かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

22. いつの日か、ヴェネツィア

2005-10-30 02:24:18 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月19日>ヴェネツィア
 夜19時45分発のENユーロナイトの夜行列車でヴェネツィアを発つことにした。明朝20日8時23分にパリに着く。
 ヴェネツィアには、いつまでいてもいいと思わせるものがあった。街角のあちこちに発見があり、歩くことが楽しい。細い道の先には何かが現れた。路地から路地へ、広場へ、運河へ、そして時折船に乗る。こんな日々を続けられたらと思った。ここでは、音楽演奏会もあるし、映画祭もあるし、美術展もある。カーニヴァルだって催される。
 しかし、ここでは旅人と住人ははっきりと区別されている。生活のない旅人はいつまでも歩くしかない。しかし、旅人はいつか歩き疲れる。路地裏の鬼ごっこも、いつしか鬼の居所を見つけて、この遊びも飽きるだろう。
 まだここにいたいと思っている時に去るのもいいだろう。いや、旅人は遅かれ早かれ、その地を去らなければならないのだ。そう思って、後ろ髪を引かれながら去るしかない。

 この日は、田舎にいる親父のための土産を探そうと思った。喜寿の祝いだ。何度も海外を旅したのに、おふくろにはその都度何かしら買ってきたが、親父には最初に行ったパリでのパイプだけで、今まで何も買ってこなかった。
 懐中時計に決めていた。蓋つきの金張りで、3針で、しかも文字盤がアラビア数字でなければならない。それに、鎖つきだ。
 母が語っていた。「満州にいた頃はね、お父さんはぴしゃっと背広を着て、金の懐中時計を背広の内ポケットに入れていたのよ」と。
 しかし、その後親父が懐中時計を持つことはなかった。親父が時計のことを口にしたことはなかったが、きっと喜ぶに違いないと思った。

 私は、ヴェネツィアの街の土産物屋、時計屋、骨董屋と歩き回り、時計を探した。しかし、蓋にやたら派手な彫金が刻まれていたり、文字盤が算用数字であったり、形が大きすぎたり、逆に小さすぎたりと、なかなか見合うものがない。古い骨董もプレゼントにはふさわしくない。
 夕方になってやっと、観光客のいるところから離れた通りにある1軒の時計屋で、ウインドウの中に飾ってある時計の中にぴったりのものを見つけた。中の親父に値段を訊いたら手頃だ。しかし、この親父は商売っ気がなく、私の質問に答えたら、またすぐに店に来ていた客か友だちか知らないが別の男とお喋りをしだして、こちらはほとんど無視したままだ。
 私は、その店を出てもう少し歩いて時計を探した。しかし、そんなに時計屋があるわけではなく、しばらく歩いた後、あれ以上のものはない、あの時計を買おうと決心して、またあの店に引き返した。
 すると、店に明かりはついているのだが、戸には鍵がかかっていて中には誰もいない。1人でやっている小さなこういう店では、よくあることだ。連れの男と食事にでも行ったに違いないと思って外で待っていると、ほどなくして主(あるじ)は先ほどの男と一緒に戻ってきた。
 早速、値段の交渉をして、まけろと値切ってみた。しかし、わずかに引いただけで、ほとんど安くはしなかった。頑固そうなあるじだったし、ぼるような店ではなかったので、私もその値で買い求めた。
 やっと探し求めていたものを手に入れたことを悟らせまいと、嬉しさをかみ殺して私はその時計を手に取った。是非ともヴェネツィアで見つけたかったのだ。

 私は、初めて親父にプレゼントらしいものを買ったことに喜んでいた。今年の年末に、それを持って帰り、びっくりさせようと胸をふくらませた。

 その夜、夜行列車でヴェネツィアを発ち、再びパリへ向かった。帰国の予定も近づいていた。

            *
 *夏の盆に会った時には元気だった親父が入院すると田舎のおふくろから電話があったのは、その日から2か月後の、私が帰省する予定の1日前の12月19日だった。親父には内密であったが、癌で3か月は持たないとのことだった。
 私は、入院している病院にこの時計の入った箱を持って行った。親父に箱を渡すと、何も言わなかったのに、喉頭癌の掠れた声で「懐中時計だろう」と言い当てた。そして、箱の中から時計を取り出して、それを見ながらうんうんとうなずき、嬉しそうな顔をした。
 それから、医者の言うように、翌年の桜を見ることもなく2月9日に死んだ。
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