<2001年10月20日>パリ
10月19日、夜19時45分発のENユーロナイト寝台夜行列車でヴェネツィアを発ってパリへ向かった。パリには翌20日朝8時23分着。ヴェネツィアには後ろ髪を引かれる思いであったが、とりあえずイタリアの旅を終えた。
朝どんよりとした空の中を、パリのベルシー駅に列車は静かに入り込んだ。外は小雨だった。思えば、今回の旅ではイタリアは晴天続きだったのに、フランスでは雨によく出あった。旅の初めのパリに着いた翌日の9月26日も小雨だった。そのあと、サンテ・ミリオン、カルカッソンヌ、モナコでも雨にあった。サン・セレでポールと一緒に買ったラフマの防水加工のブルゾンが役にたっている。フードつきだから小雨ぐらいだったら傘は要らない。
そのままカルチエ・ラタンに向かった。メトロのオデオンの出口を出ると、やはりまだ雨は降っていた。
すぐにサン・ジェルマン通りの角にあるカフェに入って、朝食をとった。通り沿いの席に座って、街行く人を眺めながらカフェオレを啜り、パンを囓った。私の席の隣は仲の良い若いカップルで、ノートを持っていたから学生だろう。学生なのに、私より贅沢にサラダもとっていた。一つの皿からお互いフォークを伸ばしてサラダをほおばっていた。彼らは昨夜の延長でここへ来ているのかもしれなかった。
雨がやむのを待っていたがやみそうもなかったので、まずはホテル・サン・ピエールへ行くことにした。ホテル・サン・ピエールは、初めてのパリへの旅の際に泊まった想い出のホテルだった。
このホテルのあるエコール・ド・メディシン通りは、得体の知れない通りだ。大きなサン・ジェルマン通りから斜めに切り刻んだようなこの通りは、右にパリ大学の塀が横たわり、殺風景で人通りも少なく、道も途中から急に細くなっている。その細くなったところから店が建ち並び、そこにサン・ピエール・ホテルはあるのだ。その道を真っ直ぐ通り抜けると大きなサン・ミッシェル通りにぶつかる。
サン・ピエール・ホテルに入ると、フロントには鷹のような目つきの鋭い30歳前後の男がいた。笑顔をどこかに忘れてきたような無愛想な男だ。シングルの部屋はあるかと聞くと、あと1時間待ってくれと言う。近くをぶらぶらしようかと思ったが、雨も降っているので小さいロビーの椅子に座って待つことにした。
ロビーのテーブルには雑誌『マダム・フィガロ』と一緒に『ル・フィガロ』が置いてあった。『ル・フィガロ』の表紙は、ブッシュとベン・ラディン(フランス綴りだとBen Laden)の顔写真だった。9.11テロ事件の波は、ヨーロッパのおしゃれな雑誌をも無視せざるを得ない状況であることを示していた。
1時間ぐらいして、フロントの男に、もう部屋は空いたかどうかと質すと、パソコンを眺めてはボードのキーを叩いていた。どうやら空き部屋ができたらしく、5階の部屋だと言ってキーを渡した。エレベーターでその階を下りて部屋の近くに来ると、掃除係の女性にその部屋は空いていないと言われまたフロントへ戻った。すると、男はまたしかめっ面で真剣にパソコンに向かい、今度は違う部屋を告げキーを渡した。その部屋へ行くと、ドアは空いていたので中に入ると、ツインの部屋で誰かの荷物が置いてあった。もう1度似たような間違いがあって、計3度違う部屋に行かされた。
パソコンの具合が悪いのか男がうまく使いこなせないのか、男は真剣な表情で、慇懃な態度が少しずつではあるが恐縮した顔になっていった。それでも、「ソーリー」の言葉もないので、ここまで間違われても怒鳴り声一つ出さない東洋人を、忍耐強いと思っているのか、あるいは怒ってこのホテルのドアを蹴って出ていけばいいのにと思っているのか、その表情からは窺いしれなかった。
私は、「27年前にこのホテルに泊まったことがある」と言った。君がこのホテルと何のゆかりもない頃から私はこのホテルを知っているんだよと、嫌みを言ったつもりだったが、男の表情には変化はなかった。私のこのホテルに対する愛着が、急激に薄れていくのを感じた。
やっと部屋が決まったのは、ホテルに着いて2時間がたっていた。男は、初めて「ソーリー」と謝った。フロントの男と私の関係は、少し変わったものになっていた。最初の傲慢な視線の代わりに、なるたけ目を合わせないでおこうという態度になっていた。
雨の日は、美術館でゆっくり絵の鑑賞でもして時間を過ごそうと思ってオルセー美術館へ行った。すると、館はストライキで閉まっていた。入口で出くわした女の子は、昨日も来たが閉まっていたと苦笑いを浮かべ、お手上げの表情をした。私は、仕方がないので今度はルーブル美術館へ行った。ここも同じくストライキで閉まっていた。ルーブルの脊柱の庇の下で座って雨のやむのを待っていたが、なかなかやみそうもない。
小雨の中、シャンゼリゼ通りにある政府観光局に走った。そこで、オルセーもルーブルも閉まっているが、ポンピドー美術館は開いているかと聞いた。すると、係の人は「そこも閉まっている。明日の朝11時にならないと、どの美術館も開館するかどうか私どもも分からない」と言った。
やはり、フランスの労働者はたくましい。いまだに公務員でもストライキを実行するだけの実力を蓄えているのだ。日本は、バブル崩壊後はどの単産もそれだけの力はなく、組合も連合も骨抜きになり、それにストライキでもしようものなら世間から総叩きにあいそうな風潮である。
明日10月21日に、パリからアムステルダムに行く予定である。明日、オルセー美術館が開いていたら、アムステルダム行きを遅らせてパリに滞在しようと思ったが、開いているかどうかも分からないのだったら、予定通りパリを発つことにした。どちらにしろ、10月25日、アムステルダム発KLMの飛行機で帰国するのだ。
明日はパリからロンドンに行くのもいいかなと頭によぎったが、オランダも行ったことがないので予定通りそちらを優先させることにした。
雨も小降りになってきたので、モンマルトルへ行くことにした。私のパリの定番だ。メトロを出ると、雨はあがっていた。時間もあるので、ロシュシュアール通りからテルトル広場の方に坂道を歩いていった。坂の上の広場から、今夜はシャンソを聴こうと思って「ラパン・アジル」に行った。
かつてはユトリロやピカソも通ったという、いまだに古ぼけた屋敷のシャンソニエであるが、閉まっている。扉の前にぶら下がっているプレートを見ると、開店にはまだ1時間ぐらい時間があった。私と同じようにシャンソンを聴きに来ていたキョウコさんと、開店までに食事を済まそうということになってレストランを探した。語学留学でモンマルトルに住んでいるというキョウコさんであったが、なかなか安くて適当な店が見つからない。坂道を歩き続けたが、結局、テルトル広場近くの屋台のような店で27フランのバゲットをほおばることになった。
ラパン・アジルは、予想に反して歌手と聴衆(客)の距離感がなく、アットホームな店であった。古い伝統の奢りはどこにもなく親しみ感があったが、私には歌声喫茶のようで物足りなかった。といっても、昔からこのスタイルだったのだろう。だから、あのアル中で自閉症のユトリロも安心して来ることができたのだろうと思った。
数人の歌手が交代で歌った。各々個性があって、座ってお喋りを交えながらのものや大歌手のように威厳を持って立って歌う歌手もいる。
一人のお喋りな頭の薄くなった歌手が「ここには日本人の客がいる。日本語では、ラムールは何ですか?」と聞いてきた。「アイ(愛)」と答えると。すかさず、「アイ、アイ、アイ、アイ……」という出だしの歌を歌いだした。こういうオチだったのかと私たちは笑って聴いた。
やっと、私の知っている歌が歌われた。歌ったのは眼鏡をかけた学校の先生のような作家高村薫に似た女性だ。「サン・ジャン、私の恋人」(Mon amant de Saint-Jean)だ。しかも、シャンソンの中で私が最も好きな歌だ。この曲だけで満足してしまった。
次々と歌い手に歌い継がれて時は過ぎていくのに、客はいっこうに帰ろうとしない。モンマルトルの夜は、こうして更けていくのだった。
深夜、わが愛しのサン・ピエール・ホテルの帰ると、部屋は変わっていて荷物も移されていた。やれ、やれだ。
10月19日、夜19時45分発のENユーロナイト寝台夜行列車でヴェネツィアを発ってパリへ向かった。パリには翌20日朝8時23分着。ヴェネツィアには後ろ髪を引かれる思いであったが、とりあえずイタリアの旅を終えた。
朝どんよりとした空の中を、パリのベルシー駅に列車は静かに入り込んだ。外は小雨だった。思えば、今回の旅ではイタリアは晴天続きだったのに、フランスでは雨によく出あった。旅の初めのパリに着いた翌日の9月26日も小雨だった。そのあと、サンテ・ミリオン、カルカッソンヌ、モナコでも雨にあった。サン・セレでポールと一緒に買ったラフマの防水加工のブルゾンが役にたっている。フードつきだから小雨ぐらいだったら傘は要らない。
そのままカルチエ・ラタンに向かった。メトロのオデオンの出口を出ると、やはりまだ雨は降っていた。
すぐにサン・ジェルマン通りの角にあるカフェに入って、朝食をとった。通り沿いの席に座って、街行く人を眺めながらカフェオレを啜り、パンを囓った。私の席の隣は仲の良い若いカップルで、ノートを持っていたから学生だろう。学生なのに、私より贅沢にサラダもとっていた。一つの皿からお互いフォークを伸ばしてサラダをほおばっていた。彼らは昨夜の延長でここへ来ているのかもしれなかった。
雨がやむのを待っていたがやみそうもなかったので、まずはホテル・サン・ピエールへ行くことにした。ホテル・サン・ピエールは、初めてのパリへの旅の際に泊まった想い出のホテルだった。
このホテルのあるエコール・ド・メディシン通りは、得体の知れない通りだ。大きなサン・ジェルマン通りから斜めに切り刻んだようなこの通りは、右にパリ大学の塀が横たわり、殺風景で人通りも少なく、道も途中から急に細くなっている。その細くなったところから店が建ち並び、そこにサン・ピエール・ホテルはあるのだ。その道を真っ直ぐ通り抜けると大きなサン・ミッシェル通りにぶつかる。
サン・ピエール・ホテルに入ると、フロントには鷹のような目つきの鋭い30歳前後の男がいた。笑顔をどこかに忘れてきたような無愛想な男だ。シングルの部屋はあるかと聞くと、あと1時間待ってくれと言う。近くをぶらぶらしようかと思ったが、雨も降っているので小さいロビーの椅子に座って待つことにした。
ロビーのテーブルには雑誌『マダム・フィガロ』と一緒に『ル・フィガロ』が置いてあった。『ル・フィガロ』の表紙は、ブッシュとベン・ラディン(フランス綴りだとBen Laden)の顔写真だった。9.11テロ事件の波は、ヨーロッパのおしゃれな雑誌をも無視せざるを得ない状況であることを示していた。
1時間ぐらいして、フロントの男に、もう部屋は空いたかどうかと質すと、パソコンを眺めてはボードのキーを叩いていた。どうやら空き部屋ができたらしく、5階の部屋だと言ってキーを渡した。エレベーターでその階を下りて部屋の近くに来ると、掃除係の女性にその部屋は空いていないと言われまたフロントへ戻った。すると、男はまたしかめっ面で真剣にパソコンに向かい、今度は違う部屋を告げキーを渡した。その部屋へ行くと、ドアは空いていたので中に入ると、ツインの部屋で誰かの荷物が置いてあった。もう1度似たような間違いがあって、計3度違う部屋に行かされた。
パソコンの具合が悪いのか男がうまく使いこなせないのか、男は真剣な表情で、慇懃な態度が少しずつではあるが恐縮した顔になっていった。それでも、「ソーリー」の言葉もないので、ここまで間違われても怒鳴り声一つ出さない東洋人を、忍耐強いと思っているのか、あるいは怒ってこのホテルのドアを蹴って出ていけばいいのにと思っているのか、その表情からは窺いしれなかった。
私は、「27年前にこのホテルに泊まったことがある」と言った。君がこのホテルと何のゆかりもない頃から私はこのホテルを知っているんだよと、嫌みを言ったつもりだったが、男の表情には変化はなかった。私のこのホテルに対する愛着が、急激に薄れていくのを感じた。
やっと部屋が決まったのは、ホテルに着いて2時間がたっていた。男は、初めて「ソーリー」と謝った。フロントの男と私の関係は、少し変わったものになっていた。最初の傲慢な視線の代わりに、なるたけ目を合わせないでおこうという態度になっていた。
雨の日は、美術館でゆっくり絵の鑑賞でもして時間を過ごそうと思ってオルセー美術館へ行った。すると、館はストライキで閉まっていた。入口で出くわした女の子は、昨日も来たが閉まっていたと苦笑いを浮かべ、お手上げの表情をした。私は、仕方がないので今度はルーブル美術館へ行った。ここも同じくストライキで閉まっていた。ルーブルの脊柱の庇の下で座って雨のやむのを待っていたが、なかなかやみそうもない。
小雨の中、シャンゼリゼ通りにある政府観光局に走った。そこで、オルセーもルーブルも閉まっているが、ポンピドー美術館は開いているかと聞いた。すると、係の人は「そこも閉まっている。明日の朝11時にならないと、どの美術館も開館するかどうか私どもも分からない」と言った。
やはり、フランスの労働者はたくましい。いまだに公務員でもストライキを実行するだけの実力を蓄えているのだ。日本は、バブル崩壊後はどの単産もそれだけの力はなく、組合も連合も骨抜きになり、それにストライキでもしようものなら世間から総叩きにあいそうな風潮である。
明日10月21日に、パリからアムステルダムに行く予定である。明日、オルセー美術館が開いていたら、アムステルダム行きを遅らせてパリに滞在しようと思ったが、開いているかどうかも分からないのだったら、予定通りパリを発つことにした。どちらにしろ、10月25日、アムステルダム発KLMの飛行機で帰国するのだ。
明日はパリからロンドンに行くのもいいかなと頭によぎったが、オランダも行ったことがないので予定通りそちらを優先させることにした。
雨も小降りになってきたので、モンマルトルへ行くことにした。私のパリの定番だ。メトロを出ると、雨はあがっていた。時間もあるので、ロシュシュアール通りからテルトル広場の方に坂道を歩いていった。坂の上の広場から、今夜はシャンソを聴こうと思って「ラパン・アジル」に行った。
かつてはユトリロやピカソも通ったという、いまだに古ぼけた屋敷のシャンソニエであるが、閉まっている。扉の前にぶら下がっているプレートを見ると、開店にはまだ1時間ぐらい時間があった。私と同じようにシャンソンを聴きに来ていたキョウコさんと、開店までに食事を済まそうということになってレストランを探した。語学留学でモンマルトルに住んでいるというキョウコさんであったが、なかなか安くて適当な店が見つからない。坂道を歩き続けたが、結局、テルトル広場近くの屋台のような店で27フランのバゲットをほおばることになった。
ラパン・アジルは、予想に反して歌手と聴衆(客)の距離感がなく、アットホームな店であった。古い伝統の奢りはどこにもなく親しみ感があったが、私には歌声喫茶のようで物足りなかった。といっても、昔からこのスタイルだったのだろう。だから、あのアル中で自閉症のユトリロも安心して来ることができたのだろうと思った。
数人の歌手が交代で歌った。各々個性があって、座ってお喋りを交えながらのものや大歌手のように威厳を持って立って歌う歌手もいる。
一人のお喋りな頭の薄くなった歌手が「ここには日本人の客がいる。日本語では、ラムールは何ですか?」と聞いてきた。「アイ(愛)」と答えると。すかさず、「アイ、アイ、アイ、アイ……」という出だしの歌を歌いだした。こういうオチだったのかと私たちは笑って聴いた。
やっと、私の知っている歌が歌われた。歌ったのは眼鏡をかけた学校の先生のような作家高村薫に似た女性だ。「サン・ジャン、私の恋人」(Mon amant de Saint-Jean)だ。しかも、シャンソンの中で私が最も好きな歌だ。この曲だけで満足してしまった。
次々と歌い手に歌い継がれて時は過ぎていくのに、客はいっこうに帰ろうとしない。モンマルトルの夜は、こうして更けていくのだった。
深夜、わが愛しのサン・ピエール・ホテルの帰ると、部屋は変わっていて荷物も移されていた。やれ、やれだ。
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