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小説 囚われた男(11)

2006-11-21 12:47:28 | 小説



 けたたましい電話の呼び出し音でたたき起こされた生実は、くそ! と悪態をつきながらのろのろとキッチンの電話をとった。
 ピーという音だけが返ってきた。またもやくそ! と吐き捨てて、ファックスかとつぶやく。紙はするすると無言でしかも堂々と滑るように出てきた。手にとって見た文面には、簡単に次のように書かれていた。

「午後二時、代々木公園駐車場で待て。
                 千
          読後焼却のこと」

 生実は時間を確かめた。午前十時になっていた。外を見ると今日は薄い曇り空で、雨や雪の降る心配もなさそうだ。こんな日は気分が落ち込む。
 コーヒーの淹れたてを持って、窓辺にたたずんでいると、いつの間にか久美子のことを考えていた。俺は恋をしたのだろうか。それに間違いない。
 久美子の温もりが恋しい。だが恋に血迷っていることは出来ない。この道に入ったときに決めたことだ。掟というものを十全に叩き込まれている。謎の男千葉に囚われてしまった。



 それは、今日のように冬の寒い日だった。当時大手町にある鉄鋼会社の営業部に勤めていた。たまたま、急ぎの書類づくりがあってその仕事に熱中していた。
 目の前の電話が鳴ったのも気づかなかった。隣の席の鶴岡嬢が取ってくれて、険しい顔で手渡してきた。

「こちら築地署交通課の速水ですが、生実清さんですか?」
「ええ、そうですが」
「奥様のお名前をおっしゃってください」
「え、なんですって?」素っ頓狂な声が生実の口から飛び出した。交通課と聞いたときから少なからず動揺していた。
「奥様のお名前です」速水という警官は静かに言った。
「とにかく名前だけ言ってください」
「そうですか。名前は幸子といいます」
「それじゃよく聞いてください。奥様は交通事故に巻き込まれましたから、至急ご主人のあなたに来ていただきたいのです。築地署交通課まで」速水警官はあくまで冷静に対応していた。
               
                   築地警察署
 これがすべての始まりだった。警察は妻が持っていた健康保険証から生実の所在を突き止めたようだ。
 妻幸子と長男五歳、長女三歳は、センター・ラインをはみ出してきた車に正面衝突され即死だった。
 検死解剖のあと身元確認では、あまりの酷さに膝の力が抜けて崩れ折れそうになった。かろうじて、壁に寄りかかって深呼吸をした。
 立ち会っていた警官が「大丈夫ですか」と気遣ってくれた。生実の喪失感はうつろな眼差しが物語っていた。

 その時点で分かったのは、加害者の男は茨城県水海道市の農家の息子で吉岡信二といった。実家は土地持ちで裕福そうだ。
 その後、加害者はすべて保険会社任せで、警察で会ったとき、頭を下げたきり正式な謝罪の言葉やお悔やみに訪れることもなかった。保険会社は規定に則って所定の金額を振り込んできて、もう振り向きもしない。
 結局、運転していた男は、刑事罰の業務上過失致死罪で一年刑務所暮らしと免許取り消しの行政処分だけだった。

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