杭州から蘇州へやってきた。
10月20日、蘇州の旅舎で目を覚ます。
窓のない部屋は、朝かどうか分からない。時計を見て、朝を確認する。
こんな若者が泊まる味気ないホテルも、海外ひとり旅には格好の舞台と思えば心が晴れる。ただベッドがあるだけの単純な空間が、未知へのエネルギーを孕んでいるのだ。冒険を目指すには年をとりすぎたが、若いときは、こんな部屋にも言いしれぬ夢が満ちていたものだ。そして、そこから未知へ旅が始まった。
蘇州は、長江(揚子江)の南、つまり江南の主要都市として古くから栄えた古都である。
春秋時代(紀元前6世紀)の呉の都から出発し、隋の時代(6世紀)に呉州より蘇州となった。
古くから、「杭州には西湖の美があり、蘇州には園林の景勝がある」と言われてきた。つまり、蘇州は運河が縦横に張り巡らしてあるので、東洋のヴェネティアと呼ばれているが、それより有名なのは数多くの庭園なのである。
現在、蘇州にある拙政園、留園など9庭園が世界遺産となっている。なかでも、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つを、「蘇州四大園林」ともいう。
窓のない旅舎の部屋で、昨晩、街を歩いている途中のスーパーマーケットで買った牛乳と菓子パン、それに洋梨とミカン1個を食べて外へ出る。
まずは、最も有名で大きいと言われている「拙政園」を見ようと出かけた。
地図を見ると、拙政園は街の北にあり、南にある旅舎のある十全街からは街を縦断するほど遠く、歩ける距離でない。
バス停を探して、バスで向かうことにした。
中国のバスは、数字で行き先が分かれていて、バスは頻繁に走っているのだが、行き先に行き着くバスナンバーを見つけるのが大変である。やっと近くの蘇州博物館に行くバスを見つけて、そこから拙政園に着いた。
この庭は、明の高官王献臣が、中央で失脚後にこの地に造ったものだ。
「拙政園」という名前が面白い。この名は、藩岳の詩「閑居賦」の一節の、「拙(つたな)い者が政(まつりごと)をするは、悠々自適、閑居を楽しむことなり」から来ているとされる。
また、収賄で溜めた金で造ったのを自嘲的につけたという説もある。
彼を皮肉って言った言葉が名として残ったとなると、それこそ皮肉なものだが、それはそれで面白い。
庭は広大で、緑の散歩道が続く。面積は5万㎡とあるから、東京ドームより大きいことになる。行く先々に、堀があり、池があって、水が存分にあるのが、この庭が落ち着く源になっている。
堀には木の小船がひっそりと浮かべてあり、ことさら情緒を誘う。(写真)
庭園の持ち主は、この小船に楊貴妃のような美女の愛人を乗せて、庭の花々を見ながら戯れの余生を送ったのであろうか。
庭は、いくつかに分かれていて、そこには仕切の白塀があり、その塀に刳り抜かれた出入り口が丸いのも、足を止めた。遊び心もある。
藤棚のような一角があった。それは、薔薇科の白木香と書かれていた。頭の上に、屋根状に白い薔薇の花が咲き誇っていたらと想像し、その季節でないのを惜しんだ。それに、薔薇科なのに枝に棘がないので、その蔦状の小枝が垂れてきて、身体にまとわりついたところで痛くなく、もし美女と寄り添ってでもいたら、逆に白い花が二人の仲を後押しし、心地いいに違いない。
樹齢120年と書かれている。新しいとは思わないが、相当古いと言えるのだろうか。分からない樹齢だ。その葉を千切って、本に挟んだ。いけないことだ。
*
拙政園のすぐ近くに「獅子林」の庭園がある。歩いて数分ぐらいで行ける距離だ。
獅子林は元代の庭園だ。太湖から引き揚げられた、ごつごつした白い石で造られている。園内の石が獅子に似ているから名づけられたようだ。
石の庭は情緒的でないので、僕の好みではない。日本の枯山水も、このあたりからきたのだろうか。この石の庭を、物語的に、はたまた怪奇的に装飾したら、香港のタイガーバーム・ガーデンに行き着くのだろう。
獅子林を出て、通りの食堂に入った。
主人が1人出てきた。昼食の時間帯を過ぎていたので、客は誰もいない。ここは、無難な料理を頼んだ。
青椒肉絲飯。ピーマンと肉の細切り炒めとご飯、10元。
僕が食事をしている間、店の主人はカウンターの中で熱心にテレビを見ていた。そのとき、「はい」と言う甲高い声が、画面の中から続けざまに聞こえた。テレビを覗くと、戦争ドラマであった。第2次世界大戦時のドラマのようで、日本兵が上官に向かって直立不動で返事しているのであった。
上海の仲よくなった西安食堂で、筆談で、僕が日本人だと書いたときに、食堂のお父さんが、「日本人ですか、ハイ、ハイ」、と直立して、大きな声で返事をしたのを思い出した。そのハイに、僕も、みんなと一緒に笑った。そのときは単に、日本人は几帳面にハイと返事するものと一般的な中国人は思っているのだ、と解釈していた。
あのときのハイという甲高い言葉は、このドラマでの日本人の言葉だったのかと、僕は少し嫌な気分になった。中国の戦争ドラマで、日本の兵隊がいい描かれ方をされているはずはないと思ったからだ。
まあ、仕方がない。確かに戦前に日本は中国でいいことをしたとは思えないから。
食堂を出て、留園に行こうと思った。
「留園」は、明代に造園し、清代に改造されて今日の庭園になった。
地図を見ると、留園は、外堀である外城河の西の郊外にあった。とにかく行ってみよう。夕方5時頃には着くだろう。
留園には、どのバスに乗ったらいいか分からない。とにかく、最寄りのバス停に行って、待っている人にガイドブックを見せながら、乗るバス路線を訊いてみた。しかし、何人かに訊いたが、答えが出てこない。一生懸命に考えてはくれているのだが。
やっと1人の若者が、自分の詳しい地図帳を取り出して、留園の直行ではないが、最寄りのバス停に行くバス路線を教えてくれた。そこで降りれば、留園までは歩いてすぐですよと言った。そして、自分もその先に行くので、僕が乗るバスに乗ればいいと言って、乗るバスを教えてくれた。
つまり、留園行きの直行バスは、そのバス停からは出ていなかった。そんなことはよくあることで、バスの乗り継ぎをしないといけないのだが、地元の人でもこの乗り継ぎは簡単には分からないのだろう。これだから、バスはやっかいだ。
若者に言われた楓橋路で下りたところは、郊外といっても意外と開けていた。蘇州は、奥行きが広い。
そこから歩いて、やっと留園にたどり着いた。すると、庭の入口の門は閉まっていた。受付の案内板には、閉園は夏5時30分、冬5時と書いてある。時計を見ると、すでに5時半である。
仕方ない。バスを見つけるのに時間を取ってしまった。
閉園後の留園の周りは、寂しい空気が漂っている。再び、大通りのバス停に向かうことにした。
歩きながら思った。僕の旅は、目的地に着くのではなく、その過程にあるのだと。目的地に行くのが目的であれば、タクシーに乗ればよかった。そうすると、きっと閉園前に着き、慌ただしくても庭の中を見て回れただろう。
でも、目的地に行く過程を僕は旅しているのだと、自分を納得させた。留園は明日また来ればいい。
僕は、再び蘇州の中心街へ戻ることにした。
10月20日、蘇州の旅舎で目を覚ます。
窓のない部屋は、朝かどうか分からない。時計を見て、朝を確認する。
こんな若者が泊まる味気ないホテルも、海外ひとり旅には格好の舞台と思えば心が晴れる。ただベッドがあるだけの単純な空間が、未知へのエネルギーを孕んでいるのだ。冒険を目指すには年をとりすぎたが、若いときは、こんな部屋にも言いしれぬ夢が満ちていたものだ。そして、そこから未知へ旅が始まった。
蘇州は、長江(揚子江)の南、つまり江南の主要都市として古くから栄えた古都である。
春秋時代(紀元前6世紀)の呉の都から出発し、隋の時代(6世紀)に呉州より蘇州となった。
古くから、「杭州には西湖の美があり、蘇州には園林の景勝がある」と言われてきた。つまり、蘇州は運河が縦横に張り巡らしてあるので、東洋のヴェネティアと呼ばれているが、それより有名なのは数多くの庭園なのである。
現在、蘇州にある拙政園、留園など9庭園が世界遺産となっている。なかでも、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つを、「蘇州四大園林」ともいう。
窓のない旅舎の部屋で、昨晩、街を歩いている途中のスーパーマーケットで買った牛乳と菓子パン、それに洋梨とミカン1個を食べて外へ出る。
まずは、最も有名で大きいと言われている「拙政園」を見ようと出かけた。
地図を見ると、拙政園は街の北にあり、南にある旅舎のある十全街からは街を縦断するほど遠く、歩ける距離でない。
バス停を探して、バスで向かうことにした。
中国のバスは、数字で行き先が分かれていて、バスは頻繁に走っているのだが、行き先に行き着くバスナンバーを見つけるのが大変である。やっと近くの蘇州博物館に行くバスを見つけて、そこから拙政園に着いた。
この庭は、明の高官王献臣が、中央で失脚後にこの地に造ったものだ。
「拙政園」という名前が面白い。この名は、藩岳の詩「閑居賦」の一節の、「拙(つたな)い者が政(まつりごと)をするは、悠々自適、閑居を楽しむことなり」から来ているとされる。
また、収賄で溜めた金で造ったのを自嘲的につけたという説もある。
彼を皮肉って言った言葉が名として残ったとなると、それこそ皮肉なものだが、それはそれで面白い。
庭は広大で、緑の散歩道が続く。面積は5万㎡とあるから、東京ドームより大きいことになる。行く先々に、堀があり、池があって、水が存分にあるのが、この庭が落ち着く源になっている。
堀には木の小船がひっそりと浮かべてあり、ことさら情緒を誘う。(写真)
庭園の持ち主は、この小船に楊貴妃のような美女の愛人を乗せて、庭の花々を見ながら戯れの余生を送ったのであろうか。
庭は、いくつかに分かれていて、そこには仕切の白塀があり、その塀に刳り抜かれた出入り口が丸いのも、足を止めた。遊び心もある。
藤棚のような一角があった。それは、薔薇科の白木香と書かれていた。頭の上に、屋根状に白い薔薇の花が咲き誇っていたらと想像し、その季節でないのを惜しんだ。それに、薔薇科なのに枝に棘がないので、その蔦状の小枝が垂れてきて、身体にまとわりついたところで痛くなく、もし美女と寄り添ってでもいたら、逆に白い花が二人の仲を後押しし、心地いいに違いない。
樹齢120年と書かれている。新しいとは思わないが、相当古いと言えるのだろうか。分からない樹齢だ。その葉を千切って、本に挟んだ。いけないことだ。
*
拙政園のすぐ近くに「獅子林」の庭園がある。歩いて数分ぐらいで行ける距離だ。
獅子林は元代の庭園だ。太湖から引き揚げられた、ごつごつした白い石で造られている。園内の石が獅子に似ているから名づけられたようだ。
石の庭は情緒的でないので、僕の好みではない。日本の枯山水も、このあたりからきたのだろうか。この石の庭を、物語的に、はたまた怪奇的に装飾したら、香港のタイガーバーム・ガーデンに行き着くのだろう。
獅子林を出て、通りの食堂に入った。
主人が1人出てきた。昼食の時間帯を過ぎていたので、客は誰もいない。ここは、無難な料理を頼んだ。
青椒肉絲飯。ピーマンと肉の細切り炒めとご飯、10元。
僕が食事をしている間、店の主人はカウンターの中で熱心にテレビを見ていた。そのとき、「はい」と言う甲高い声が、画面の中から続けざまに聞こえた。テレビを覗くと、戦争ドラマであった。第2次世界大戦時のドラマのようで、日本兵が上官に向かって直立不動で返事しているのであった。
上海の仲よくなった西安食堂で、筆談で、僕が日本人だと書いたときに、食堂のお父さんが、「日本人ですか、ハイ、ハイ」、と直立して、大きな声で返事をしたのを思い出した。そのハイに、僕も、みんなと一緒に笑った。そのときは単に、日本人は几帳面にハイと返事するものと一般的な中国人は思っているのだ、と解釈していた。
あのときのハイという甲高い言葉は、このドラマでの日本人の言葉だったのかと、僕は少し嫌な気分になった。中国の戦争ドラマで、日本の兵隊がいい描かれ方をされているはずはないと思ったからだ。
まあ、仕方がない。確かに戦前に日本は中国でいいことをしたとは思えないから。
食堂を出て、留園に行こうと思った。
「留園」は、明代に造園し、清代に改造されて今日の庭園になった。
地図を見ると、留園は、外堀である外城河の西の郊外にあった。とにかく行ってみよう。夕方5時頃には着くだろう。
留園には、どのバスに乗ったらいいか分からない。とにかく、最寄りのバス停に行って、待っている人にガイドブックを見せながら、乗るバス路線を訊いてみた。しかし、何人かに訊いたが、答えが出てこない。一生懸命に考えてはくれているのだが。
やっと1人の若者が、自分の詳しい地図帳を取り出して、留園の直行ではないが、最寄りのバス停に行くバス路線を教えてくれた。そこで降りれば、留園までは歩いてすぐですよと言った。そして、自分もその先に行くので、僕が乗るバスに乗ればいいと言って、乗るバスを教えてくれた。
つまり、留園行きの直行バスは、そのバス停からは出ていなかった。そんなことはよくあることで、バスの乗り継ぎをしないといけないのだが、地元の人でもこの乗り継ぎは簡単には分からないのだろう。これだから、バスはやっかいだ。
若者に言われた楓橋路で下りたところは、郊外といっても意外と開けていた。蘇州は、奥行きが広い。
そこから歩いて、やっと留園にたどり着いた。すると、庭の入口の門は閉まっていた。受付の案内板には、閉園は夏5時30分、冬5時と書いてある。時計を見ると、すでに5時半である。
仕方ない。バスを見つけるのに時間を取ってしまった。
閉園後の留園の周りは、寂しい空気が漂っている。再び、大通りのバス停に向かうことにした。
歩きながら思った。僕の旅は、目的地に着くのではなく、その過程にあるのだと。目的地に行くのが目的であれば、タクシーに乗ればよかった。そうすると、きっと閉園前に着き、慌ただしくても庭の中を見て回れただろう。
でも、目的地に行く過程を僕は旅しているのだと、自分を納得させた。留園は明日また来ればいい。
僕は、再び蘇州の中心街へ戻ることにした。
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