今日はじめて企業がサポートして制作し、ウェブ上で公開している短編映画を観た。きっかけはたまたまだったけれど、そこには監督・大森一樹の名前がクレジットされていた。
1970年代後半のあの頃、今から思えば日本映画はある意味とても面白い時期だった。それまで商業映画は基本的に映画会社の監督が撮るものであったのに対して、それに対抗して制作されるインデペンデントな映画はそれこそ頭でっかちで自己満足的で難解な「芸術」っぽい作品が多かった。
そうした中、今や巨匠となってしまった大林宣彦監督がいみじくも「自主映画はハリウッドを目指す」と宣言したことに象徴されるようにそれまでの今で言うインディーズ映画とは一線を画した娯楽性も充分備えている作品を携えてさまざまな監督が登場してきた。
「ユキがロックを捨てた夏」(内藤剛司主演!'78年)の長崎俊一、「高校大パニック」('77年)「突撃博多愚連隊」('78年)の石井聰互、そして「明日に向かって走れない」('72年)「暗くなるまで待てない」(鈴木清順監督出演!'75年)の大森一樹などなど。
特に大森一樹は当時、現役医大生でありながら78年には松竹映画で嵐寛寿郎 岡田嘉子という夢の二人が主演のロードムービー「オレンジロード急行」でメジャーデビューした後は、今は亡き古尾谷雅人主演のこれまた日本映画では珍しいちゃんとした青春群像ドラマだった「ヒポクラテスたち」を撮り、その後も村上春樹原作の「風の歌を聴け」、あるいは吉川晃司デビュー作「すかんぴんウォーク」と立て続けに撮り続け、とてもシンパシーを感じる同世代としては唯一の監督だった。
思えば、周りを見渡しても同じく同世代と言う意味でもちょうどその頃名作品集「ショートピース」('79年)や「ハイウェイスター」を描いて俄然注目を集めていた大友克洋、この二人に共感を覚えていた連中も相当に多くいたはずだ。
あれから随分時が過ぎ、劇場ではなくパソコンの小さな画面上で彼の作品をこうして観ていると、こういった環境で観るというのも存外悪いものでもないなと思ってしまった次第。
ちなみに興味のある人はこちらのサイトまで
それにしても「お父さんのバックドロップ」ですっかりファンになってしまった宇梶剛士に対してはもっともっと愛すべきヒール役にして欲しかったぞ。
1970年代後半のあの頃、今から思えば日本映画はある意味とても面白い時期だった。それまで商業映画は基本的に映画会社の監督が撮るものであったのに対して、それに対抗して制作されるインデペンデントな映画はそれこそ頭でっかちで自己満足的で難解な「芸術」っぽい作品が多かった。
そうした中、今や巨匠となってしまった大林宣彦監督がいみじくも「自主映画はハリウッドを目指す」と宣言したことに象徴されるようにそれまでの今で言うインディーズ映画とは一線を画した娯楽性も充分備えている作品を携えてさまざまな監督が登場してきた。
「ユキがロックを捨てた夏」(内藤剛司主演!'78年)の長崎俊一、「高校大パニック」('77年)「突撃博多愚連隊」('78年)の石井聰互、そして「明日に向かって走れない」('72年)「暗くなるまで待てない」(鈴木清順監督出演!'75年)の大森一樹などなど。
特に大森一樹は当時、現役医大生でありながら78年には松竹映画で嵐寛寿郎 岡田嘉子という夢の二人が主演のロードムービー「オレンジロード急行」でメジャーデビューした後は、今は亡き古尾谷雅人主演のこれまた日本映画では珍しいちゃんとした青春群像ドラマだった「ヒポクラテスたち」を撮り、その後も村上春樹原作の「風の歌を聴け」、あるいは吉川晃司デビュー作「すかんぴんウォーク」と立て続けに撮り続け、とてもシンパシーを感じる同世代としては唯一の監督だった。
思えば、周りを見渡しても同じく同世代と言う意味でもちょうどその頃名作品集「ショートピース」('79年)や「ハイウェイスター」を描いて俄然注目を集めていた大友克洋、この二人に共感を覚えていた連中も相当に多くいたはずだ。
あれから随分時が過ぎ、劇場ではなくパソコンの小さな画面上で彼の作品をこうして観ていると、こういった環境で観るというのも存外悪いものでもないなと思ってしまった次第。
ちなみに興味のある人はこちらのサイトまで
それにしても「お父さんのバックドロップ」ですっかりファンになってしまった宇梶剛士に対してはもっともっと愛すべきヒール役にして欲しかったぞ。
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