今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1058 興福寺(奈良県)往く雲の南都北嶺興福寺

2022-10-20 21:35:45 | 奈良・和歌山
奈良は14年ぶりになる。大和路行脚に無上の喜びを見出した20歳のころ以来、これほどの無沙汰は初めてではないか。この間に平城宮跡は大極殿や朱雀門が復元され、JR奈良駅が新しくなっている。そして興福寺では、20年かけて再建が進められていた中金堂が完成、300年ぶりに伽藍の中枢が蘇った。古都は着々と変化しているのだ。その興福寺を訪ねると、大修理を控える五重塔が特別に開扉されている。旅先でたまに出会う幸運である。



塔の初層内陣を一巡させてもらう。50メートル余と背の高い塔だけれど、内陣は「方3間」とさほど広くない。中央の心柱を囲んで釈迦や薬師の三尊像が安置され、心柱は天井を突き抜けて消えていく。その先は相輪まで空洞なのだという。つまり塔は「釈迦の墓標である心柱を、五層の屋根で包んでいる建造物」ということになる。興福寺の塔は室町時代の再建で、法隆寺の五重塔に比べたらずいぶん若い。だから創建時とは姿がやや異なるようだ。



古寺巡りが好き、といったいささかオタクっぽい人種間では、「どこの塔が一番美しいか」といったことが密かに競われているらしい。奈良に限れば薬師寺東塔を筆頭に、法隆寺、室生寺あたりが上位を占めるのは私の感覚と一緒なのだが、それには下から上へ屋根のサイズが減っていく割合の「逓減率」が影響しているようだ。法隆寺の0.5に対し、興福寺の五重塔は0.69。そのせいで無骨で優美さに欠けると、今一つ人気が伸びない理由らしい。



そんなことはどうでもいいけれど、この塔を見上げるたびに考えてしまうのは廃仏毀釈の愚かさだ。およそ人間の歴史は、ある思想・風潮への熱狂が巻き起こると、取り返しのつかない蛮行に走る繰り返しで、明治初頭の「神仏分離令」による廃仏毀釈はその1例だ。興福寺はだらしなかった。貴家の天下りが多かった上級僧侶はさっさと春日大社の神官に転じ、下級僧侶は仏像を焚きにして風呂を沸かした。そして五重塔は25円で売りに出された。



塔を燃して金具を回収しようとする商人の計画に、火事を心配した町の人々が反対し、塔はかろうじて生き残った。それを今になって「国宝だ世界遺産だ」と崇める人間の脆さ・愚かさを、塔は嗤っていることだろう。「熱狂」ほど危険で虚しいものはない。国家神道は日本人を敗戦へ導き、ナチズムはドイツ人に癒せぬ傷を残した。そして今日もロシアの狂信者が国を滅ぼそうとしている。熱狂に対峙し、「客観」の側で考える人間でありたいと切に思う。



興福寺は藤原氏の氏寺として創建されたが、平城遷都とともに現在地に移ってからは法相宗の学問寺となり、国家の大寺となった。平安時代以降は事実上の大和の国主として権勢を振るったのに、明治の廃仏毀釈にひれ伏した。あまり「寺」らしくない歴史である。ただそのお陰と言っては皮肉だが、広大な寺域は奈良公園として保存され観光客や鹿を喜ばせているし、阿修羅像や無著・世親像といった白鳳・天平・鎌倉の極上の彫塑群にも会える。



早朝の境内を歩いていて、南円堂で経を上げる坊さんの列に出会ったことがある。境内に点在する堂を巡る勤行らしい。今の興福寺は、昔より寺院らしいのだろう。そして中金堂が復元された。朱塗りの柱が青空に映えて美しい。日本に仏教が伝来した6世紀、当然ながらこの国に寺はなかった。仏像を安置する場に困った役人は、とりあえず役所を「その場」に転用した。それが寺院建築として定着したという説があり、奈良は中国以上に唐・長安の面影を留めているのだという。(2022.10.14)









(阿修羅像)
以下、図版はいずれも岩波書店「奈良の寺」より

(五部浄像)

(天燈鬼像)

(竜燈鬼像)

(仏頭)

(無著菩薩像)






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1057 新潟③(新潟県)懐かし... | トップ | 1059 東大寺(奈良県)逝く... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

奈良・和歌山」カテゴリの最新記事