彼女の子どもたちの誰もが学校に行った事は無い「自分は子どもたちに今よりましな生活をさせたい」でも「娘たちを漁師と結婚させたくは無い。そこに未来は無いから」という。それは河で生活していることの感情表現である。17歳の娘のMayは”上で”暮らしたいという。「ここは快適でない」と彼女はいう。彼女が気にしないことのひとつは魚に偏った食事である「ここでの好きな食べ物だから」といい、微笑んだ。
ここにはプライバシーは無い。ボートの上ではここの生活は公共空間にある。地悪のボートでは若い女性がピンクのgalabeya で髪を櫛けずっている。「私たちは船の真ん中にテントのようなものを設けてその中で着替えをする」とMohamed. 今近くには庭園があり、そのオーナーは彼女とMayまに風呂を使わせてくれるという。
Rashad Hamad, 39歳もまた長く漁師を続けてきた。彼は上エジプトのAssiutの生まれだが17年前にそこから逃れてきた、そこでの暴動のためだ。彼はカイロ中央のナイル河の小島の漁業集落に住んでいる。Mohamed の家族とは異なり彼の5人の子供たちは毎朝フェリーで学校に通っている。「自分は彼らを漁師にしたくは無い。漁業は職業ではない。将来が見えない」と「自分は学校に行けなかった、だから子供たちは学校に行かせたい」と彼はいい彼の2人の娘は成績が良く、学業に励んでいるという。
彼の妻はかつては家にいたが、環境と子どもたちの学校のために市場で魚を売っている。漁師の苦境の原因のおひとつは河に住む彼らにとって十分朝か長い無いことだ。1980年代には400隻のボートがナイル河にいた。それがいまや4,000隻以上だ」と漁業資源開発局の一人は匿名を条件に語った。ジャーナリストに反してはならないという決まりのためだ。「水の上の生活は厳しい、でも何が出来る、盗みか?」とHamadはいう彼の網は手作りで繊細なターコイズブルーの糸で出来ていた。
島自体はその殆どが草原でカイロの汚れや埃からはかけ離れ生活は快適である。「我々はみんな家族のようだ」「ここには警察もない」と彼はいう。しかしそこで彼の将来についてどう見るかを訊ねると彼は「ゼロ、自分は7人でひとつの部屋を分け合っている。将来なんて」という。