕が喘息だったらこの町からすぐに逃げ出していただろう。
10月17日、昼頃、ゆっくりと地下鉄で南京西路に行き、そこから人民広場の方に向かって歩き、1時ちょうどに上海美術館に着いた。
美術館は、クラシックで豪壮な建物で素晴らしい。この建物の前身は、康楽大飯店。美術館では中国近代美術展をやっているようだ。
入口前の椅子にしばらく座っていたが、館内には入らずに2時に美術館を離れた。僕は、何のためにここへ来たのか? 「君の名は?」
僕はどこから来たのか?
僕は何者か?
僕は、どこへ行こうとしているのか?
まるで、ゴーギャンの呟きである。
*
今日は、これから「豫園」にでも行くことにしよう。
豫園は明代の庭園で、庭園といえば中国文化の象徴ともいえる。イギリスの西洋庭園と東西の双璧をなすものだ。
地図を見ると豫園はここから南東の方にあり、少し時間はかかるが歩ける距離である。
昼食を食べていなかったので腹が減ったが、歩いていくうちに何かあるだろうと、人民広場まで行って、南の方へ向かった。公園の中の大きな近代的な建物にぶつかり、その前に出店のような食べ物を売っているのがあった。
ちゃんとした食べ物は後で食べることにし、とりあえず腹ごしらえにと、トウモロコシを買った。トウモロコシは粒が大きく色も黄色で美味しそうだった。しかし、食べてみるともっちりと硬く、味は薄い。全部食べるのに苦労した。全部食べる必要はなかったのだが、腹は減っていたのだった。
豫園に向かう金陵東路から脇に流れた路地に、食堂を見つけたので入った。
客は誰もいなく、店のおばさんが2人いて、僕にメニューを差し出した。すぐに 1人の男の客が入ってきて、僕の隣のテーブルに座った。
2人のおばさんは客にはお構いなしに、いつも大声で話していた。話していたというより、罵りあっていたように見えた。
僕がメニューから茄子飯を指さして注文すると、おばさんは何やら大声でどなった。中国語なので、何をどなっているのか分かりやしない。何度訊いてもどなるので、この料理はないのだろうと思って、違う咸菜飯を頼んだ。
出てきたのは高菜の辛し炒めご飯だった。10元。野菜とは思っていたが、咸菜とは高菜のことだったのだ。
すぐに、僕の隣の男に料理が出てきた。それを見ると、茄子炒めである。おばさんに、その茄子を指さし、次にメニューの茄子飯を指さし、これではないのかと言うと、おばさんは頷いた。
どうなっているのだ。僕は茄子飯が食べたかったのに、腑に落ちないまま、塩辛い高菜飯で我慢した。
*
だいぶん歩いたので疲れたが、どうやら豫園にたどり着いた。
豫園を囲むような人民路の通りから中に入ると、がらりと雰囲気が変わった。
古い宮殿風の建物が、道の両サイドに並んでいる。建築様式は古い中国風だが建物自体は新しく、どこもぴかぴかである。人も多い。
ここが豫園と思っていたら、ここは豫園の周辺にある観光客目当てのお店の並びだった。歩いていくと、土産物から料理店、スイートの店まで、様々な店が並んでいる。いわば商店街なのだが、まさに、チャイナ・オブ・チャイナとも言いたくなる、目をみはる典型的な中国風建物の街景観である。
日本にも、古い家並みを保存した町があるが、その比ではない。ここ豫園の店通りは、別世界のテーマパークのようだ。
豫園は、池を張り巡らした大きな庭園だった。
龍を形取った塀の前で、数人の西洋人に向かって「はい、チーズ」という声がした。こんな台詞を大声で言うのは日本人だろうと思い、その声の方を振り向くと、若い女性とその母親らしい女性がいた。
写真のシャッターを押してくれと頼まれたらしく、照れ笑いして、「チーズと言うのは日本だけかしら」と言ったあと、「はい、ポーズ、と言えばいいのかしら」と自問した。
僕が、「やはり日本人だ。いつまで上海に滞在しているんですか?」と訊くと、「明日、日本に帰る」と答えた。「では、いつから上海にいるのですか?」と訊いたら、「今日着いたの。名古屋からツアーで来たんです。ええ、1泊2日なの」と答えた。
僕は、驚いた。こんな短いツアーがあるんだ。それでいて、しっかり観光スポットはスケジュールで見てまわるんだろうなと思った。
*
明日は、上海を発って杭州に行くことにした。
杭州は、上海から南東の方に位置し、列車で2時間足らずのところにある、西湖という湖が有名な古い町である。
旅舎に戻って、カウンターで、チラシがあったので同じ青年旅舎の系列である杭州国際青年旅舎の予約を頼んだ。すると、中心街にある宿舎は今のところいっぱいで、明日昼の12時半がチェックアウト・タイムなので、その頃また電話してくれということであった。
仕方なく杭州の郊外にある同じ系列の宿舎に一応予約しておくことにした。しかし、そこは、地図を見ると街中からは相当遠く、アクセスはバスで動物園前に行き、そこからタクシーということだった。杭州の動物園に行く気はない。近くの多摩動物公園すら行ったことがないというのに。
*
夕食は、遅くなったが、初日にマリさんと一緒に行った西安食堂に行った。
顔を出すと、やあ、一人で来たのかいとばかりに笑顔が返ってきた。この前いた、店のお母さんやふっくらとした小姐やおばさんや娘までいる。息子もなぜか店の中をうろうろしている。
主(あるじ)も、やあまた来たなといった表情で顔を出した。
ここでは、2度来ると、もう馴染み客だ。
何を頼む?と、僕にメニューを差しだし、僕の反応に、みんな興味津々だ。
僕は、メニューと、周りの客の食事を見ながら、しばし考え込む。客も、僕が何を頼むかそっと見ている。僕が、会話単語帳の料理の項を開いて、たどたどしく「清給我睥(似字)酒」(チンゲイウォビージュ、ビールをください)などと言うと、みんながよくできましたといった表情で、にっこり笑う。
メニューをじっくり見ると、そこにあるではないか。昼間食べ損なった茄子炒が。
そこで頼んだのが次のもの。
茄子炒、7元。
土豆刀豆、7元。土豆はジャガイモで、刀豆は刀のように細長い莢豌豆だ。
紅肉辛炒。肉の炒め物だが、量が多いので2分の1にしてもらい8元。
それに、飯1杯。
ビール(睥(似字)酒)を頼むと、にこにこしながら、若いのか老けているのか分からないぽっちゃりした小姐が、ビール持ってきて、これを見てとばかりにラベルを指さした。そこには、富士山が描かれていた。僕が、富士山と言ってにっこりすると、その小姐もうんうんと、にこにこした。
三徳利という銘柄で、製造元を見ると日本のサントリーだった。
僕が、料理をつまみ、ビールを飲みながら会話単語帳を見ていると、お母さんが何が書いてあるのかと、のぞき込む。そして、中国語を見て、頷いている。
料理を作り終えた主(あるじ)が、僕のテーブルにやってきて、メモ用紙での筆談が始まる。やはり店の名の通り、西安から来たということだ。西安は中国の内陸部で、上海からかなり遠い。
店の人は、家族と親類の人だった。やはり、親族なのだ。みんな仲がよさそうだ。
「中国は初めて?」、「いつまで上海にいるの?」といった質問がある。
筆談は、漢字だがやはり難しい。殆ど分からないが、想像で何となく分かったような分からないような感じで受け答えする。それでも、和気あいあいだ。
そのうち客も帰って、僕と店の人たちばかりとなった。
明日から、杭州と蘇州に行くつもりだ、だがまた上海には戻ってくるよと、彼らに紙に書いた。そして、僕は、記念に店の人の写真を撮った。この店の夫婦と子供たち、それにここで働く親類の人たち、驚いたことに、この小さな店に7人もいた。(写真)
写真を送ると言ったら、各々の分、8枚送ってくれと注文された。OK。
帰りに「埋単」(マイダン、勘定)と言うと、25元だと言った。僕が、料金があまりにも少ないので、ビールも飲んでいると言ったら、主(あるじ)が僕の顔を見て、「朋友」と、紙に書いた。
僕は、その文字を見て、悲しいぐらい嬉しくなって、30元をテーブルに置いて、店を出た。
僕は思い出していた。
「朋(とも)遠方より来たるあり、また楽しからずや」という孔子の言葉を。
この憂鬱そうな空が、ここは日本ではなくて上海なのだと教えてくれる。灰色の彼方に、青い空がきっとあるのだろう。
幸運なことに喉の調子はよくなったので、この埃っぽい灰色の空気にも平気でいられるが、僕が喘息だったらこの町からすぐに逃げ出していただろう。
10月17日、昼頃、ゆっくりと地下鉄で南京西路に行き、そこから人民広場の方に向かって歩き、1時ちょうどに上海美術館に着いた。
美術館は、クラシックで豪壮な建物で素晴らしい。この建物の前身は、康楽大飯店。美術館では中国近代美術展をやっているようだ。
入口前の椅子にしばらく座っていたが、館内には入らずに2時に美術館を離れた。僕は、何のためにここへ来たのか? 「君の名は?」
僕はどこから来たのか?
僕は何者か?
僕は、どこへ行こうとしているのか?
まるで、ゴーギャンの呟きである。
*
今日は、これから「豫園」にでも行くことにしよう。
豫園は明代の庭園で、庭園といえば中国文化の象徴ともいえる。イギリスの西洋庭園と東西の双璧をなすものだ。
地図を見ると豫園はここから南東の方にあり、少し時間はかかるが歩ける距離である。
昼食を食べていなかったので腹が減ったが、歩いていくうちに何かあるだろうと、人民広場まで行って、南の方へ向かった。公園の中の大きな近代的な建物にぶつかり、その前に出店のような食べ物を売っているのがあった。
ちゃんとした食べ物は後で食べることにし、とりあえず腹ごしらえにと、トウモロコシを買った。トウモロコシは粒が大きく色も黄色で美味しそうだった。しかし、食べてみるともっちりと硬く、味は薄い。全部食べるのに苦労した。全部食べる必要はなかったのだが、腹は減っていたのだった。
豫園に向かう金陵東路から脇に流れた路地に、食堂を見つけたので入った。
客は誰もいなく、店のおばさんが2人いて、僕にメニューを差し出した。すぐに 1人の男の客が入ってきて、僕の隣のテーブルに座った。
2人のおばさんは客にはお構いなしに、いつも大声で話していた。話していたというより、罵りあっていたように見えた。
僕がメニューから茄子飯を指さして注文すると、おばさんは何やら大声でどなった。中国語なので、何をどなっているのか分かりやしない。何度訊いてもどなるので、この料理はないのだろうと思って、違う咸菜飯を頼んだ。
出てきたのは高菜の辛し炒めご飯だった。10元。野菜とは思っていたが、咸菜とは高菜のことだったのだ。
すぐに、僕の隣の男に料理が出てきた。それを見ると、茄子炒めである。おばさんに、その茄子を指さし、次にメニューの茄子飯を指さし、これではないのかと言うと、おばさんは頷いた。
どうなっているのだ。僕は茄子飯が食べたかったのに、腑に落ちないまま、塩辛い高菜飯で我慢した。
*
だいぶん歩いたので疲れたが、どうやら豫園にたどり着いた。
豫園を囲むような人民路の通りから中に入ると、がらりと雰囲気が変わった。
古い宮殿風の建物が、道の両サイドに並んでいる。建築様式は古い中国風だが建物自体は新しく、どこもぴかぴかである。人も多い。
ここが豫園と思っていたら、ここは豫園の周辺にある観光客目当てのお店の並びだった。歩いていくと、土産物から料理店、スイートの店まで、様々な店が並んでいる。いわば商店街なのだが、まさに、チャイナ・オブ・チャイナとも言いたくなる、目をみはる典型的な中国風建物の街景観である。
日本にも、古い家並みを保存した町があるが、その比ではない。ここ豫園の店通りは、別世界のテーマパークのようだ。
豫園は、池を張り巡らした大きな庭園だった。
龍を形取った塀の前で、数人の西洋人に向かって「はい、チーズ」という声がした。こんな台詞を大声で言うのは日本人だろうと思い、その声の方を振り向くと、若い女性とその母親らしい女性がいた。
写真のシャッターを押してくれと頼まれたらしく、照れ笑いして、「チーズと言うのは日本だけかしら」と言ったあと、「はい、ポーズ、と言えばいいのかしら」と自問した。
僕が、「やはり日本人だ。いつまで上海に滞在しているんですか?」と訊くと、「明日、日本に帰る」と答えた。「では、いつから上海にいるのですか?」と訊いたら、「今日着いたの。名古屋からツアーで来たんです。ええ、1泊2日なの」と答えた。
僕は、驚いた。こんな短いツアーがあるんだ。それでいて、しっかり観光スポットはスケジュールで見てまわるんだろうなと思った。
*
明日は、上海を発って杭州に行くことにした。
杭州は、上海から南東の方に位置し、列車で2時間足らずのところにある、西湖という湖が有名な古い町である。
旅舎に戻って、カウンターで、チラシがあったので同じ青年旅舎の系列である杭州国際青年旅舎の予約を頼んだ。すると、中心街にある宿舎は今のところいっぱいで、明日昼の12時半がチェックアウト・タイムなので、その頃また電話してくれということであった。
仕方なく杭州の郊外にある同じ系列の宿舎に一応予約しておくことにした。しかし、そこは、地図を見ると街中からは相当遠く、アクセスはバスで動物園前に行き、そこからタクシーということだった。杭州の動物園に行く気はない。近くの多摩動物公園すら行ったことがないというのに。
*
夕食は、遅くなったが、初日にマリさんと一緒に行った西安食堂に行った。
顔を出すと、やあ、一人で来たのかいとばかりに笑顔が返ってきた。この前いた、店のお母さんやふっくらとした小姐やおばさんや娘までいる。息子もなぜか店の中をうろうろしている。
主(あるじ)も、やあまた来たなといった表情で顔を出した。
ここでは、2度来ると、もう馴染み客だ。
何を頼む?と、僕にメニューを差しだし、僕の反応に、みんな興味津々だ。
僕は、メニューと、周りの客の食事を見ながら、しばし考え込む。客も、僕が何を頼むかそっと見ている。僕が、会話単語帳の料理の項を開いて、たどたどしく「清給我睥(似字)酒」(チンゲイウォビージュ、ビールをください)などと言うと、みんながよくできましたといった表情で、にっこり笑う。
メニューをじっくり見ると、そこにあるではないか。昼間食べ損なった茄子炒が。
そこで頼んだのが次のもの。
茄子炒、7元。
土豆刀豆、7元。土豆はジャガイモで、刀豆は刀のように細長い莢豌豆だ。
紅肉辛炒。肉の炒め物だが、量が多いので2分の1にしてもらい8元。
それに、飯1杯。
ビール(睥(似字)酒)を頼むと、にこにこしながら、若いのか老けているのか分からないぽっちゃりした小姐が、ビール持ってきて、これを見てとばかりにラベルを指さした。そこには、富士山が描かれていた。僕が、富士山と言ってにっこりすると、その小姐もうんうんと、にこにこした。
三徳利という銘柄で、製造元を見ると日本のサントリーだった。
僕が、料理をつまみ、ビールを飲みながら会話単語帳を見ていると、お母さんが何が書いてあるのかと、のぞき込む。そして、中国語を見て、頷いている。
料理を作り終えた主(あるじ)が、僕のテーブルにやってきて、メモ用紙での筆談が始まる。やはり店の名の通り、西安から来たということだ。西安は中国の内陸部で、上海からかなり遠い。
店の人は、家族と親類の人だった。やはり、親族なのだ。みんな仲がよさそうだ。
「中国は初めて?」、「いつまで上海にいるの?」といった質問がある。
筆談は、漢字だがやはり難しい。殆ど分からないが、想像で何となく分かったような分からないような感じで受け答えする。それでも、和気あいあいだ。
そのうち客も帰って、僕と店の人たちばかりとなった。
明日から、杭州と蘇州に行くつもりだ、だがまた上海には戻ってくるよと、彼らに紙に書いた。そして、僕は、記念に店の人の写真を撮った。この店の夫婦と子供たち、それにここで働く親類の人たち、驚いたことに、この小さな店に7人もいた。(写真)
写真を送ると言ったら、各々の分、8枚送ってくれと注文された。OK。
帰りに「埋単」(マイダン、勘定)と言うと、25元だと言った。僕が、料金があまりにも少ないので、ビールも飲んでいると言ったら、主(あるじ)が僕の顔を見て、「朋友」と、紙に書いた。
僕は、その文字を見て、悲しいぐらい嬉しくなって、30元をテーブルに置いて、店を出た。
僕は思い出していた。
「朋(とも)遠方より来たるあり、また楽しからずや」という孔子の言葉を。
三徳利しかなくてびっくりしました。
コンビニでもアサヒは高くて三徳利は安いから
なぜかなぁと思ってました。
私は日本語しか話せないのに、空港着から1人だから事前にネットで調べまくりでした。
やりたい事は全部するぞって勢いだったので
朝は2日とも公園で太極拳・名物の(?)椅子に座ったままのシャンプー・小籠包とフカヒレを食べる
台湾式マッサージもして、もちろん買い物など予定以上に完全燃焼でした
現地に住んでいると思われたようで、日本人観光客から何度も聞かれたのが面白かったです
せっかくだから夜市は二晩別の場所に行って満喫しました。夜市では偶然かもしれないけれど
ビールを飲んでる人が居なかったので近くのコンビニでビール買って持ち込みしちゃいました
逆に1人でタクシーは怖いかと思って1度のみ、他はバスと地下鉄で行動しました。
どこに行っても親切な人ばかりで、とても楽しかったです
若かったから出来たけれど、今さらながら良く無事で帰れたなと思います
中国のビールは、どこのも軽くてどんどん飲めますね。僕は、雪花をよく飲みました。有名な青島はあまり見ませんでした。
中国人は、あまりビールを飲みませんね。食堂では、僕以外飲んでいる人はいませんでした。
台湾は、中国本土の人よりも、親日家が多いです。
それに、戦前生まれの人は日本語をしゃべれる人が結構いますし。
やはりフリーの旅が、不安や危険はあるけれど、後で振り返ると印象が強い旅になると思います。