11月14日
拝啓 ミャオ様
今朝も晴れている。山側には雲が出てきたけれども、上空には青空が広がっている。これで、何と七日間も快晴の日が続いている。そのうちの前の二日間は、強風の吹き荒れた、いわゆる上州の空っ風ふうな晴れた日だったが、その後の昨日までの四日間は、掛け値なしの雲ひとつない、風も弱く穏やかな快晴の空だった。
日高山脈の山々も、毎日、青空の下に見えていた。真冬の晴れの日が続く時でさえ、こんなふうに、快晴で山もはっきり見えている日が、四日も続くことはない。その意味では、記録に残るこの一週間の天気だったのだ。
冬に備えるための、庭や林での作業も一段落して、その快晴の日の一日を選んで、二日前のことだが、山に登ってきた。
前回書いたように、日高山脈の主稜線にある、1700m以上の山々は、上部がすっかり白くなっている。恐らく稜線では、深い所では50cm位の雪になっているだろう。
その位ならば、何とか一人でもラッセルできるから、登れないこともないのだが、あいにく色々とついでの雑用があり、一日を山に費やすわけにはいかない。
そこで登ろうと思ったのが、剣山(1205m)である。日高山脈の前衛の山として、手軽に登れて、十勝側では良く知られた人気の高い山である。
剣山という名前は、アイヌ名の多い日高山脈の山の中では、珍しく日本名である。北海道開拓の時代に、全国から人々が集まり、その開拓者たちの中には、四国から来た人たちもいて、あの四国の名山、剣山(1955m)にちなんで名づけられたと言われている。
しかし、その山容は、日高山脈の山としては他に余りない、岩峰群からなっており、四国の剣山の穏やかな姿とは異なっていて、むしろ剣という名前は、その岩峰の姿から名づけられたのだろう。
ちなみに、和人がこの北海道に入ってくる前から、元々住んでいたアイヌの人々は、この山を、エンチェンヌプリ(とがって突き出ている山)と名づけていたのだが、私は、その呼び名こそがふさわしいと思っている。
そして、歴史の浅い北海道の山では、日本古来の山体を祀る神社は数少ないのだが、ここには、あの徳島の剣神社から分祀された剣山神社があって、そのことからも、昔から地域の人たちによく登られていて、かかわりの深い山であることが分かる。
家からクルマで1時間ほどで、剣山神社の駐車場に着く。他に誰も居ない、登山口にある入山者名簿を見ると、何と昨日は7,8人もの登山者があったのだ。良かった、良い日を選んで、今日は昨日以上に空気も澄んでいて、一人だけの静かな山歩きができるだろう。
ミズナラの林の、なだらかな尾根道を行く。朝は-6度と冷え込んでいて、霜柱が高く地面を盛り上げている。その先の方では、まだらになった雪も、少し残っている。道端の所々には、浮き彫りにされた不動明王や千手観音などの、様々な仏像が安置されている。
やがて急な斜面のジグザグ登りになり、一時間ほどで、一の森(これも四国の剣山からの名前らしい)のコブに着く。少し離れた岩の上からは、広い十勝平野を見晴らすことができる。その彼方には、白い雪に覆われた十勝岳連峰、トムラウシから大雪の山々、さらに石狩からニペソツ、ウペペサンケ、遠く阿寒の山も見えている。
一休みした後、次の登りにかかり、二の森の手前にある大岩に寄り道をすると、そこからはさらに 広大な展望が広がっている。戻って、再び登山道をたどる。左手に続く岩稜を避けて、山腹を斜めに行き、回り込んで、再び稜線の三の森のコル(鞍部)へと登って行く。見上げた道の先、稜線下のダケカンバの木の傍に、何か黒いものが見える。
立ち止まって、その30mほど先を見つめると・・・黒い丸い形に二つの丸い耳が見える。クマだ!・・・(今、この記事を書いていても、そのときの興奮がよみがえってきて、ドキドキしてくるほどだ。)
落ち着くことだ、と自分に言い聞かせる。相手も私の様子を伺っていて、すぐにこちらに向かって下りてくるふうではない。私は、持っていたストックで地面の岩を叩き、音を立て、さらに手を広げた。
次の瞬間、クマはゆっくりと、後を振り向き、稜線の方へ戻って行き、姿が見えなくなった。
私は、ザックを下ろし、鈴を探したが、持ってきていなかったのだ。始めからザックに付けておくべきだった、うかつだったと言うより、まさか、多くの人が登るこの剣山で、それも雪の降り始めたこの時期に、さらにクマのエサになるものもない、こんな岩稜の続く尾根道で、出会うなんて、考えてもいなかったのだ。
二十数年来、日高の山に、一人で登り続けている私だが、その頃大雪の五色ヶ原で、今回と同じような距離でクマに出会ったことがあり、以来もしもの時のために、いつも鈴を付け、ナタさえ用意して持って行くのが習慣だったのに・・・。長い間、クマに出会わないでいたので、すっかり警戒心が緩み、鳴り物の音を立てて、歩いて行くのが無駄に思えてきていたのだ。
考えてみれば、あの五色ヶ原以来、長い間、私がクマに出会わなかったのは、偶然なんかではなく、鈴などをつけて歩いていたからで、クマはその音を聞いて逃げてくれていたのだ。
私は、一人でとても先に進む気にはならなかった。しかし、後30分足らずで着くはずの頂上をあきらめて、その展望も見ないで下るのは、余りにも残念だった。そこで少し道を戻り、左手にそそり立つ三の森の岩峰に登ることにした。踏み跡らしき所から、岩の下に行き、クラック(割れ目)を使ってよじ登ると、鎖のつけられた恐竜の背のような岩稜に上がる。
そこを慎重にたどって、三の森の岩峰に着く。展望が開けて、ピパイロ岳から1967峰へと白い稜線が続き、右手に芽室岳も見えている。眼下の、先ほどのコル辺りに目を凝らすが、クマの姿は見えない。
私よりは小さい、1m50cmほどの若いクマだったとはいえ、もしもっと近くで出会っていればと考えると、恐ろしい。内地のツキノワグマと比べれば、この北海道に住むヒグマは、体もはるかに大きく、体長は2mを越え、体重も300kgをゆうに越えるまでになるのだ。(一ヶ月ほど前の、10月23日、別海町で捕獲されたクマは、推定15歳以上のオスで、体長2.1m、体重400kg・・・南知床ヒグマ情報センターのブログ写真もある。)
偶然に出会えば、クマは自分を守ろうと人間に襲いかかる。今でも、春の山菜採りの時期に、悲惨なニュースが伝えられることもある。開拓時代の昔には、天塩の方で、集落ごとクマに襲われ、何と6人もの人が殺された事件が起きている。
登山では、38年前に、この日高山脈のカムイエクウチカウシ山で、福岡大学の3人が襲われて殺されたが、その有名な事件以来、大きな事故は起きていない。とはいえ、私たちはクマの領域である山に入る時には、どんな時でも、それなりの覚悟と準備をしておく必要があるのだ。
三の森の岩峰を下りて、登山道に戻ったところで、下から鈴を鳴らして登ってくる登山者がいた。年配のおじさんだ。クマのことを話すと、もう逃げたのなら、注意して行けば大丈夫だと言う。
私としても、同行者がいれば心強いし、やはり頂上までは行きたい。私が先になって、登って行く。おじさんは鈴を振って鳴らし、さらに笛を何度も吹いてくれた。これなら、クマも嫌がって、逃げて行くだろう。
30分ほどの上り下りの後、最後のハシゴ場を登って、大岩の頂上に着く。十年ぶりで、4度目の山頂だった。
快晴の空の下、日高山脈の大展望が広がる。十勝幌尻岳から札内、エサオマン、カムイ、伏見、ピパイロ、1967峰、ルベシベ、チロロ、芽室岳と続く、なじみの山々が美しい。そして十勝幌尻の向こうには、十重二十重になった山脈の支稜の山襞の果てに、遠く楽古岳までも見えている(写真)。
二人で快晴の天気を喜び合いながら、おじさんに話を聞くと、何と一週間に一度はこの山に登りに来ているとのこと、まさにこの山のことを知り尽くした、スペシャリストだったのだ。
どうりで、先ほど出会ってクマの話をした時も、余り動じることもなく落ち着いていたわけだ。さらに、とても70代とは思えない、顔つき体つき・・・私もあんなふうに年をとりたいものだ。
帰りは、それぞれ間をおいて先に後に下り、登りはクマ騒動で3時間もかかったが、1時間半ほどで登山口に着く。神社で手を合わせ、おじさんに礼を言って、山を後にした。
何という、結局は、幸運に恵まれた半日だったことだろう。何と学ぶべきことの多い日だったことだろう。この年になっても、まだまだ理解が足りず、反省すべきことも多いのだ。右手を台に乗せ、頭を下げて、反省。サルか、おまえは、と自分でつっこむ。
飼い主より 敬具
拝啓 ミャオ様
今朝も晴れている。山側には雲が出てきたけれども、上空には青空が広がっている。これで、何と七日間も快晴の日が続いている。そのうちの前の二日間は、強風の吹き荒れた、いわゆる上州の空っ風ふうな晴れた日だったが、その後の昨日までの四日間は、掛け値なしの雲ひとつない、風も弱く穏やかな快晴の空だった。
日高山脈の山々も、毎日、青空の下に見えていた。真冬の晴れの日が続く時でさえ、こんなふうに、快晴で山もはっきり見えている日が、四日も続くことはない。その意味では、記録に残るこの一週間の天気だったのだ。
冬に備えるための、庭や林での作業も一段落して、その快晴の日の一日を選んで、二日前のことだが、山に登ってきた。
前回書いたように、日高山脈の主稜線にある、1700m以上の山々は、上部がすっかり白くなっている。恐らく稜線では、深い所では50cm位の雪になっているだろう。
その位ならば、何とか一人でもラッセルできるから、登れないこともないのだが、あいにく色々とついでの雑用があり、一日を山に費やすわけにはいかない。
そこで登ろうと思ったのが、剣山(1205m)である。日高山脈の前衛の山として、手軽に登れて、十勝側では良く知られた人気の高い山である。
剣山という名前は、アイヌ名の多い日高山脈の山の中では、珍しく日本名である。北海道開拓の時代に、全国から人々が集まり、その開拓者たちの中には、四国から来た人たちもいて、あの四国の名山、剣山(1955m)にちなんで名づけられたと言われている。
しかし、その山容は、日高山脈の山としては他に余りない、岩峰群からなっており、四国の剣山の穏やかな姿とは異なっていて、むしろ剣という名前は、その岩峰の姿から名づけられたのだろう。
ちなみに、和人がこの北海道に入ってくる前から、元々住んでいたアイヌの人々は、この山を、エンチェンヌプリ(とがって突き出ている山)と名づけていたのだが、私は、その呼び名こそがふさわしいと思っている。
そして、歴史の浅い北海道の山では、日本古来の山体を祀る神社は数少ないのだが、ここには、あの徳島の剣神社から分祀された剣山神社があって、そのことからも、昔から地域の人たちによく登られていて、かかわりの深い山であることが分かる。
家からクルマで1時間ほどで、剣山神社の駐車場に着く。他に誰も居ない、登山口にある入山者名簿を見ると、何と昨日は7,8人もの登山者があったのだ。良かった、良い日を選んで、今日は昨日以上に空気も澄んでいて、一人だけの静かな山歩きができるだろう。
ミズナラの林の、なだらかな尾根道を行く。朝は-6度と冷え込んでいて、霜柱が高く地面を盛り上げている。その先の方では、まだらになった雪も、少し残っている。道端の所々には、浮き彫りにされた不動明王や千手観音などの、様々な仏像が安置されている。
やがて急な斜面のジグザグ登りになり、一時間ほどで、一の森(これも四国の剣山からの名前らしい)のコブに着く。少し離れた岩の上からは、広い十勝平野を見晴らすことができる。その彼方には、白い雪に覆われた十勝岳連峰、トムラウシから大雪の山々、さらに石狩からニペソツ、ウペペサンケ、遠く阿寒の山も見えている。
一休みした後、次の登りにかかり、二の森の手前にある大岩に寄り道をすると、そこからはさらに 広大な展望が広がっている。戻って、再び登山道をたどる。左手に続く岩稜を避けて、山腹を斜めに行き、回り込んで、再び稜線の三の森のコル(鞍部)へと登って行く。見上げた道の先、稜線下のダケカンバの木の傍に、何か黒いものが見える。
立ち止まって、その30mほど先を見つめると・・・黒い丸い形に二つの丸い耳が見える。クマだ!・・・(今、この記事を書いていても、そのときの興奮がよみがえってきて、ドキドキしてくるほどだ。)
落ち着くことだ、と自分に言い聞かせる。相手も私の様子を伺っていて、すぐにこちらに向かって下りてくるふうではない。私は、持っていたストックで地面の岩を叩き、音を立て、さらに手を広げた。
次の瞬間、クマはゆっくりと、後を振り向き、稜線の方へ戻って行き、姿が見えなくなった。
私は、ザックを下ろし、鈴を探したが、持ってきていなかったのだ。始めからザックに付けておくべきだった、うかつだったと言うより、まさか、多くの人が登るこの剣山で、それも雪の降り始めたこの時期に、さらにクマのエサになるものもない、こんな岩稜の続く尾根道で、出会うなんて、考えてもいなかったのだ。
二十数年来、日高の山に、一人で登り続けている私だが、その頃大雪の五色ヶ原で、今回と同じような距離でクマに出会ったことがあり、以来もしもの時のために、いつも鈴を付け、ナタさえ用意して持って行くのが習慣だったのに・・・。長い間、クマに出会わないでいたので、すっかり警戒心が緩み、鳴り物の音を立てて、歩いて行くのが無駄に思えてきていたのだ。
考えてみれば、あの五色ヶ原以来、長い間、私がクマに出会わなかったのは、偶然なんかではなく、鈴などをつけて歩いていたからで、クマはその音を聞いて逃げてくれていたのだ。
私は、一人でとても先に進む気にはならなかった。しかし、後30分足らずで着くはずの頂上をあきらめて、その展望も見ないで下るのは、余りにも残念だった。そこで少し道を戻り、左手にそそり立つ三の森の岩峰に登ることにした。踏み跡らしき所から、岩の下に行き、クラック(割れ目)を使ってよじ登ると、鎖のつけられた恐竜の背のような岩稜に上がる。
そこを慎重にたどって、三の森の岩峰に着く。展望が開けて、ピパイロ岳から1967峰へと白い稜線が続き、右手に芽室岳も見えている。眼下の、先ほどのコル辺りに目を凝らすが、クマの姿は見えない。
私よりは小さい、1m50cmほどの若いクマだったとはいえ、もしもっと近くで出会っていればと考えると、恐ろしい。内地のツキノワグマと比べれば、この北海道に住むヒグマは、体もはるかに大きく、体長は2mを越え、体重も300kgをゆうに越えるまでになるのだ。(一ヶ月ほど前の、10月23日、別海町で捕獲されたクマは、推定15歳以上のオスで、体長2.1m、体重400kg・・・南知床ヒグマ情報センターのブログ写真もある。)
偶然に出会えば、クマは自分を守ろうと人間に襲いかかる。今でも、春の山菜採りの時期に、悲惨なニュースが伝えられることもある。開拓時代の昔には、天塩の方で、集落ごとクマに襲われ、何と6人もの人が殺された事件が起きている。
登山では、38年前に、この日高山脈のカムイエクウチカウシ山で、福岡大学の3人が襲われて殺されたが、その有名な事件以来、大きな事故は起きていない。とはいえ、私たちはクマの領域である山に入る時には、どんな時でも、それなりの覚悟と準備をしておく必要があるのだ。
三の森の岩峰を下りて、登山道に戻ったところで、下から鈴を鳴らして登ってくる登山者がいた。年配のおじさんだ。クマのことを話すと、もう逃げたのなら、注意して行けば大丈夫だと言う。
私としても、同行者がいれば心強いし、やはり頂上までは行きたい。私が先になって、登って行く。おじさんは鈴を振って鳴らし、さらに笛を何度も吹いてくれた。これなら、クマも嫌がって、逃げて行くだろう。
30分ほどの上り下りの後、最後のハシゴ場を登って、大岩の頂上に着く。十年ぶりで、4度目の山頂だった。
快晴の空の下、日高山脈の大展望が広がる。十勝幌尻岳から札内、エサオマン、カムイ、伏見、ピパイロ、1967峰、ルベシベ、チロロ、芽室岳と続く、なじみの山々が美しい。そして十勝幌尻の向こうには、十重二十重になった山脈の支稜の山襞の果てに、遠く楽古岳までも見えている(写真)。
二人で快晴の天気を喜び合いながら、おじさんに話を聞くと、何と一週間に一度はこの山に登りに来ているとのこと、まさにこの山のことを知り尽くした、スペシャリストだったのだ。
どうりで、先ほど出会ってクマの話をした時も、余り動じることもなく落ち着いていたわけだ。さらに、とても70代とは思えない、顔つき体つき・・・私もあんなふうに年をとりたいものだ。
帰りは、それぞれ間をおいて先に後に下り、登りはクマ騒動で3時間もかかったが、1時間半ほどで登山口に着く。神社で手を合わせ、おじさんに礼を言って、山を後にした。
何という、結局は、幸運に恵まれた半日だったことだろう。何と学ぶべきことの多い日だったことだろう。この年になっても、まだまだ理解が足りず、反省すべきことも多いのだ。右手を台に乗せ、頭を下げて、反省。サルか、おまえは、と自分でつっこむ。
飼い主より 敬具