写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

車間距離

2007年05月25日 | 生活・ニュース
 学生時代に自動車教習に通い車の免許を取った。就職した年に中古の三菱コルト1000を買い、以来42年間、車を手放したことはない。

 一旦停止をしないなどの小さな違反はあったものの、大きな事故を起こすこともなく今日に至っている。

 10年位前から、前を走る車との車間距離が徐々に長くなってきた。若いころは、「ねえねえ、もう少し離れて走ってよ」と、妻に注意されるような走り方をしていた。

 ダンプカーについて走っている時には、積んでいる砂利が私の車のボンネットに落ちて来るくらい近接して走ったこともある。

 最近では「ねえねえ、隣の車が割り込んでくるわよ」と、昔とは逆の注意をされることが多くなった。

 年をとり老眼が進んでくると、近くのものを見るには目に力が要る。遠くを見るほうが楽である。

 そのせいだと思うが、車間距離が長くなってきた。その分、妻から指摘されるように、2車線の道路では割り込まれることは良くある。

 何十メートルも空けて走っているわけではなく、後続の車に迷惑をかけているとは思っていない。何よりも追突事故などを起こす危険性もないのでこれでよしと思っている。

 時に、後続車が追突をしそうなくらい近接して後ろをついて来ることがある。万が一をまったく考えていないやつだなと、ミラー越しに顔を見てみる。

 若い女性が、くわえタバコでハンドルを握っていたことがあった。危険予知の出来ない人に同情の念が湧く。

 そんな時、目新しい新聞記事を見た。高齢者の免許証の返上が議論されているが、認知症になると車間距離がきわめて短くなると書いてある。

 安全を確保するための距離感がなくなるからであろうか。そうしてみると、車間距離が長いということは、まだ免許証を返上しなくてもいいということか。

 車間距離が長過ぎるということも、身体のどこかの何かが狂っていっているのかも知れない。その分、最近は妻との距離が近づいてきたようにも思っているが、それを訊いてみたことはない。
(写真は、割り込まれそうになった「ロードスター」)

ブルーベリー

2007年05月24日 | 季節・自然・植物
 家の西側の狭い庭にブルーベリーの木がある。植えてからかれこれ20年近くが経っていて、株立ちの幹も大きくなっている。

 先日、滅多に出ない西側の庭に出てみると、気がつかない内にもう沢山の実がなっていた。新緑の葉の中で、よく見ると薄緑の実が愛らしい。

 昨年は、ざっと4000個の実がなった。そのまま食べても甘くおいしいが、ジャムにしてパンに付けておいしくいただいた。

 ブルーベリーは、紫色の色素・アントシアンが目に対して優れた効果があるということで、盛んに果実の販売・苗木の栽培がされているという。

 我が家のものは毎年7月の下旬頃から収穫でき、完熟した実は藍色になって、指で触れるとポロリと落ちるように採れる。

 まだ青い実を、デジカメを持ち出して撮ってみた。接写しようと思い近づいて実をよく見ると、あるものに似ていることに、はたと気がついた。

 水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる目玉親父である。本は読んだことはないが、この親父の顔は時々何かで見て知っている。

 顔全体が目玉で、まさにこのブルーベリーにそっくりである。なーるほど、これで分かった。ブルーベリーが目に良いはずだ。
   (写真は、目玉親父似の我が家の「ブルーベリー」)

母と息子

2007年05月23日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画
 3日前から妻が東京に出張しているので、レトルト食品を買い込んできて電子レンジを相手に自炊らしきことをやっている。

 それも少し疲れ気味となり、今日は昼前に家を出て外食をした。その後は、あらかじめ調べておいた映画を、久しぶりに見に行った。
 
 題名は「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」という、リリー・フランキーが書いた小説を映画化したものである。

 若い女性が座っている切符売り場で、60歳以上のシニア資格での入場券を買おうとしたとき、免許証の提示を求められた。なんとも嬉しいサービスであった。

 わたしは小説は読んでいないが、ボクと母のこと、時々現れる父のことを書いたものであることは知っていた。

 苦労して大学まで出してくれた母親の最期を看取るシーンでは、思わず涙が出てしまった。

 見方によれば、主人公のボクはマザコンのようにも見えるが、私には他人事とは思えない。かつての私と母の関係を見ているような映画に思えた。

 今年の初めにエッセイ集を自費出版し、それを読んでもらった何人かの人から感想を書いたはがきをもらった。

 その一人は「…それにいたしましてもロードスターさんは『お母さん!』でいらっしゃるのですね。お母上の葬儀の折にもそれを感じましたが…」と書いている。

 リリー・フランキーといわず世の息子たちは、母親に対しては父親に対するとは比べものにならないくらい多く、深い想いがあるのではと思う。

 この映画は、態度にも表さず口数も少ない息子たちが、本当は母親をどう思っているのかを知るために、世のお母さんには是非見てもらいたい、いい映画であった。
    (写真は、久しぶりの「映画館」)

ハンカチおじさん

2007年05月22日 | 生活・ニュース
 夕方6時を過ぎたころ、ハートリーをつれて散歩に出た。山蔭を歩いて明るいところに出たとき、向こうからミニバイクに乗ったご婦人がやってきた。

 私のそばに来たとき、バイクを止めヘルメットを脱いだ。顔を見ると裏の団地の一人住まいのFさんであった。

 娘さんが私の息子と同級だったと聞いていたが、今は嫁いでいる。毎日バイクに乗って仕事に出ていて、充実した日々を送っているように見受けられた。

 「先日、ロードスターさんのエッセイを新聞で読みましたよ」という。「何新聞ですか」「朝日です」と答える。

 数日前の朝日新聞の「声」の欄に「カフスボタン」という題で、亡き母が北海道旅行に行ったとき、お土産で買ってきてくれたカフスボタンのことを書いたものが掲載されていた。

 「あのエッセイを読みながら、お元気だった頃のロードスターさんのお母さんのことを思い出しました」と言ってくれる。

 私の母を知っている人が読んでくれていた。話をしていると、エッセイを読むのが好き、文を書くことも好きだという。

 「これからもエッセイを新聞に投稿してください」と言いながら、小さな包みを出してくれた。ハンドタオルだと言う。

 生まれて初めて読者からプレゼントを頂いた。しかもハンドタオル、いや木綿のハンカチだ。ハンカチ王子ならぬハンカチおじさんになった気持ちであった。

 帰り道、お返しに私の自費出版書「行くぞ! ハートリー」の手持ちのものを「もしよかったら読んでください」と言って、お貸しした。

 新聞の読者投稿欄は読者が多く、このように不意に声をかけられることが間々あるが、意表を突かれるそれもまた楽しく嬉しい。

 明日からの散歩には、頂いたハンカチで顔の汗を上品に押さえながら歩いて見よう。犬と歩けば誰かに当たり、また何かもらえ…、そうそうそんなことはないか~。
  (写真は、散歩中いただいた「ハンドタオル」)

上用饅頭

2007年05月21日 | 食事・食べ物・飲み物
 20日、県境の山頂にある蜂が峰総合公園で、恒例のローズフェスタがあった。長袖では暑すぎるかんかん照りの中、先輩夫妻と出かけてみた。

 来園者は多く、色とりどりに今を盛りにバラが咲き乱れている。フリーマーケットもあり、露店あり、舞台で演芸・民謡舞踊ありと大変な盛り上がりようであった。

 その賑やかな一角からすこし離れたところに古い民家を移設してきた民族資料館という家屋があり、裏千家の茶会が催されていた。

 縁側に面した二間続きの部屋で行われていた。座敷には上がらず、庭の椅子に座ってお茶をよばれた。

 美しい着物姿の熟女が笑顔で接待してくれる。席に座ると直ぐに小さな上用饅頭が一つずつ運ばれてきた。錦帯橋近くにある和菓子屋さんのものだという。

 その表面には、季節を先取りした2匹の鮎の姿が焼き印してある。口に入れてみると柔らかい上にねっとりとしている。ぱさぱさしていない。

 先輩の奥さんにその訳を聞いてみた。山芋が入っているからだという。おいしく頂き、その時はそれで終わった。

 明けて今日、このブログを書きながら「上用饅頭」の字を確認していて、やっとあることに気がついた。

 「上用饅頭」とは、本来は薯蕷饅頭と書く。「薯蕷」(じょうよ)とは山芋、自然薯(じねんじょ)とも呼ぶ芋。この山の芋をきめの細かくすりおろし、砂糖と上用粉を加えた生地であんを包み蒸しあげたものが薯蕷饅頭。独特のやわらかさと白さがある生地で、シンプルで上品な和菓子。
 昔、和菓子は一般庶民には口にできない高価なもので、貴族など位が上の者しか食べることが出来なかった。そのため上に用いる饅頭ということで上用饅頭とつけられたのが由来、だという。

 「上用饅頭」とは、言ってみれば山芋饅頭のことである。山芋が入っていて当然のことであった。

 恥ずかしながら、この年になり初めてこんなことを知った。しかし、パソコンに「やまいも」と入力すると何故か「病も」と変換されるのは、年のせいでしょうかね~。
  (写真は、茶会で頂いた鮎焼印の「上用饅頭」)