11月1日
拝啓 ミャオ様
朝の気温は3度、日中は13度まで上がる。昨日いた東京での最低気温が15度で、その前にいた山の上の気温は、もう終日マイナスの気温だった。
昨日旅先から戻ってくると、家の中は冷え切っていて、8度位しかなく、薪ストーヴで暖めるのに時間がかかった。その後、パソコンの画面で、この旅の山の写真を眺めては、ひとり悦にいっている。いやあー、良かったな、いつまでも帰らなくて、ミャオには悪いけれど。
10月27日早朝、長野県は安曇野、豊科の駅に着く。三両編成の電車から降りたのは私一人だった。駅前に一台だけ止まっていたタクシーの運転手は、その中で丸くなって寝ていた。山に雲はあるが、晴れた寒い朝だ。
前の日まで行き先を決めかねていた。予定は、安曇野側から常念岳(2857m)に登り、縦走して蝶ヶ岳に至り、上高地に下るという計画だった。山には、また新たに雪が降っているのは分かっていたが、むしろそれは望むところで、むしろその後の天気の方が問題だったのだ。
山は晴れた日以外には歩かない、という私のわがままな方針から、昨日の天気予報では長野中部は余り良くはないので、それなら天気の良い南部の、中央アルプスにでも行こうと思っていたのだ。それが、朝5時の予報では、何と今日明日と天気マークがついている。
これはきっと、八大竜王(幸田露伴「五重塔」参照)が私の願いを聞き入れてくれて、夏の白馬岳山行(7月29日の項)が良くなかった代わりに、その埋め合わせとして、今回を晴れの登山日和にしてくれたのに違いない、ああ、ありがたや。
カラマツの黄葉が鮮やかな、一の沢の登山口(1323m)から登り始める。沢に沿ってなだらかに道は続いている。私の前にも後にも誰も居ない。なんという静かな林の中の道だろう。
しばらく歩いて、大きな音を立てて流れている沢の河原で、一休みする。上空は雲に覆われているけれども、背後の安曇野側には青空が広がり、日が差し込んできているし、目指す山の方向の、雪で白くなった常念乗越の稜線辺りには、青空も見えている。
下草のササが広がる谷あいが次第に狭くなり、道は今までの左岸(川を遡る右手)から右岸(左手)に移り、再び左岸に戻り、急な高巻きの道を越えた後、さらに沢を渡る。もう山は初冬の時期だから、夏の時期ほどの喉の渇きはないのだが、沢に沿っての道のあちこちに小さな流れがあり、水に不自由することはない。
そしていよいよ、シラビソの樹の急斜面の尾根を、ジグザグに登っていく。あちこちに小さく残っていた雪は、いつの間にか、一面の白い斜面へと変わり、そこに少し前に通ったものらしい足跡がついている。
風の音が近くなり、木々が低くなり、そして雪が少し厚みを増してきた。山用ジャケットを着込み、冬用手袋に毛糸帽をかぶる。
明るくなって、低いハイマツの傍の50cmほどの深さの雪のラッセル跡をたどると、風吹きすさぶ常念乗越(2466m)に着く。
楽しみにしていた、大展望は・・・青空はあるものの、やはり雲が多く、槍・穂高の山並みも見えなかった。風で雪が吹き飛ばされた礫地の、緩やかな斜面のすぐ下には、常念小屋が見えている。
まだ昼前で、今日の行程はわずか4時間20分ほどだったが、この天候では辺りの景色を見に行くというわけにもいかない。稜線の風に身をすくめながら、小屋に下りていった。
今日の泊り客は私を除く、3パーティー6人。夏のシーズンの時なら、一畳に二人位は並んで寝ることになるのに、さすがにもう小屋閉めが近づいた初冬の時期だ、登山客は少なく、一部屋ずつをパーティーごとに割り当ててくれた。つまり私も、ゆったりと一人部屋だった。
談話室兼食事所の暖かい石油ストーヴの傍で、私よりはずっと若い登山者たちと色々と話をした。旅に出て、見知らぬ人たちに出会い、ひと時の間でも話をするのは、良いことだと思う。普通の日常の暮らしの中では、決して出会うこともない人たちと話ができるのだから。
会話というのは、お互いに、話のやり取りをすることなのだから、本来両者には優劣の差などはなくて、どんな相手でも、臆することなく、しかし見下すこともなく、常に五分と五分の立場であるべきなのだ。
大げさな言い方だと思われるかもしれないけれど、例えば、その相手がお年寄りの人だとしても、あるいは、まだ小さなやっと話せるようになったばかりの子供だとしても、さらに彼らが善人であろうと悪人であろうと、話をすることによって、必ず何事かを考えることになるはずだ。それが、良い思いになったとしても、不快な思いになったとしてもだ。
もちろん、それが何か人生の済度に役に立つものだとか思って、話をしてはいないけれど、少なくとも、後になってその相手の話が、夢に現れる無意識下の希求のように、自然にまるで本来の自分の思いのように、口をついて出てくることもあるのだ。
とは言え、常日頃、ひとりで暮らしている私にとっては、同じように少し深く考えてしまうような人に出会い、話をすることは、心嬉しいことでもある。
その登山者の一人である彼と、連日のニュースになっている世界の金融危機の話から、世界の人々、日本人論にまで話が及んだ。
そこで、私が、今日の日本人の道徳観倫理観のなさは、宗教心の欠如(もちろん私も無信仰ではあるが)がその一因であると言ったのを受けて、彼が答えたのだ。「戦後に入ってきたアメリカ文化、アメリカ思想を一つの宗教だと考えれば・・・そうして古来、日本人は様々な宗教を受け入れ順応してきたわけだから」。
なるほどと思った。それは、今の変化を時代の流れとして好意的に受け取れない、保守的な我ら、おじさん世代の思考の柔軟性のなさを、深く考えさせられた一言でもあったからだ。
話すことはいいよなあ、話すのは。ミャオと一緒に居る時は、考えてみればいつもお互いに話しているものなあ。ミャオはネコ語で、私は日本語と少しネコ語で・・・。
山の話の続きは、次回に。写真は次の日(28日)、蝶ヶ岳から見た常念岳。
飼い主より 敬具
拝啓 ミャオ様
朝の気温は3度、日中は13度まで上がる。昨日いた東京での最低気温が15度で、その前にいた山の上の気温は、もう終日マイナスの気温だった。
昨日旅先から戻ってくると、家の中は冷え切っていて、8度位しかなく、薪ストーヴで暖めるのに時間がかかった。その後、パソコンの画面で、この旅の山の写真を眺めては、ひとり悦にいっている。いやあー、良かったな、いつまでも帰らなくて、ミャオには悪いけれど。
10月27日早朝、長野県は安曇野、豊科の駅に着く。三両編成の電車から降りたのは私一人だった。駅前に一台だけ止まっていたタクシーの運転手は、その中で丸くなって寝ていた。山に雲はあるが、晴れた寒い朝だ。
前の日まで行き先を決めかねていた。予定は、安曇野側から常念岳(2857m)に登り、縦走して蝶ヶ岳に至り、上高地に下るという計画だった。山には、また新たに雪が降っているのは分かっていたが、むしろそれは望むところで、むしろその後の天気の方が問題だったのだ。
山は晴れた日以外には歩かない、という私のわがままな方針から、昨日の天気予報では長野中部は余り良くはないので、それなら天気の良い南部の、中央アルプスにでも行こうと思っていたのだ。それが、朝5時の予報では、何と今日明日と天気マークがついている。
これはきっと、八大竜王(幸田露伴「五重塔」参照)が私の願いを聞き入れてくれて、夏の白馬岳山行(7月29日の項)が良くなかった代わりに、その埋め合わせとして、今回を晴れの登山日和にしてくれたのに違いない、ああ、ありがたや。
カラマツの黄葉が鮮やかな、一の沢の登山口(1323m)から登り始める。沢に沿ってなだらかに道は続いている。私の前にも後にも誰も居ない。なんという静かな林の中の道だろう。
しばらく歩いて、大きな音を立てて流れている沢の河原で、一休みする。上空は雲に覆われているけれども、背後の安曇野側には青空が広がり、日が差し込んできているし、目指す山の方向の、雪で白くなった常念乗越の稜線辺りには、青空も見えている。
下草のササが広がる谷あいが次第に狭くなり、道は今までの左岸(川を遡る右手)から右岸(左手)に移り、再び左岸に戻り、急な高巻きの道を越えた後、さらに沢を渡る。もう山は初冬の時期だから、夏の時期ほどの喉の渇きはないのだが、沢に沿っての道のあちこちに小さな流れがあり、水に不自由することはない。
そしていよいよ、シラビソの樹の急斜面の尾根を、ジグザグに登っていく。あちこちに小さく残っていた雪は、いつの間にか、一面の白い斜面へと変わり、そこに少し前に通ったものらしい足跡がついている。
風の音が近くなり、木々が低くなり、そして雪が少し厚みを増してきた。山用ジャケットを着込み、冬用手袋に毛糸帽をかぶる。
明るくなって、低いハイマツの傍の50cmほどの深さの雪のラッセル跡をたどると、風吹きすさぶ常念乗越(2466m)に着く。
楽しみにしていた、大展望は・・・青空はあるものの、やはり雲が多く、槍・穂高の山並みも見えなかった。風で雪が吹き飛ばされた礫地の、緩やかな斜面のすぐ下には、常念小屋が見えている。
まだ昼前で、今日の行程はわずか4時間20分ほどだったが、この天候では辺りの景色を見に行くというわけにもいかない。稜線の風に身をすくめながら、小屋に下りていった。
今日の泊り客は私を除く、3パーティー6人。夏のシーズンの時なら、一畳に二人位は並んで寝ることになるのに、さすがにもう小屋閉めが近づいた初冬の時期だ、登山客は少なく、一部屋ずつをパーティーごとに割り当ててくれた。つまり私も、ゆったりと一人部屋だった。
談話室兼食事所の暖かい石油ストーヴの傍で、私よりはずっと若い登山者たちと色々と話をした。旅に出て、見知らぬ人たちに出会い、ひと時の間でも話をするのは、良いことだと思う。普通の日常の暮らしの中では、決して出会うこともない人たちと話ができるのだから。
会話というのは、お互いに、話のやり取りをすることなのだから、本来両者には優劣の差などはなくて、どんな相手でも、臆することなく、しかし見下すこともなく、常に五分と五分の立場であるべきなのだ。
大げさな言い方だと思われるかもしれないけれど、例えば、その相手がお年寄りの人だとしても、あるいは、まだ小さなやっと話せるようになったばかりの子供だとしても、さらに彼らが善人であろうと悪人であろうと、話をすることによって、必ず何事かを考えることになるはずだ。それが、良い思いになったとしても、不快な思いになったとしてもだ。
もちろん、それが何か人生の済度に役に立つものだとか思って、話をしてはいないけれど、少なくとも、後になってその相手の話が、夢に現れる無意識下の希求のように、自然にまるで本来の自分の思いのように、口をついて出てくることもあるのだ。
とは言え、常日頃、ひとりで暮らしている私にとっては、同じように少し深く考えてしまうような人に出会い、話をすることは、心嬉しいことでもある。
その登山者の一人である彼と、連日のニュースになっている世界の金融危機の話から、世界の人々、日本人論にまで話が及んだ。
そこで、私が、今日の日本人の道徳観倫理観のなさは、宗教心の欠如(もちろん私も無信仰ではあるが)がその一因であると言ったのを受けて、彼が答えたのだ。「戦後に入ってきたアメリカ文化、アメリカ思想を一つの宗教だと考えれば・・・そうして古来、日本人は様々な宗教を受け入れ順応してきたわけだから」。
なるほどと思った。それは、今の変化を時代の流れとして好意的に受け取れない、保守的な我ら、おじさん世代の思考の柔軟性のなさを、深く考えさせられた一言でもあったからだ。
話すことはいいよなあ、話すのは。ミャオと一緒に居る時は、考えてみればいつもお互いに話しているものなあ。ミャオはネコ語で、私は日本語と少しネコ語で・・・。
山の話の続きは、次回に。写真は次の日(28日)、蝶ヶ岳から見た常念岳。
飼い主より 敬具