Wind Socks

気軽に発信します。

小説 人生の最終章(13)

2007-05-05 12:46:28 | 小説

16

 香田は山に登っていた。新潟県と福島県境にある花の名山と言われる浅草岳である。前日は麓の守門村福山峠緑のふるさと広場キャンプ場に泊まった。このキャンプ場には、雪室(ゆきむろ)や池、ワラビ園がある。
 周囲には民家が一軒も見当たらないし、夜は外灯もなく漆黒の闇に包まれる。そんな山奥なのに、トイレが水洗できれいなことに驚かされる。
 浅草岳への行程は、林道の終点桜ゾネ登山口から約二時間半くらいである。妻の丸子を先に後を香田が、それこそゆっくりと歩く。快晴の中を、ようやく登りつめて周囲を睥睨(へいげい)するように屹立する頂上からの眺めは、蛾蛾(がが)たる山容の鬼が面山や急激に落ち込んでいる別ルートの登山道の向こうに、田子倉湖の水面が銀色に輝いているのが見える。
 キャンプ場で作ったおにぎりの昼食は、大げさに言えばどんな高級料理も比べ物にならないほど美味しい。筑波山以来の登山で、少々不安を抱えていたが、無事登頂を果たした丸子に笑顔が浮かんでいた。
 下山の途中小さな雪渓を渡るが、ここで二人同時に文字通りすってんころりと仰向けに転んで、二人の大笑いが周囲の空気を震わせた。香田は笑いながら見上げる空に白い雲が流れるのを眺めていた。

17

 けいはメールを開いた。香田からのメールは無かった。今日のけいは、いつもと違っていた。頭に浮かんだことをそのまま考えもせず文章にしていた。

「香田様、どうかなさいましたか? お体が悪いとか奥様の具合とか――わたしは、いたって元気です。ここ二・三日、友人とジョギングや食事を楽しんでいます。
とりあえず、お伺いまで                     浅見けい」

 送信ボタンを押してから、気がついた。あれほど悩み逡巡していたのに、あっさりとメールを送った自分に驚いているのを。

 香田の今日は、ジョギングで大汗をかく日だった。気温も二十五度を超えそうで、間違いなく溺れるほどの汗に見舞われる筈だ。そういえばけいもジョギングをしていると聞いた。香田の妻は、ジョギングやウォーキングはしない。ふと、けいとジョギングが出来れば楽しいだろうなと思う。
 帰宅してシャワーを浴び、テレビの大リーグ中継を見て、昼食のあといつものパソコン前の儀式に入る。メールを開くとけいからのメールがあった。一度は、メールはこちらから一切しないと決めていたが、向こうから来るのを拒むことは出来ない。読みたくなければ削除をクリックするだけでよかった。香田は出来なかった。文面を読んだ。
 彼女の気質そのものだった。なんのてらいもなく素直にメールが来ないのを病気か何かによるものと思っているようだ。香田はメールを返信した。

「浅見様。お気遣いありがとうございます。お蔭様で夫婦とも元気でおります。浅見様もお元気で楽しくお過ごしの様子、うれしく思います。
 さて、以前にお誘いしました一宮方面へのドライブは、ぜひご一緒にお願いできればと思います。そちらの日時のご都合をいただければ、プランをお知らせしたいと思います。                  香田順一」
 
 香田は送信のあと、大きく息を吐いて心を落ち着かせた。これで賽(さい)は投げられたのだ。香田の送信の数時間後、けいからのメールが入っていた。
「何事もないのが何よりです。安心しました。早速ですが、日時やプランは香田様にお任せいたしますので、よろしくお願いいたします。
その日がなんだか待ち遠しい気がします。            浅見けい」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 読書 ピーター・へイニング... | トップ | 読書 テオドル・ベスター「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事