ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(44)

2008-11-08 18:53:37 | Weblog
11月8日
 拝啓 ミャオ様
 
 昨日の夕方からの強い西風は、北西の風になり、今日も一日中、ごうごうと音を立てて吹いている。気温は、日中でも7度くらいまでしか上がらない。
 旭川周辺では、すでに20cmの積雪があり、山沿いではさらに40cmもの雪が降るだろうとの予報だ。しかしここ十勝地方では、西側には日高山脈があり、北側には大雪山系の山々があって、それらが取り囲むようにして雪雲を阻んでくれているのだ。今、上空には鮮やかな快晴の空が広がっている。
 西高東低の気圧配置が続く冬の間、十勝地方では、この風の強い、寒い、しかし晴れた日が続く。年によっては、正月の頃には、札幌や旭川が50cmもの雪になっているのに、帯広では積雪0cmということもある。
 私が、十勝地方を住む場所として選んだのは、この冬の季節の、マイナス20度を越える寒さと、晴れ渡る青空ゆえである。しかし今年も、その冬を十分体感できないまま、ミャオのいる九州へ戻らなければならない。残念なことではあるが。
 仕方がない、今はこの冬の初めの日々を、ゆっくりと味わうことにしよう。ただし、こんな風の強い日には、外に出ないで、薪ストーヴで暖かくなった家の中にいたほうが良い。
 ガラス窓越に、暖かい日の光を浴びながら、音楽を聴く。ルイ・クープラン(1626~61)の、クラヴサン(チェンバロ)曲だ。演奏は、女性奏者のユゲット・グレミー・ショーリャック。レコード時代の名録音で名高い、シャルラン・レーベルのCD復刻版である。
 あのレコードの音とは比ぶべくもないが、それでも彼女の弾くたおやかな音が心地よい。クープラン一族のはじまりでもあるこのルイのクラヴサン曲は、その後に彼の甥であるフランソワ・クープラン(1668~1733)によって、フランス・バロックのクラヴサン曲として集大成されることになるのだ。
 ところで今聞いている、このルイ・クープランと同時代を生きたのが、オランダの画家であったあのヤン・フェルメール(1632~75)である。
 一週間前に、私は東京・上野で開催中の「フェルメール展」を見てきた。さらに併せて、同じ上野で同時期に開かれていた「ハンマースホイ展」にも行ってきた。前回までの記事(11月1日、3日、5日)で書き綴ってきた、北アルプス山行を終えてのことではあるが、この旅ではまた、これらの絵を見に行くことも、大事な目的だったのだ。
 何度も書いていることだが、私は若い頃に4ヶ月の間、ヨーロッパを旅して回ったことがある。 当時から流行っていた、ザックを担いだGパン姿で、安い宿を渡り歩く例のバック・パッカーのスタイルだった。
 しっかりと計画を立てて、ヨーロッパじゅうをめぐったのだが、その時の目的もはっきりとしていた。もちろんヨーロッパそのものが目的ではあるが、それぞれの国や人々、その風土や文化の差異について知ること・・・建築、絵画、音楽は、その中でも、アルプスの登山と伴に大きな目的の柱の一つでもあった。
 どうしても見たかった絵画の一つが、アムステルダム国立美術館にあるフェルメールの「牛乳を注ぐ女」(写真左)であった。私は二日間、数時間にわたって、その絵の前に立ち続けた。たまに他の客が一人二人と来るだけだった。
 すっかり顔見知りになった監視員のおじさんは、フラッシュなしならと、写真を撮ることさえ許してくれたのだ。何と幸せなひと時だったことだろう。その時のこの絵に対する思いを、当時、ノートに3ページにわたって書いている、今ここで同じことを書くつもりはないけれど。
 そしてちょうど一年前に、同じ東京は上野に、なんとこの「牛乳を注ぐ女」がやってきたのだ。私はその時、今回の旅と同じように、北アルプス立山への山行(この時もまた素晴らしい山旅だった)と併せて、その絵に会いに行ったのだ。
 溢れんばかりの人の波だった。しかしその人々の黒い影の向こうに、確かに間違いなくその絵は、彼女はいたのだ。あの時の思いがよみがえってきた。人々の雑踏の中で、私は危うく、涙をこぼしそうになった。彼女はあの時のまま、変わらずに、台所の部屋で、牛乳を注ぎ続けていた。しかし、私には、二十数年の歳月が流れていた。
 そして今回の東京都美術館の「フェルメール展」。数少ないフェルメール作品のうちの、なんと7点もの絵が集められているのだ。その中の「小路」は、アムステルダムで見たものだが、今回見ても、その構図、空間処理、描写法には感心せずにはいられない。
 他に様々に展示されていた同時代のオランダの画家たちからは、明らかに遠く離れた、孤高の場所にいたのだ。あのレンブラントと伴に。
 初期の宗教画の二点はともかく、残りの人物のいる室内画の四点もそれぞれに素晴らしかった。直接描くのではなく、光と影、色彩の減衰、平面と空間を描いて、人や物の存在を明らかにしているのだ。なんという観察力だろう。
 絶えることない人々の波から離れて、私は部屋の中央の柱にもたれかかり、遠くからこの四点の絵を見ていた。そこには、フェルメールが、私を取り囲むようにいてくれたのだ。幸せな思いだった。
 翌日、同じ上野の国立西洋美術館の方で、「ハンマースホイ展」を見てきた。今度は開館時間と伴に入ったこともあり、余り知られていない画家ということもあって、人も少なく、それぞれの絵の前で、ゆっくりと見ることができた。 
 ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864~1916)は、近世のデンマークの画家である。その名前は聞いてはいたが、前述したヨーロッパの旅では、残念ながらデンマークは、ハンガリーやブルガリアと伴に、行かなかった国の一つであり、コペンハーゲンの美術館も見逃してしまった。
 他の国の美術館で、彼の作品を見たかもしれないけれど、記憶には残っていない。今回の絵画展の予告で初めて、彼の作品を詳しく知ることができたのだ。そしてどうしても見に行きたいと思った。
 私には、この絵を見に行くためだけに、東京を往復するほどの余裕はない。しかし、毎年の初冬の北アルプスへの山行と、さらに幸いなことに同じ期間に「フェルメール展」が開かれていて、この旅は、三つの目的を持ったすっかり欲張ったものになってしまった。そしてそれらはすべて、期待にたがわぬ素晴らしさだった。
 驚くのは、このハンマースホイの作品(写真右)の多さだ。105点のうちの86点が彼の作品なのだ。(ちなみに、あの「フェルメール展」では、40点のうちの7点のみ。)それは、作家個人の個展というのにふさわしい、見事な絵画展だった。
 肖像画から風景画など、とりわけ室内画の数々は、まさしく期待どおりのものだった。200年もの時代を隔てて、彼が「北欧のフェルメール」と呼ばれたのも良く分かる。
 しかし時代以上に、彼の絵をフェルメールの絵と区別するものは、個性の差はもとより、間違いもなく、その北欧の空気感そのものにある。フェルメールが、そのオランダはデルフトの空気感を、巧みに描き出しているように。
 さらに、彼の絵に漂う孤愁のメランコリックな影は、北欧の風土と伴に、あの私の好きな名匠たち、カール・ドライヤーやイングマール・ベルイマンの映画を思い起こさせるものだった。
 この二つの絵画展を見て、フェルメール、ハンマースホイの両者に、共通して私が見たものは、静寂の中での、一瞬のひと時、その時の流れを捉えた情景である。
 私が、静寂の大自然の中の、山々の姿を見たいと思うのも、その姿をカメラに収めたいと願うのも、同じ思いからではあるのだが・・・いまだにその姿を、納得のいくべき光景として、捉えることはできないでいる、恐らくこれからも。私には、それが凡人故のあがきに過ぎないことを、理解してはいるのだが。
 ともかく、今回の旅は、蝶ヶ岳、フェルメール、ハンマースホイと続いて、いずれも素晴らしく、何と恵まれた日々だったことだろう。こんな幸せな日々の後には、何か良くないことが・・・いや、むしろそれまで辛い日々が多かったからこそ、こんな良い日々が訪れたのだ・・・そう思いたい。
 ミャオにも、辛い日々の後に、私が帰ってきて、一緒に居ることのできる日々が待っているのだから、もう少しだから。
                     飼い主より 敬具


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