*1.君だけに愛を――歌謡史に残るスーパースターは誰か
若いときフランスにカブレたときはシャンソンに酔い、雑誌編集者時代には仕事の流れでロックに触れ、年をとってクラシックに浸ったりしているが、僕の根底を流れているのは歌謡曲である。
戦後、歌謡史を彩った歌手は、思い浮かべただけでも数えきれないほどあまたいる。その綺羅星のなかで、誰が後世まで歌謡史に残るスーパースターだろうかと考えることがある。
戦前から活躍していた藤山一郎、高峰三枝子など、また近年のAKB48やイグザイルなどのグループは除いた歌手(ソロシンガー)としての対象で、ナンバーワンを一人あげるとすれば誰だろう。個人的好みも入れて考えてみた。
女性歌手をあげて見よう。
美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、(ザ・ピーナツ)、越路吹雪、由紀さおり、藤圭子、松任谷由実、中島みゆき、テレサ・テン、山口百恵、森昌子、松田聖子、宇多田ヒカル……
女性の歌手は、どう見ても戦後からずっと昭和の歌謡界をリードしてきて、女王と呼ばれた美空ひばりに異存はない。
男性歌手をあげてみよう。
三波春夫、村田英雄、三橋美智也、坂本九、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦(御三家)、北島三郎、森進一、五木ひろし、布施明、沢田研二、郷ひろみ・野口五郎・西城秀樹(新御三家)、井上陽水、吉田拓郎、福山雅治……
男性歌手は、好きなジャンルや世代によって微妙に違ってくるだろう。
しかし半世紀ばかりを振り返ってみると、1960年代後半のGS(グループ・サウンズ)ブームの人気の中心にいたタイガースの時代から、70年代、80年代にはトップシンガーとして異色の光彩を放っていたジュリーこと沢田研二は、他の歌手と比較できない存在だったと思える。
彼の歌を聴けば、その華麗なファッションや振る舞い、背景から、個人的な思い出を超えてその時代を思いおこさせるものがある。言い換えれば、ジュリーは「時代」そのものだったと言えよう。
頂点を極めた人気、オリジナル性、大衆性、多面性、ライブの持続性、これらを鑑みれば、誰もが彼にとって代われるとは思われないのだ。
*2.追憶――ジュリーの音楽シーン
沢田研二の音楽活動を簡単に列記してみた。
沢田研二がデビューしたのは、1967(昭和42)年GS(グループ・サウンズ)の「ザ・タイガース」のヴォーカルとしてだった。
1967年2月、「僕のマリー」(詞:橋本淳、曲:すぎやまこういち)でデビュー。
その後ザ・タイガース時代の主なヒット曲を列挙してみる。
「シーサイド・バウンド」
「モナリザの微笑」
「君だけに愛を」
「銀河のロマンス」
「シー・シー・シー」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)
「青い鳥」
「ラブ・ラブ・ラブ」
この時代、沢田研二が影響を受けたと思われるザ・ワイルド・ワンズの加瀬邦彦が曲作りに参加し、沢田のファンであった作詞家の安井かずみも詞を作っている。
GS(グループ・サウンズ)は歌謡史に一時代を期する熱狂的なブームとなったが、長く続くことはなく、その人気トップにあったザ・タイガースも1971(昭和46)年1月、日本武道館での「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でもって解散する。
新たな混成グループPYGを経て、沢田研二はソロ活動に入る。
1971年11月、「君をのせて」(詞:岩谷時子、曲:宮川泰)でソロ・デビュー。
1972年3月発売の「許されない愛」(詞:山上路夫 作曲:加瀬邦彦)がオリコン4位を記録し、ソロとして初のオリコントップ10入り。同年「NHK紅白歌合戦」に初出場。
1973年、「危険なふたり」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)でソロ初のオリコン1位を獲得し、第4回日本歌謡大賞を受賞
1974年、「追憶」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)で2曲目のオリコン1位を獲得。
1975年にはシングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。
あまり日本では知られていないが、沢田がフランス語で歌ったアルバムが出ている。「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」は、そのなかの曲である。いわゆる和製フレンチ・ポップスで悪くない。この時期、アメリカでなくてフランス進出とは、さすがジュリーというほかない。高田賢三や三宅一生、森英恵らが日本人デザイナーの先駆けとして、パリ・コレクションに参加しだした時期である。
同1975年、TBSドラマ「悪魔のようなあいつ」で、主演の沢田が歌う挿入歌「時の過ぎゆくままに」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)がオリコン1位。その後も沢田の作曲を多く手掛ける大野克夫は、元ザ・スパイダースのメンバーだ。
1976年、「コバルトの季節の中で」( 作詞:小谷夏(久世光彦)、作曲::沢田研二)、
「立ちどまるなふりむくな」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)、
「ウィンクでさよなら」(詞:荒井由実、曲:加瀬邦彦)。
1977年、「さよならをいう気もない」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)。
同年発売の「勝手にしやがれ」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)でソロとして4曲目のオリコン1位。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。
1978年、「サムライ」、
同年「LOVE (抱きしめたい)」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)で第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦でトリをつとめる(対抗の女性歌手は山口百恵)。
1979年、「カサブランカ・ダンディ」。
1980年、「TOKIO」(詞:糸井重里、曲:加瀬邦彦)、
「恋のバッド・チューニング」(詞:糸井重里、曲:加瀬邦彦)。
1981年に沢田研二のサポート・バンドEXOTICSを相次いで編成。同年、「渚のラブレター」(詞:三浦徳子、曲:沢田研二)。
以前にも沢田自身の作曲の歌はあったが、このころから、積極的に作曲も手掛ける。ヒット曲から、作曲の才能もなかなかであることがわかる。
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(詞:三浦徳子、曲:沢田研二)、
1982年、「麗人」(詞:阿久悠、曲:沢田研二)、
「おまえにチェックイン」(詞: 柳川英巳、曲:大沢誉志幸)、
「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」(詞:三浦徳子、曲:西平彰)。
1981年、瞳みのるを除くメンバーでザ・タイガースが10年ぶりに再結成。同年秋、「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年2枚目のシングル「色つきの女でいてくれよ」を発売、武道館を含む全国ツアーを行う。
1985年、半年間の休養を経て渡辺プロダクションから独立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍。移籍第1弾は、「灰とダイヤモンド」。作詞・作曲者の「李花幻(りかげん)」は「いいかげん」をもじった沢田本人のペンネームである。
同年、自叙伝「我が名は、ジュリー」(玉村豊男編、中央公論社)を出版。
1989(平成元)年のNHK紅白歌合戦では、沢田自身とザ・タイガースでも出演し、「1回に別名義で2度出場する」という珍しい記録も達成している。
1995年、「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とセルフ・プロデュースを宣言し、アルバム「sur←」を発表。
2002年、自主レコード・レーベルとなる「JULIE LABEL」を設立。
2008年、「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催。このステージで、1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌う。
2011年、元ザ・タイガースのドラムス瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らのメンバーと共に全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結した。
2013年12月、日本武道館にてザ・タイガースのオリジナル・メンバーによるコンサートが44年ぶりに行われた。
沢田研二は、ソロ・デビュー以来、毎年新作アルバムを発表し続けている。これは、画期的なことである。
*3.思いきり気障な人生――歌手を超えて映画やドラマにも
僕はイケメンという言葉を使わない。謂れが品のない流行り言葉の日本語だ。
沢田研二は「美男子」だ。「ハンサム」(handsome)では収まらない。フランス語で言えば、「ボー・ギャルソン」(beau garçon)。韓国語では「コッミナム」(花美男)の言葉が相応しい。
沢田は、日本人では珍しい、気障な振る舞いが様になる「色男」である。
だから、ヴィジュアルに重点を置く映像の世界でも、彼をほってはおかなかった。歌手としてだけでなく、沢田は映画やテレビドラマにも数多く出演している。それも、妖艶な男の役が多いのは当代随一の美男子だった証左だろう。
ザ・タイガース時代には、「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」(1968年)ほかアイドル映画を3本撮っている。
1974年、「炎の肖像」(監督:藤田敏八、加藤彰)で、単独での映画初主演。
1979年、「太陽を盗んだ男」(監督:長谷川和彦)では、原爆を作る理科系教師役を主演した。この作品はキネマ旬報ベストテンの2位、キネマ旬報読者選出日本映画ベストテン第1位となり、主演した沢田は第4回報知映画祭・主演男優賞を受賞した。また、2009年度「キネマ旬報オールタイムベスト映画遺産200」における「日本映画篇」では、日本映画史上ベストテン第7位となっている。
1981年、「魔界転生」(監督:深作欣二)では、天草四郎時貞を演じた。
1982年年末公開の「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(監督:山田洋次)に出演し、共演した田中裕子と後に結婚する。
1991年「夢二」(監督:鈴木清順 )では 竹久夢二を演じ、坂東玉三郎と共演。作品は、キネマ旬報ベストテンの11位。
テレビドラマも数多く出演している。
1973年、上村一夫原作の当時若者に大人気だった漫画「同棲時代」のテレビ化で、テレビドラマ初主演。 脚本は山田太一。
1975年、先にあげた、3億円事件を題材にしたテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」(原作:阿久悠、上村一夫、 脚本:長谷川和彦、演出:久世光彦ほか)では主演、同時に主題歌の「時の過ぎゆくままに」が大ヒットした。
1980年、テレビドラマ「源氏物語」(脚本:向田邦子、演出:久世光彦)では、光源氏役で主演。
NHK朝ドラである「連続テレビドラマ」では、「山河燃ゆ」(1984年)、「はね駒」(1986年)ほか多数出演している。
舞台でも、音楽劇「ACT」シリーズを長年行っていた。
近年では、2014年と16年、「悪名」の朝吉役でも主演した。
*4.時の過ぎゆくままに――不死鳥のごとくライブ復活
現在、「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」の全国公演が終わりに近づいたが、行われている。
10月末、詳しく書けば10月28日、僕は配布されたばかりの多摩市の文化施設である「パルテノン多摩」の公演スケジュールが掲載されているパンフレットの「NEWS 2017.11‐12」を見ていた。
この4つ折りのPR紙の表紙2ページ分には、翌(2018)年3月公演の大友直人指揮、読売交響楽団、ヴァイオリン前橋汀子のクラシック音楽の告知が大々的に仰々しいぐらいの大きさで載っている。
この情報パンフの裏ページの末席に、ホール会場スケジュールの施設利用情報欄がある。大小各ホールの利用日程表で、各1行の告知となっていて、市民団体や近辺大学や音楽教室などの演奏会・発表会が多く、その多くは入場無料だ。
このパンフは2か月に1回発行の隔月刊なので、10月末日発行分は11月と12月のホール施設利用が載っている。そのなかで、12月7日(木)の日に、「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」と書いてあるではないか。
えっ、あの沢田研二がパルテノン多摩にやって来る?
僕は目を疑った。というのは、この見過ごされそうな小さな文字の1行以外、パルテノン多摩の告知情報のどこにも載っていなかったからだ。
もしや前号に告知をし、もうチケットは売り切れたからスケジュール掲載だけにしてしまったということもあり得る。僕がそれを見逃していたのかもしれないと思い、前号のパンフを見てみたが、やはりどこにも沢田研二の名はない。
すでに10月28日である。僕はその日、パルテノン多摩のチケット売り場受付けに行って、沢田研二のチケットの空きを訊いた。
すると、パルテノン多摩割り当て分というのがあり、それはすでに後ろの方の2席のみしか残ってなかった。僕はすぐにそのなかの1席を買った。
僕がライブを聴きに行くようになったのは、約10年前からだ。遅すぎた感はあるが。
2007年のことである。シャルル・アズナブールもとうに80歳を超え、最後の日本公演か、という新聞見出しを見て、シャンソンが好きだと口外しているのに大好きだったアズナブールのライブを聴いていないし、もう生(なま)を聴く機会はないかもしれないと思いたち、すぐにチケット(東京国際フォーラム公演)を買ったのだった。(最後と言いながら、実はアズナブールは、来年(2018年)も来るのだが)
それからは、好きだった歌手、見逃しているスーパースターは、生きている間は見ておこう、聴いておこうと思ったのだった。僕もしくは相手の、どちらかが倒れたら、それは不可能になるからだ。
思えば、美空ひばりのライブも聴きに行ったことがない。
新宿で毎晩のように飲み歩いていたころ、新宿コマ劇場で「美空ひばり公演」といった看板や垂れ幕が掲げてあるのを見ても、ああやっているなあといった感慨しか持たずに通り過ぎていた。今では伝説の人となったのだから、1度は生(ライブ)を見ておくべきだった。
沢田研二も、同時代を生きてきたスーパースターとして、生で聴いておきたいので、その彼が多摩に来るのであれば、格好の機会であった。
しかし、どうして全国公演を行う沢田研二ぐらいの大物歌手が、たった1行の告知蘭だけで、チラシもポスターも貼っていないのか、と会場であるパルテノン多摩の受付けの人に訊いてみた。
すると、パルテノン多摩の企画ではないからです、という答えが返ってきた。ホールでは、先にあげたようにクラシックの有名な交響楽団や演奏家の公演もあるのだが、施設の企画公演は別途扱いで、チラシやポスターなどでPRするということだったのだ。
僕はかねがね告知の大きさに、知名度と偏りがあるなあと感じていたが、そういうことだったのか。
それでいいのだろうか?施設の企画であるかどうかを問わず、パルテノン多摩のブランドの向上のためにも、もっと公平に、ニーズに応じて告知することを考慮すべきではないだろうか、という疑問が強く残った。
*6.あなたに今夜はワインをふりかけ――その日のライブ
12月7日、沢田研二は多摩市のパルテノン多摩にやってきた。
会場のパルテノン多摩には、ポスターも立て看板もない素っ気ない風景だ。だが、17時開演前から、会場のパルテノン多摩の女子トイレの前は行列である。
会場に入ってみると、9割が女性で大半が熟女だろうか。ポツリポツリと男性もいるので安心する。
定刻に会場の非常口の照明も落とされ、舞台の照明だけとなる。見渡すと、定員1414名の大ホールは満席だ。
僕は、アンチエイジングという言葉と風潮が嫌いだ。
健康で若くありたいというのは誰もが当然思うことだが、近年のそれが最大の目標のような傾向にはいささかうんざりしている。そのことにエネルギーを注げば注ぐほど、人は何かを失っているのだ。
誰もが年をとり、人知れず老化は誰にでも起き、それを受け止めながら生きていかなければならない。若々しくはあっても、誰でもいつまでも若くはなく、秦の始皇帝以来権力者や巨万の富裕者も夢見た不老長寿など、もちろんどこにもないのだ。
時の過ぎゆくままに…である。
「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」のコンサートは、沢田研二の子どもの頃からスター時代、そして 現在の姿までが順に映し出されるスクリーンの映像から始まった。
そして、沢田研二がステージに立った。
沢田は往年のスマートな体形とは違い、明らかに太目になっている。彼はありのままなのだ。年齢に逆らうことなく生きているということなのだろう。それで、いい。
そのやや太った彼がステージに立つやすぐに歌いだした。デビュー50周年というので、50曲歌うというのだ。
バンドのメンバーは、柴山和彦(ギター)、依知川伸一(ベース)、大山泰輝(キーボード) 、GRACE(ドラムス)。
第1曲目は「あなたに今夜はワインをふりかけ」(詞:阿久悠. 作曲:大野克夫)。アルバム「思いきり気障な人生」に収録されている、ジュリーらしい派手さと潤いのある曲だ。
(写真、アルバム「思いきり気障な人生」)
体形は全盛時と違っているが、声は以前のままだ。張りがあり、高く響く。
ジュリーは健在だった。
続いて2曲目は、ザ・タイガース時代のジュリーの魅力を爆発させた「君だけに愛を」(詞:橋本淳、曲:すぎやまこういち)。
イントロのピピン…とギターの細く響く音に続き「プリーズ、オウ、プリーズ、僕のハートを、君にあげたい…」と囁くようなジュリーの声が漏れてくると、あっという間に魔法にかかったように、会場はタイガースの時代に戻ってしまったようだ。
会場の最前列は、歓声とともに立ち上がって手をあげ、体を揺らす。それにつられて、あちこちで立ち上がって手を叩く人が出ている。
僕の隣の中年の熟女は、もうハンカチを取り出してメガネの奥の瞼を拭いた。若いときに夢中になった思春期に戻ったようだ。
やはり、沢田研二はスーパースターだ。
ジュリーは歌い続ける。
ザ・タイガース時代の「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」をはじめ、先に曲の履歴にあげたヒット曲、フランス語の「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」も、最新曲という「ISONOMIYA」も入って、1番(ワンコーラス)だけとはいえ確かに50曲を歌い終わった。
それも、途中3回のトークを挟んだが、休憩なしの2時間40分の完走である。舞台の右へ左へ飛び回り、ときには曲により水を口に含んで飛ばすこともする。かつて、アルコールを飛ばしたように。
「いろいろなことがありました。今は、何を語っても自慢話になりますが」69歳の沢田はユーモラスに言った。
往年の人気に陰りが出てこれまでかという雰囲気を周りに感じていた還暦の60歳を前にしたとき、「腐ってもジュリーだ」と自ら公言し、東京ドームを一杯にした。このとき再び、スター、ジュリーの復活を確信したという。
ステージが終わり、会場の出口にはコスプレのような衣装の女性が記念撮影に応じていた。ジュリーの往年のファン層より若すぎると思って見ていると、YouTubeでジュリーを見てファンになり、格好いいから彼の衣装で今夜は来たのと、板橋区から来たという漫画家は言った。
新しく若いファン層も生まれているのだ。
沢田研二は、誰もがそうであるように年を重ね老いはしたが、依然として若々しい。
やはり、ジュリーは一時代を飾ったスーパースターであった。
パルテノン多摩を出ると、すでに夜になった空は暗いが、街は多摩センターの駅から続くイルミネーションで輝いていた。
若いときフランスにカブレたときはシャンソンに酔い、雑誌編集者時代には仕事の流れでロックに触れ、年をとってクラシックに浸ったりしているが、僕の根底を流れているのは歌謡曲である。
戦後、歌謡史を彩った歌手は、思い浮かべただけでも数えきれないほどあまたいる。その綺羅星のなかで、誰が後世まで歌謡史に残るスーパースターだろうかと考えることがある。
戦前から活躍していた藤山一郎、高峰三枝子など、また近年のAKB48やイグザイルなどのグループは除いた歌手(ソロシンガー)としての対象で、ナンバーワンを一人あげるとすれば誰だろう。個人的好みも入れて考えてみた。
女性歌手をあげて見よう。
美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、(ザ・ピーナツ)、越路吹雪、由紀さおり、藤圭子、松任谷由実、中島みゆき、テレサ・テン、山口百恵、森昌子、松田聖子、宇多田ヒカル……
女性の歌手は、どう見ても戦後からずっと昭和の歌謡界をリードしてきて、女王と呼ばれた美空ひばりに異存はない。
男性歌手をあげてみよう。
三波春夫、村田英雄、三橋美智也、坂本九、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦(御三家)、北島三郎、森進一、五木ひろし、布施明、沢田研二、郷ひろみ・野口五郎・西城秀樹(新御三家)、井上陽水、吉田拓郎、福山雅治……
男性歌手は、好きなジャンルや世代によって微妙に違ってくるだろう。
しかし半世紀ばかりを振り返ってみると、1960年代後半のGS(グループ・サウンズ)ブームの人気の中心にいたタイガースの時代から、70年代、80年代にはトップシンガーとして異色の光彩を放っていたジュリーこと沢田研二は、他の歌手と比較できない存在だったと思える。
彼の歌を聴けば、その華麗なファッションや振る舞い、背景から、個人的な思い出を超えてその時代を思いおこさせるものがある。言い換えれば、ジュリーは「時代」そのものだったと言えよう。
頂点を極めた人気、オリジナル性、大衆性、多面性、ライブの持続性、これらを鑑みれば、誰もが彼にとって代われるとは思われないのだ。
*2.追憶――ジュリーの音楽シーン
沢田研二の音楽活動を簡単に列記してみた。
沢田研二がデビューしたのは、1967(昭和42)年GS(グループ・サウンズ)の「ザ・タイガース」のヴォーカルとしてだった。
1967年2月、「僕のマリー」(詞:橋本淳、曲:すぎやまこういち)でデビュー。
その後ザ・タイガース時代の主なヒット曲を列挙してみる。
「シーサイド・バウンド」
「モナリザの微笑」
「君だけに愛を」
「銀河のロマンス」
「シー・シー・シー」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)
「青い鳥」
「ラブ・ラブ・ラブ」
この時代、沢田研二が影響を受けたと思われるザ・ワイルド・ワンズの加瀬邦彦が曲作りに参加し、沢田のファンであった作詞家の安井かずみも詞を作っている。
GS(グループ・サウンズ)は歌謡史に一時代を期する熱狂的なブームとなったが、長く続くことはなく、その人気トップにあったザ・タイガースも1971(昭和46)年1月、日本武道館での「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でもって解散する。
新たな混成グループPYGを経て、沢田研二はソロ活動に入る。
1971年11月、「君をのせて」(詞:岩谷時子、曲:宮川泰)でソロ・デビュー。
1972年3月発売の「許されない愛」(詞:山上路夫 作曲:加瀬邦彦)がオリコン4位を記録し、ソロとして初のオリコントップ10入り。同年「NHK紅白歌合戦」に初出場。
1973年、「危険なふたり」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)でソロ初のオリコン1位を獲得し、第4回日本歌謡大賞を受賞
1974年、「追憶」(詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦)で2曲目のオリコン1位を獲得。
1975年にはシングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。
あまり日本では知られていないが、沢田がフランス語で歌ったアルバムが出ている。「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」は、そのなかの曲である。いわゆる和製フレンチ・ポップスで悪くない。この時期、アメリカでなくてフランス進出とは、さすがジュリーというほかない。高田賢三や三宅一生、森英恵らが日本人デザイナーの先駆けとして、パリ・コレクションに参加しだした時期である。
同1975年、TBSドラマ「悪魔のようなあいつ」で、主演の沢田が歌う挿入歌「時の過ぎゆくままに」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)がオリコン1位。その後も沢田の作曲を多く手掛ける大野克夫は、元ザ・スパイダースのメンバーだ。
1976年、「コバルトの季節の中で」( 作詞:小谷夏(久世光彦)、作曲::沢田研二)、
「立ちどまるなふりむくな」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)、
「ウィンクでさよなら」(詞:荒井由実、曲:加瀬邦彦)。
1977年、「さよならをいう気もない」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)。
同年発売の「勝手にしやがれ」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)でソロとして4曲目のオリコン1位。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。
1978年、「サムライ」、
同年「LOVE (抱きしめたい)」(詞:阿久悠、曲:大野克夫)で第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦でトリをつとめる(対抗の女性歌手は山口百恵)。
1979年、「カサブランカ・ダンディ」。
1980年、「TOKIO」(詞:糸井重里、曲:加瀬邦彦)、
「恋のバッド・チューニング」(詞:糸井重里、曲:加瀬邦彦)。
1981年に沢田研二のサポート・バンドEXOTICSを相次いで編成。同年、「渚のラブレター」(詞:三浦徳子、曲:沢田研二)。
以前にも沢田自身の作曲の歌はあったが、このころから、積極的に作曲も手掛ける。ヒット曲から、作曲の才能もなかなかであることがわかる。
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(詞:三浦徳子、曲:沢田研二)、
1982年、「麗人」(詞:阿久悠、曲:沢田研二)、
「おまえにチェックイン」(詞: 柳川英巳、曲:大沢誉志幸)、
「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」(詞:三浦徳子、曲:西平彰)。
1981年、瞳みのるを除くメンバーでザ・タイガースが10年ぶりに再結成。同年秋、「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年2枚目のシングル「色つきの女でいてくれよ」を発売、武道館を含む全国ツアーを行う。
1985年、半年間の休養を経て渡辺プロダクションから独立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍。移籍第1弾は、「灰とダイヤモンド」。作詞・作曲者の「李花幻(りかげん)」は「いいかげん」をもじった沢田本人のペンネームである。
同年、自叙伝「我が名は、ジュリー」(玉村豊男編、中央公論社)を出版。
1989(平成元)年のNHK紅白歌合戦では、沢田自身とザ・タイガースでも出演し、「1回に別名義で2度出場する」という珍しい記録も達成している。
1995年、「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とセルフ・プロデュースを宣言し、アルバム「sur←」を発表。
2002年、自主レコード・レーベルとなる「JULIE LABEL」を設立。
2008年、「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催。このステージで、1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌う。
2011年、元ザ・タイガースのドラムス瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らのメンバーと共に全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結した。
2013年12月、日本武道館にてザ・タイガースのオリジナル・メンバーによるコンサートが44年ぶりに行われた。
沢田研二は、ソロ・デビュー以来、毎年新作アルバムを発表し続けている。これは、画期的なことである。
*3.思いきり気障な人生――歌手を超えて映画やドラマにも
僕はイケメンという言葉を使わない。謂れが品のない流行り言葉の日本語だ。
沢田研二は「美男子」だ。「ハンサム」(handsome)では収まらない。フランス語で言えば、「ボー・ギャルソン」(beau garçon)。韓国語では「コッミナム」(花美男)の言葉が相応しい。
沢田は、日本人では珍しい、気障な振る舞いが様になる「色男」である。
だから、ヴィジュアルに重点を置く映像の世界でも、彼をほってはおかなかった。歌手としてだけでなく、沢田は映画やテレビドラマにも数多く出演している。それも、妖艶な男の役が多いのは当代随一の美男子だった証左だろう。
ザ・タイガース時代には、「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」(1968年)ほかアイドル映画を3本撮っている。
1974年、「炎の肖像」(監督:藤田敏八、加藤彰)で、単独での映画初主演。
1979年、「太陽を盗んだ男」(監督:長谷川和彦)では、原爆を作る理科系教師役を主演した。この作品はキネマ旬報ベストテンの2位、キネマ旬報読者選出日本映画ベストテン第1位となり、主演した沢田は第4回報知映画祭・主演男優賞を受賞した。また、2009年度「キネマ旬報オールタイムベスト映画遺産200」における「日本映画篇」では、日本映画史上ベストテン第7位となっている。
1981年、「魔界転生」(監督:深作欣二)では、天草四郎時貞を演じた。
1982年年末公開の「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(監督:山田洋次)に出演し、共演した田中裕子と後に結婚する。
1991年「夢二」(監督:鈴木清順 )では 竹久夢二を演じ、坂東玉三郎と共演。作品は、キネマ旬報ベストテンの11位。
テレビドラマも数多く出演している。
1973年、上村一夫原作の当時若者に大人気だった漫画「同棲時代」のテレビ化で、テレビドラマ初主演。 脚本は山田太一。
1975年、先にあげた、3億円事件を題材にしたテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」(原作:阿久悠、上村一夫、 脚本:長谷川和彦、演出:久世光彦ほか)では主演、同時に主題歌の「時の過ぎゆくままに」が大ヒットした。
1980年、テレビドラマ「源氏物語」(脚本:向田邦子、演出:久世光彦)では、光源氏役で主演。
NHK朝ドラである「連続テレビドラマ」では、「山河燃ゆ」(1984年)、「はね駒」(1986年)ほか多数出演している。
舞台でも、音楽劇「ACT」シリーズを長年行っていた。
近年では、2014年と16年、「悪名」の朝吉役でも主演した。
*4.時の過ぎゆくままに――不死鳥のごとくライブ復活
現在、「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」の全国公演が終わりに近づいたが、行われている。
10月末、詳しく書けば10月28日、僕は配布されたばかりの多摩市の文化施設である「パルテノン多摩」の公演スケジュールが掲載されているパンフレットの「NEWS 2017.11‐12」を見ていた。
この4つ折りのPR紙の表紙2ページ分には、翌(2018)年3月公演の大友直人指揮、読売交響楽団、ヴァイオリン前橋汀子のクラシック音楽の告知が大々的に仰々しいぐらいの大きさで載っている。
この情報パンフの裏ページの末席に、ホール会場スケジュールの施設利用情報欄がある。大小各ホールの利用日程表で、各1行の告知となっていて、市民団体や近辺大学や音楽教室などの演奏会・発表会が多く、その多くは入場無料だ。
このパンフは2か月に1回発行の隔月刊なので、10月末日発行分は11月と12月のホール施設利用が載っている。そのなかで、12月7日(木)の日に、「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」と書いてあるではないか。
えっ、あの沢田研二がパルテノン多摩にやって来る?
僕は目を疑った。というのは、この見過ごされそうな小さな文字の1行以外、パルテノン多摩の告知情報のどこにも載っていなかったからだ。
もしや前号に告知をし、もうチケットは売り切れたからスケジュール掲載だけにしてしまったということもあり得る。僕がそれを見逃していたのかもしれないと思い、前号のパンフを見てみたが、やはりどこにも沢田研二の名はない。
すでに10月28日である。僕はその日、パルテノン多摩のチケット売り場受付けに行って、沢田研二のチケットの空きを訊いた。
すると、パルテノン多摩割り当て分というのがあり、それはすでに後ろの方の2席のみしか残ってなかった。僕はすぐにそのなかの1席を買った。
僕がライブを聴きに行くようになったのは、約10年前からだ。遅すぎた感はあるが。
2007年のことである。シャルル・アズナブールもとうに80歳を超え、最後の日本公演か、という新聞見出しを見て、シャンソンが好きだと口外しているのに大好きだったアズナブールのライブを聴いていないし、もう生(なま)を聴く機会はないかもしれないと思いたち、すぐにチケット(東京国際フォーラム公演)を買ったのだった。(最後と言いながら、実はアズナブールは、来年(2018年)も来るのだが)
それからは、好きだった歌手、見逃しているスーパースターは、生きている間は見ておこう、聴いておこうと思ったのだった。僕もしくは相手の、どちらかが倒れたら、それは不可能になるからだ。
思えば、美空ひばりのライブも聴きに行ったことがない。
新宿で毎晩のように飲み歩いていたころ、新宿コマ劇場で「美空ひばり公演」といった看板や垂れ幕が掲げてあるのを見ても、ああやっているなあといった感慨しか持たずに通り過ぎていた。今では伝説の人となったのだから、1度は生(ライブ)を見ておくべきだった。
沢田研二も、同時代を生きてきたスーパースターとして、生で聴いておきたいので、その彼が多摩に来るのであれば、格好の機会であった。
しかし、どうして全国公演を行う沢田研二ぐらいの大物歌手が、たった1行の告知蘭だけで、チラシもポスターも貼っていないのか、と会場であるパルテノン多摩の受付けの人に訊いてみた。
すると、パルテノン多摩の企画ではないからです、という答えが返ってきた。ホールでは、先にあげたようにクラシックの有名な交響楽団や演奏家の公演もあるのだが、施設の企画公演は別途扱いで、チラシやポスターなどでPRするということだったのだ。
僕はかねがね告知の大きさに、知名度と偏りがあるなあと感じていたが、そういうことだったのか。
それでいいのだろうか?施設の企画であるかどうかを問わず、パルテノン多摩のブランドの向上のためにも、もっと公平に、ニーズに応じて告知することを考慮すべきではないだろうか、という疑問が強く残った。
*6.あなたに今夜はワインをふりかけ――その日のライブ
12月7日、沢田研二は多摩市のパルテノン多摩にやってきた。
会場のパルテノン多摩には、ポスターも立て看板もない素っ気ない風景だ。だが、17時開演前から、会場のパルテノン多摩の女子トイレの前は行列である。
会場に入ってみると、9割が女性で大半が熟女だろうか。ポツリポツリと男性もいるので安心する。
定刻に会場の非常口の照明も落とされ、舞台の照明だけとなる。見渡すと、定員1414名の大ホールは満席だ。
僕は、アンチエイジングという言葉と風潮が嫌いだ。
健康で若くありたいというのは誰もが当然思うことだが、近年のそれが最大の目標のような傾向にはいささかうんざりしている。そのことにエネルギーを注げば注ぐほど、人は何かを失っているのだ。
誰もが年をとり、人知れず老化は誰にでも起き、それを受け止めながら生きていかなければならない。若々しくはあっても、誰でもいつまでも若くはなく、秦の始皇帝以来権力者や巨万の富裕者も夢見た不老長寿など、もちろんどこにもないのだ。
時の過ぎゆくままに…である。
「沢田研二 50周年記念LIVE 2017~2018」のコンサートは、沢田研二の子どもの頃からスター時代、そして 現在の姿までが順に映し出されるスクリーンの映像から始まった。
そして、沢田研二がステージに立った。
沢田は往年のスマートな体形とは違い、明らかに太目になっている。彼はありのままなのだ。年齢に逆らうことなく生きているということなのだろう。それで、いい。
そのやや太った彼がステージに立つやすぐに歌いだした。デビュー50周年というので、50曲歌うというのだ。
バンドのメンバーは、柴山和彦(ギター)、依知川伸一(ベース)、大山泰輝(キーボード) 、GRACE(ドラムス)。
第1曲目は「あなたに今夜はワインをふりかけ」(詞:阿久悠. 作曲:大野克夫)。アルバム「思いきり気障な人生」に収録されている、ジュリーらしい派手さと潤いのある曲だ。
(写真、アルバム「思いきり気障な人生」)
体形は全盛時と違っているが、声は以前のままだ。張りがあり、高く響く。
ジュリーは健在だった。
続いて2曲目は、ザ・タイガース時代のジュリーの魅力を爆発させた「君だけに愛を」(詞:橋本淳、曲:すぎやまこういち)。
イントロのピピン…とギターの細く響く音に続き「プリーズ、オウ、プリーズ、僕のハートを、君にあげたい…」と囁くようなジュリーの声が漏れてくると、あっという間に魔法にかかったように、会場はタイガースの時代に戻ってしまったようだ。
会場の最前列は、歓声とともに立ち上がって手をあげ、体を揺らす。それにつられて、あちこちで立ち上がって手を叩く人が出ている。
僕の隣の中年の熟女は、もうハンカチを取り出してメガネの奥の瞼を拭いた。若いときに夢中になった思春期に戻ったようだ。
やはり、沢田研二はスーパースターだ。
ジュリーは歌い続ける。
ザ・タイガース時代の「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」をはじめ、先に曲の履歴にあげたヒット曲、フランス語の「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」も、最新曲という「ISONOMIYA」も入って、1番(ワンコーラス)だけとはいえ確かに50曲を歌い終わった。
それも、途中3回のトークを挟んだが、休憩なしの2時間40分の完走である。舞台の右へ左へ飛び回り、ときには曲により水を口に含んで飛ばすこともする。かつて、アルコールを飛ばしたように。
「いろいろなことがありました。今は、何を語っても自慢話になりますが」69歳の沢田はユーモラスに言った。
往年の人気に陰りが出てこれまでかという雰囲気を周りに感じていた還暦の60歳を前にしたとき、「腐ってもジュリーだ」と自ら公言し、東京ドームを一杯にした。このとき再び、スター、ジュリーの復活を確信したという。
ステージが終わり、会場の出口にはコスプレのような衣装の女性が記念撮影に応じていた。ジュリーの往年のファン層より若すぎると思って見ていると、YouTubeでジュリーを見てファンになり、格好いいから彼の衣装で今夜は来たのと、板橋区から来たという漫画家は言った。
新しく若いファン層も生まれているのだ。
沢田研二は、誰もがそうであるように年を重ね老いはしたが、依然として若々しい。
やはり、ジュリーは一時代を飾ったスーパースターであった。
パルテノン多摩を出ると、すでに夜になった空は暗いが、街は多摩センターの駅から続くイルミネーションで輝いていた。
私もあの日、はじめてジュリーを生で観に、生で聴きに行きました。
席は後ろから3列目で、顔はハッキリとは見えませんでしたが、歌声は20代、30代の頃のyoutubeで聴いたそのままに聴こえる事もあり、69歳という年齢が信じられない思いのまま、息もつけないまま2時間40分が終わっていました。
youtubeで観たジュリーが素敵過ぎたので、『憎みきれないろくでなし』のコスプレで行った漫画家です。
もしかして、出口で少しお話させて頂いた方なのかと思ったのですが。(私は板橋区在住なので間違いかも知れませんが)
多摩の寒空の下での、「憎みきれないろくでなし」姿の紛れもない女性のジュリーは、あなたでした。出口で少しお話ししました。
お友達と駅の方に向かう短いスカートに白い夏服のような後ろ姿を見て、風邪をひかないといいがなと心配しました。
そうです。板橋区から来たとのことでした。
やはりジュリーは、世代を超えた魅力がありそうですね。それというのも、彼が本音で生きているからと思うのですが。
オキャドーこと
岡戸一夫
MCも面白くて、最高でした。
また絶対に行きたいと思います。
次はもっと完璧な『憎みきれないろくでなし』姿で!
ジュリーのファッション(コスプレ)を女性がやっても似合うのは、彼が中性的魅力を放っているからでしょう。
冬空の下、白い夏服でも体が熱く燃えていたのは、とても若々しいですね。今回は、会場での席が離れていたのでしょう、あなたのコスプレでの熱演を見損ないましたが、いつか機会がありましたら拝見したいものです。
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