開高健の『ロマネ・コンティ・一九三五年』と題する小説がある。私がロマネ・コンティの名を知ったのはこの小説を読んでからだった。
僕は、まずこう書こうと思った。しかし、こう書いていたのは池田満寿夫だった。しかも、何の粉飾もない単刀直入の『ロマネ・コンティ』と題する小説でだった。
開高健が小説『ロマネ・コンティ・一九三五年』を発表したのが1973年で、池田が開高の作品を読んだのが単行本発売の78年頃だ。そして、池田がこの小説を発表したのが89年である。
池田は、この小説で、開高の小説を読んで「小説の方はよく分からなかった。ロマネ・コンティという地上最上のワインがあることを知ったが、ワインに賭ける人間の情熱が理解できなかったのだ。当時私は1ガロン、4ドル50セントのカリフォルニヤワインを飲んでいて、ワインとはパーティ用に安上がりに使える酒でしかなかった」と書いている。
そして、ワインをよく知る女と知り合い(おそらくのちに実質的妻となるヴァイオリニストの佐藤陽子だと推察される)、ふとしたことでロマネ・コンティに出合うことになる。
小説は、そのいきさつを書いたものであるが、小説の中では、池田はロマネ・コンティについては深く触れることに躊躇いがあるように感じられた。おそらく、彼がいまだそれを知るに到っていないと感じていたからに違いない。小説は、それを味わうところの描写はなく終わらせている。池田は、ロマネ・コンティを語るところに自分の舌の感覚がいっていないことを知っていたのだ。
僕がロマネ・コンティを知ったのも池田満寿夫と同じく、開高健の『ロマネ・コンティ・一九三五年』単行本発売の78年頃だ。
まだ若かった僕は、ことさらワインを特別視することなく、ビールもウイスキーもカクテルも、その時の店に合わせて、その時の女性に応じて、何でも飲んでいた。酒は人生を愉しくするための、あえて言えば、女性の精神の、またその先の肉体の扉を少しでも開くための合い鍵でしかなかった。
開高は小説の中で、ロマネ・コンティを飲みながら女のことを思い出す。
パリでゆきずりに知り合ったスウェーデン人の女が、主人公の小説家にこう言う。
「二〇代 選ばない。
三〇代 ブルゴーニュ。
四〇代 カルメル。またはボルドォ。
五〇代 飲まない。味わうだけ。」
これに対して、小説家は低く笑いながらこう応える。
「ブルゴーニュも、ボルドォも、私、わからない。私、なんでも飲むな。私、二〇歳よ。うれしい」
2005年10月初旬、多摩センター三越から「ワインフェア」のダイレクトメールが僕の家に届いた。ワインフェアといっても、忘れた頃に届く、新しいワインの入荷リストと何本かのブランド・ワインの有料試飲会のお知らせといった程度のものだ。
案内を何気なく目を通しているうちに、有料試飲会のところで目が止った。「10月30日(日)フランス・ブルゴーニュ、赤白ワイン飲み比べ」とあり、問題は次の行だ。
「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ 2001年 赤」とある。そして、「限定数13、¥2,625」と続く。よく記事を見渡すと、「ご予約はできません。1杯は50ml」と注意書きがある。この注意書きは、いつものことで他のワインにも共通することである。
僕は、最初その記事を気にもとめなかった。頭の隅っこに寝かせておいたにすぎない。あのロマネ・コンティがまさかこんなところに、しかもグラスわずかな1杯といえどもあの値段で、と思っていたのだ。だから、すぐに案内状は机の引き出しにしまった。
今まで、このワインフェアに顔を出しワインを購入したのは、僕がボルドーのシャトー巡りで行った「シャトー・モーカイユ」が出た時だけである。しかも、ワインフェアと謳っている割に、普段の日とそう人の出入りは変わらないぐらい寂しいものであるのも知っていた。
それから、日にちがたつにしたがって「ロマネ・コンティ」というあの案内状の文字が頭の中でふくれあがってきた。そのたびに、机の引き出しから案内状を取り出して、その文字が幻想でないことを確かめるように見つめたのだった。2001年産と若いから安いのであろうかと思ったが、それにしてもあのロマネ・コンティがという思いはぬぐえなかった。
試飲会の2日前に、僕はついに多摩センター三越に行って確かめた。「30日にロマネ・コンティの有料試飲会がありますよね。あのワインだったら、午前中でなくなりますよね」と。
すると、いつも売り場にいる女の子が何気ない顔で「そんなことはないと思いますよ」と表情変えずに言った。今まで午前中で試飲会が終わったことなどないという意味だった。僕は、ほっとしたと同時に、そうかなという疑問もぬぐえないまま帰った。
途方もないことが起ころうとしているのに、誰もがそれに気づかず平然としている、そんな気持ちだった。たかが、酒と言えばそうである。世の中がそれによってどうなるものでもない。しかし、出合うことすらあるかないかのあの「ロマネ・コンティ」である。
ロマネ・コンティは、ブルゴーニュの最も優れたワインとされ、世界中で最も高価な値段がつけられるワインである。最も優れた(美味しい)ワインはどれかという問いに、わが敬愛する弁護士でワイン愛好家の山本博氏は、ボルドーの最も優れたワイン、シャトー・ラフィットと比べて甲乙つけがたいと著書で書いている。
しかし、両者の値段に格差ができ、ロマネ・コンティの若い年代のものでも数十万円、ビンテージものによっては何百万円という値がつくのには、その希少価値にある。シャトー・ラフィットが94haの畑で約21,000本とれるのに、ロマネ・コンティは1.8haの畑で約6,000から7,000本である。最良質なことに加えて、この生産量の少なさが、ロマネ・コンティを特別なワインにしている最大の理由といえる。
「ROMANEE CONTI」
ヴォーヌ・ロマネにある面積1.8haのモノポル(単一畑)のグラン・クリュ(特級格付け畑)。世界で一番賞賛される最も高価な赤。ちょっと想像もつかないくらいのフレーバーが内に秘められている。 ヒュー・ジョンソン「ポケット・ワイン・ブック」1993年度版(鎌倉書房)
次の日、つまり有料試飲会の前日の夜、僕はこのことを自分の中に収めていることにたまりかねて、ワインに興味を持っているだろうという知人4人にメールを打った。「明日、ロマネ・コンティの有料試飲会があるが、行ってみないか」と。
急なこともあって4人とも行けないとの返事だった。僕は、当日の朝遅く起きたのだが、やはりこの気持ちを抑えきれずに、知人のカメラマンに、「今日、ロマネ・コンティの試飲会があるがどうか」と電話した。
彼は都合で行けないとしながら、「それは、すぐに売り切れるよ。すぐに家を出た方がいい。ひょっとしたら、朝から行列を作っているかもしれないよ」と言って、僕を焦らせた。
それでも、朝から何も胃に入れずにワインを飲みに行くのもはばかられ、簡単な食事を食べてから、正午ぐらいには飲みに行こうと思った。いくらなんでも午前中になくなることはないにしても、昼過ぎたら分からないと思った。店の女の子に言った「昼までに売り切れますよね」という自分の言葉に縛られていた。
料理を作っている間も時間は過ぎていく。店の女の子が言ったことに反して、今日だけは開店と同時にその酒を求めて客が押し寄せるのではないかと想像すると、居ても立ってもいられなくなった。こんなことをしている間にあのワインがなくなったらという気持ちと、午前中からグラス1杯の酒を求めて押し寄せるほど酔狂な人間もそういないだろうという気持ちが僕の中で凌ぎ合っていた。食事を終えたのは正午の12時を大分過ぎていた。
僕は、家から1駅先のそのデパートに自転車を繰り出して疾走した。残念なことに長年乗り慣れた愛車は廃車にしたばかりだし、これから酒を飲むのであるから電車か歩くかであるが、自転車が一番早く着くのは分かっていた。
多摩センター三越に着くと、急ぎ足でワイン・コーナーへ行った。ワイン・コーナーに客は誰もいなかった。もうすでに13杯は飲み尽くされ、試飲会は終わったのか。
僕は例の女の子に「有料試飲会のロマネ・コンティはまだありますか」と尋ねた。彼女は「ええ」と平気な顔をして、もう一人のワイン担当の男性のところへ連れて行った。以前この店で、その男性からワインの説明を聞いたことがあり、その男が相当の識者であることは分かっていた。
彼は、僕を何本ものワインが展示された店の中央に連れてきた。そこには、棚が作られていて、その前に椅子が置いてあった。その棚に1本の赤ワインが置かれていた。そのラベルを見て目を疑った。どう見ても「ROMANEE CONTI」の文字ではない。
僕は男に尋ねた。「ロマネ・コンティですよね」と。
男は、「ええ、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティのエシェゾーです」とにこやかに答えた。
「エシェゾー?」
「ええ。エシェゾーの畑で生産されるドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社のワインです」と、エシェゾーのワインについて説明をした。
そういえば、案内書にも「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の下に「エシェゾー」と書かれていた。別に小さく隠れたようにではなく、「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の文字よりも大きく書かれていた。僕は「ロマネ・コンティ」の文字に惑わされて「エシェゾー」を勝手に無視していたのだ。ドメーヌとは、ボルドーにおけるシャトーに相当するものである。
つまり、このワインは、ロマネ・コンティ社の「ECHEZEAUX」であった。
ブルゴーニュ地方は、ボルドーと違って、ブドウの畑は小さく区切られていて、しかも単一で所有しているところは極めて少ない。
「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」は、「ロマネ・コンティ」のほか、「ラ・ターシュ」をモノポル(単一畑)として持ち、他に「リシュブール」「ロマネ・サンヴィヴァン」「グラン・エシェゾー」「エシェゾー」を持っていた。これらの銘柄も総て最上級のグラン・クリュ(特級)で、高い評価を得ている。
棚に置かれたボトルのラベルには、「ECHEZEAUX」(エシェゾー)のロゴの上に、「DOMAINE DE LA ROMANEE CONTI」(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)と、ちゃんと記載されてあった。
僕は「ロマネ・コンティ」そのものではなかったが、このドメーヌ・ド・ロマネ・コンティの「エシェゾー2001年」を、ゆっくりと匂いを嗅ぎ、ゆっくりと口の中に入れた。
「エシェゾー」は、若いながらもコクがあった。ピノ・ノワールの明るい陽気さが口の中に微かに広がった。若草の萌える草原を想像した。草原の中に若い女性がいるようであった。すでに性を知っている、性に無防備で早熟な少女を思った。
このワインが生まれた2001年秋に、僕はフランスを旅していた。しかもサンテ・ミリオン、ボルドーへ行き、ワインを知った。ブドウ畑で、ブドウを摘んでいる光景も眼にした。
その後、機会があればボルドーを飲むようにしていた。そして、浅はかな知識にもかかわらず、ワインといえばボルドーだと公言していたのである。
しかし、重くて複雑なボルドーのカベルネ・ソーヴィニョン主体のワインより、明るく単純明快なブルゴーニュのピノ・ノアールが口に合っているのを感じ始めていた。ボルドーは、僕にはまだ手に負えないのだ。
それには、安い酒しか飲んでいないこともあるが、日本でカベルネ・ソーヴィニョンの上等な味に出くわしていないこともあった。カベルネ・ソーヴィニョンの酷いもの(おうおうにして安いもの)は、場末の酒場の性悪女のように胃にもたれて、しばらくはワインは飲みたくないと思うほどうんざりするものだった。
若く溌剌とした「エシェゾー」を飲み終わった時、今までの重いものが肩から落ちたように楽になった。そして、「エシェゾー」は素晴らしいと思えてきた。
僕に説明を続ける男に、「ちなみに、ロマネ・コンティだったらいくらぐらいで試飲会をやるんですか」と僕は訊いてみた。
男は少し神妙な顔をして、「そうですね。このような店ではあり得ないでしょう。ただ会員制でどこかがやるというのはあるかもしれませんね。私は知りませんが。ただ、その場合でもロマネ・コンティだけでというのではなく、他の銘柄と組み合わせということになるでしょうね」。
そうだろうよ。「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の「ロマネ・コンティ」に出合うことは、そう簡単にあるものではないのだ。
こうして、僕の「ロマネ・コンティ」の短い狂騒劇は終わった。僕にはまだロマネ・コンティは早すぎるということだ。
いつの日か、その時がくるだろう。
と、期待したい。
帰り際、僕は男に頼んで、今飲んだ「エシェゾー」の抜いたコルク栓を記念にもらった。そのコルクにはしっかりと「DOMAINE DE LA ROMANEE CONTI」と刻印されてあった。
僕は、まずこう書こうと思った。しかし、こう書いていたのは池田満寿夫だった。しかも、何の粉飾もない単刀直入の『ロマネ・コンティ』と題する小説でだった。
開高健が小説『ロマネ・コンティ・一九三五年』を発表したのが1973年で、池田が開高の作品を読んだのが単行本発売の78年頃だ。そして、池田がこの小説を発表したのが89年である。
池田は、この小説で、開高の小説を読んで「小説の方はよく分からなかった。ロマネ・コンティという地上最上のワインがあることを知ったが、ワインに賭ける人間の情熱が理解できなかったのだ。当時私は1ガロン、4ドル50セントのカリフォルニヤワインを飲んでいて、ワインとはパーティ用に安上がりに使える酒でしかなかった」と書いている。
そして、ワインをよく知る女と知り合い(おそらくのちに実質的妻となるヴァイオリニストの佐藤陽子だと推察される)、ふとしたことでロマネ・コンティに出合うことになる。
小説は、そのいきさつを書いたものであるが、小説の中では、池田はロマネ・コンティについては深く触れることに躊躇いがあるように感じられた。おそらく、彼がいまだそれを知るに到っていないと感じていたからに違いない。小説は、それを味わうところの描写はなく終わらせている。池田は、ロマネ・コンティを語るところに自分の舌の感覚がいっていないことを知っていたのだ。
僕がロマネ・コンティを知ったのも池田満寿夫と同じく、開高健の『ロマネ・コンティ・一九三五年』単行本発売の78年頃だ。
まだ若かった僕は、ことさらワインを特別視することなく、ビールもウイスキーもカクテルも、その時の店に合わせて、その時の女性に応じて、何でも飲んでいた。酒は人生を愉しくするための、あえて言えば、女性の精神の、またその先の肉体の扉を少しでも開くための合い鍵でしかなかった。
開高は小説の中で、ロマネ・コンティを飲みながら女のことを思い出す。
パリでゆきずりに知り合ったスウェーデン人の女が、主人公の小説家にこう言う。
「二〇代 選ばない。
三〇代 ブルゴーニュ。
四〇代 カルメル。またはボルドォ。
五〇代 飲まない。味わうだけ。」
これに対して、小説家は低く笑いながらこう応える。
「ブルゴーニュも、ボルドォも、私、わからない。私、なんでも飲むな。私、二〇歳よ。うれしい」
2005年10月初旬、多摩センター三越から「ワインフェア」のダイレクトメールが僕の家に届いた。ワインフェアといっても、忘れた頃に届く、新しいワインの入荷リストと何本かのブランド・ワインの有料試飲会のお知らせといった程度のものだ。
案内を何気なく目を通しているうちに、有料試飲会のところで目が止った。「10月30日(日)フランス・ブルゴーニュ、赤白ワイン飲み比べ」とあり、問題は次の行だ。
「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ 2001年 赤」とある。そして、「限定数13、¥2,625」と続く。よく記事を見渡すと、「ご予約はできません。1杯は50ml」と注意書きがある。この注意書きは、いつものことで他のワインにも共通することである。
僕は、最初その記事を気にもとめなかった。頭の隅っこに寝かせておいたにすぎない。あのロマネ・コンティがまさかこんなところに、しかもグラスわずかな1杯といえどもあの値段で、と思っていたのだ。だから、すぐに案内状は机の引き出しにしまった。
今まで、このワインフェアに顔を出しワインを購入したのは、僕がボルドーのシャトー巡りで行った「シャトー・モーカイユ」が出た時だけである。しかも、ワインフェアと謳っている割に、普段の日とそう人の出入りは変わらないぐらい寂しいものであるのも知っていた。
それから、日にちがたつにしたがって「ロマネ・コンティ」というあの案内状の文字が頭の中でふくれあがってきた。そのたびに、机の引き出しから案内状を取り出して、その文字が幻想でないことを確かめるように見つめたのだった。2001年産と若いから安いのであろうかと思ったが、それにしてもあのロマネ・コンティがという思いはぬぐえなかった。
試飲会の2日前に、僕はついに多摩センター三越に行って確かめた。「30日にロマネ・コンティの有料試飲会がありますよね。あのワインだったら、午前中でなくなりますよね」と。
すると、いつも売り場にいる女の子が何気ない顔で「そんなことはないと思いますよ」と表情変えずに言った。今まで午前中で試飲会が終わったことなどないという意味だった。僕は、ほっとしたと同時に、そうかなという疑問もぬぐえないまま帰った。
途方もないことが起ころうとしているのに、誰もがそれに気づかず平然としている、そんな気持ちだった。たかが、酒と言えばそうである。世の中がそれによってどうなるものでもない。しかし、出合うことすらあるかないかのあの「ロマネ・コンティ」である。
ロマネ・コンティは、ブルゴーニュの最も優れたワインとされ、世界中で最も高価な値段がつけられるワインである。最も優れた(美味しい)ワインはどれかという問いに、わが敬愛する弁護士でワイン愛好家の山本博氏は、ボルドーの最も優れたワイン、シャトー・ラフィットと比べて甲乙つけがたいと著書で書いている。
しかし、両者の値段に格差ができ、ロマネ・コンティの若い年代のものでも数十万円、ビンテージものによっては何百万円という値がつくのには、その希少価値にある。シャトー・ラフィットが94haの畑で約21,000本とれるのに、ロマネ・コンティは1.8haの畑で約6,000から7,000本である。最良質なことに加えて、この生産量の少なさが、ロマネ・コンティを特別なワインにしている最大の理由といえる。
「ROMANEE CONTI」
ヴォーヌ・ロマネにある面積1.8haのモノポル(単一畑)のグラン・クリュ(特級格付け畑)。世界で一番賞賛される最も高価な赤。ちょっと想像もつかないくらいのフレーバーが内に秘められている。 ヒュー・ジョンソン「ポケット・ワイン・ブック」1993年度版(鎌倉書房)
次の日、つまり有料試飲会の前日の夜、僕はこのことを自分の中に収めていることにたまりかねて、ワインに興味を持っているだろうという知人4人にメールを打った。「明日、ロマネ・コンティの有料試飲会があるが、行ってみないか」と。
急なこともあって4人とも行けないとの返事だった。僕は、当日の朝遅く起きたのだが、やはりこの気持ちを抑えきれずに、知人のカメラマンに、「今日、ロマネ・コンティの試飲会があるがどうか」と電話した。
彼は都合で行けないとしながら、「それは、すぐに売り切れるよ。すぐに家を出た方がいい。ひょっとしたら、朝から行列を作っているかもしれないよ」と言って、僕を焦らせた。
それでも、朝から何も胃に入れずにワインを飲みに行くのもはばかられ、簡単な食事を食べてから、正午ぐらいには飲みに行こうと思った。いくらなんでも午前中になくなることはないにしても、昼過ぎたら分からないと思った。店の女の子に言った「昼までに売り切れますよね」という自分の言葉に縛られていた。
料理を作っている間も時間は過ぎていく。店の女の子が言ったことに反して、今日だけは開店と同時にその酒を求めて客が押し寄せるのではないかと想像すると、居ても立ってもいられなくなった。こんなことをしている間にあのワインがなくなったらという気持ちと、午前中からグラス1杯の酒を求めて押し寄せるほど酔狂な人間もそういないだろうという気持ちが僕の中で凌ぎ合っていた。食事を終えたのは正午の12時を大分過ぎていた。
僕は、家から1駅先のそのデパートに自転車を繰り出して疾走した。残念なことに長年乗り慣れた愛車は廃車にしたばかりだし、これから酒を飲むのであるから電車か歩くかであるが、自転車が一番早く着くのは分かっていた。
多摩センター三越に着くと、急ぎ足でワイン・コーナーへ行った。ワイン・コーナーに客は誰もいなかった。もうすでに13杯は飲み尽くされ、試飲会は終わったのか。
僕は例の女の子に「有料試飲会のロマネ・コンティはまだありますか」と尋ねた。彼女は「ええ」と平気な顔をして、もう一人のワイン担当の男性のところへ連れて行った。以前この店で、その男性からワインの説明を聞いたことがあり、その男が相当の識者であることは分かっていた。
彼は、僕を何本ものワインが展示された店の中央に連れてきた。そこには、棚が作られていて、その前に椅子が置いてあった。その棚に1本の赤ワインが置かれていた。そのラベルを見て目を疑った。どう見ても「ROMANEE CONTI」の文字ではない。
僕は男に尋ねた。「ロマネ・コンティですよね」と。
男は、「ええ、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティのエシェゾーです」とにこやかに答えた。
「エシェゾー?」
「ええ。エシェゾーの畑で生産されるドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社のワインです」と、エシェゾーのワインについて説明をした。
そういえば、案内書にも「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の下に「エシェゾー」と書かれていた。別に小さく隠れたようにではなく、「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の文字よりも大きく書かれていた。僕は「ロマネ・コンティ」の文字に惑わされて「エシェゾー」を勝手に無視していたのだ。ドメーヌとは、ボルドーにおけるシャトーに相当するものである。
つまり、このワインは、ロマネ・コンティ社の「ECHEZEAUX」であった。
ブルゴーニュ地方は、ボルドーと違って、ブドウの畑は小さく区切られていて、しかも単一で所有しているところは極めて少ない。
「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」は、「ロマネ・コンティ」のほか、「ラ・ターシュ」をモノポル(単一畑)として持ち、他に「リシュブール」「ロマネ・サンヴィヴァン」「グラン・エシェゾー」「エシェゾー」を持っていた。これらの銘柄も総て最上級のグラン・クリュ(特級)で、高い評価を得ている。
棚に置かれたボトルのラベルには、「ECHEZEAUX」(エシェゾー)のロゴの上に、「DOMAINE DE LA ROMANEE CONTI」(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)と、ちゃんと記載されてあった。
僕は「ロマネ・コンティ」そのものではなかったが、このドメーヌ・ド・ロマネ・コンティの「エシェゾー2001年」を、ゆっくりと匂いを嗅ぎ、ゆっくりと口の中に入れた。
「エシェゾー」は、若いながらもコクがあった。ピノ・ノワールの明るい陽気さが口の中に微かに広がった。若草の萌える草原を想像した。草原の中に若い女性がいるようであった。すでに性を知っている、性に無防備で早熟な少女を思った。
このワインが生まれた2001年秋に、僕はフランスを旅していた。しかもサンテ・ミリオン、ボルドーへ行き、ワインを知った。ブドウ畑で、ブドウを摘んでいる光景も眼にした。
その後、機会があればボルドーを飲むようにしていた。そして、浅はかな知識にもかかわらず、ワインといえばボルドーだと公言していたのである。
しかし、重くて複雑なボルドーのカベルネ・ソーヴィニョン主体のワインより、明るく単純明快なブルゴーニュのピノ・ノアールが口に合っているのを感じ始めていた。ボルドーは、僕にはまだ手に負えないのだ。
それには、安い酒しか飲んでいないこともあるが、日本でカベルネ・ソーヴィニョンの上等な味に出くわしていないこともあった。カベルネ・ソーヴィニョンの酷いもの(おうおうにして安いもの)は、場末の酒場の性悪女のように胃にもたれて、しばらくはワインは飲みたくないと思うほどうんざりするものだった。
若く溌剌とした「エシェゾー」を飲み終わった時、今までの重いものが肩から落ちたように楽になった。そして、「エシェゾー」は素晴らしいと思えてきた。
僕に説明を続ける男に、「ちなみに、ロマネ・コンティだったらいくらぐらいで試飲会をやるんですか」と僕は訊いてみた。
男は少し神妙な顔をして、「そうですね。このような店ではあり得ないでしょう。ただ会員制でどこかがやるというのはあるかもしれませんね。私は知りませんが。ただ、その場合でもロマネ・コンティだけでというのではなく、他の銘柄と組み合わせということになるでしょうね」。
そうだろうよ。「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の「ロマネ・コンティ」に出合うことは、そう簡単にあるものではないのだ。
こうして、僕の「ロマネ・コンティ」の短い狂騒劇は終わった。僕にはまだロマネ・コンティは早すぎるということだ。
いつの日か、その時がくるだろう。
と、期待したい。
帰り際、僕は男に頼んで、今飲んだ「エシェゾー」の抜いたコルク栓を記念にもらった。そのコルクにはしっかりと「DOMAINE DE LA ROMANEE CONTI」と刻印されてあった。
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