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小説 囚われた男(13)

2006-11-29 13:59:17 | 小説
 住所を見て驚いた。ほんのこの近くではないか。何たる神の悪戯だろう。改めて怒りがこみ上げてくる。近くにいる加害者は、軽いともいえる罪で、すでに自由の身になっているだろう。
 そして、何処にでもあるような家庭の団欒を楽しんでいるはずだ。親や親類縁者、友人からは、不運に見舞われたんだと慰めの言葉をかけられながら。

 妻子を亡くしたあとの生実は、仕事に身が入らずよく休むようになった。心配した上司が手を回し、厚生課を通じて精神科の医師を紹介してくれた。その上、人事課とも交渉してくれて、休職扱いになっている。
 就業規則による休職の期限がもうすぐやってくる。しゃきっとして会社に戻るか辞表を出すかを迫られる。何者かは分からないが、なぜこの情報をくれたのかという疑問は、すぐに解けそうもない。

 外はもう暗くなって闇に包まれている。そういえば朝からコーヒー一杯きりで、何も食べていなかった。急に空腹感が襲ってきた。Tシャツとジーンズの上に、白のウィンド・ブレーカーを着て、近くにあるイタリア料理店に向かった。
 エントランスから歩道に出ると、九月の少し排気ガスの匂いが混ざった空気が漂っていた。『ジロー』というイタリア料理店は混んでいた。今の時間午後6時過ぎが一番混む時間帯だ。
 少し待たされて一人客のため、カウンターのコーナーの席に案内された。その席からは、店内が見渡せる。「牛肉のタツリアータサラダ添え」「キャベツと生ハムのパスタ」に白ワインをボトルで注文する。銘柄は店に任せる。
               
 また思いに沈んだ。謎の男が知らせてくれたのは、チャンスかもしれない。当時、正義が行われていないと強く感じたものだ。人間三人も殺しておきながらあまりにも理不尽だ。一種の強迫観念に襲われていた。それでもある種の決断をしたとき、口元がほころび微笑を浮かべていた。

 はっとわれに返って視線の先にやや丸顔のボーイッシュな髪形をした女性が、口元にかすかに笑みをたたえてこちらを見つめていた。目があって生実は、いつもの笑顔で挨拶を交わした。女性は少し顔を赤らめて下を向いた。

 ふたたび思考のはざまに捕らわれた。妻とその恋人は、本当に幸せだった。あの二人を見ていると、本当の愛を教えてくれた気がした。おれはいま暴力で愛を確かめようとしている。あの二人は許してはくれないだろう。生きる望みを失ったおれはどう生きればいいのか。

 料理が運ばれてきて、思考が中断された。余計なことを考えずに料理に集中しろ。美味しい料理にうまいワイン、言うことはない。
 先ほどの女性に目をやると、ちょうど料理が運ばれてきたところだった。彼女はあとから入ったのか、気がつかなかった。店は楽しそうな会話で充満していて、幸せな気分にしてくれる。
 勘定を払い女性のほうを見ると、彼女もこちらを見つめていた。その顔に声を出さずに、サヨナラと言った。
 にこりとしたが彼女の目は真剣な光を帯びていた。生実は出口に向かいながら、この店でいつか出会うかもしれないなと考えていた。

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