今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1057 新潟③(新潟県)懐かしく忘じ難きは故郷なり

2022-10-01 11:05:43 | 新潟・長野
新潟は私の故郷だから、つい新潟の自慢をしたくなるのだけれど、しかし改めて考えると、この街は特筆するほどのものは何もない。「新」というのだからさほど古い街ではないのだろうし、城下町ではないからそうした風情もない。ましてや讃えられるほどの風光の地でもない。それだけに「信濃川があってよかった」と、久しぶりの帰郷で思うのはそのことだ。大河が成す広い空と、そこに架かる石造りの橋、そして佐渡に沈む夕日は実にいいのだ。



新潟は信濃から北上して来る信濃川と、会津から西行する阿賀野川が、広大な蒲原平野を形成しながら日本海に注ぐ地点で合体、山からの泥と、海が寄せる砂によって生まれた「新たな潟」だったのだろう。平安時代の延喜式に「蒲原津」として登場するころから日本海航路の積出し・中継港として発展、幕末に「開港5港」に選ばれているように、江戸時代には日本海側を代表する港町になっていた。そして今は人口77万人の政令指定都市である。



信濃川の左岸は長く延びた砂州で、そこに営まれた街が「新潟」である。右岸は「沼垂」と言った。私が子供のころは西の新潟町側が賑わいの中心だったけれど、街としては沼垂の方が古いのだと母に教わった。川の東西を繋ぐ万代橋の東詰には「流作場」という殺風景なエリアがあった。工場などに囲まれて、郊外に向かう路線のバスステーションだけは人が多かった。西の幼い少年にとって、東に渡る時は異界に迷い込むような緊張感を伴った。



私にとってはそうした土地であった流作場が、今では新潟で最も賑わう商業地なのだという。「流作場」は地名から消えて、万代シティーという街になったのだ。かつて買い物客でごった返した西新潟の「古町十字路」の賑わいは、万代橋東詰の「東港線十字路」に移った。その交差点から眺めるショッピングビルは外壁がピンク色だ。微妙だなと呟くと、妻は「少なくともロフトとは合わないわね」と言った。最上部にロフトの黄色いロゴが輝いている。



「遷ろう」ことで並べてみれば、街は人生と似ている。ただ人生は老いて終わるけれど、街は何度でもリニューアルして生き続けることができる。ビルは人の一生より短い寿命で建て替えられているようだが、主要な道路など街の構造は変えることが難しいのだろう、人生よりかなり長く、昔のままである。老いた旅人はいちいち往時を思い浮かべ、「ここは同じだ」「ここは変わった」と確認しながら歩き、「概ね綺麗な街になった」と喜んでいる。



そんな街の中央を、昔と同じように信濃川が流れている。「同じように」とはいえ、架かる橋の数は増え、岸辺の葦叢は消えて広場や遊歩道が整備された。川も少しずつ表情を変えているのだ。「人は街を川のほとりに造る」とは、旅を重ねて知った真理だ。例外はスペイン・バルセロナくらいしか思い浮かばない。万代橋付近の川幅は東京の隅田川と似たようなもので、徳島の吉野川河口に比べたら半分以下でしかない。それでも空は十分に広い。



新潟で生まれ育った年月より、新潟を出てからの時間がはるかに長くなった。それでも故郷は忘れ難く、懐かしさはむしろ募って来るのである。そうした故郷が、新潟人の粘り強さと穏やかさによって、快適な都市に発展して欲しいと願う。例えば新潟駅の大改造を好機として、そこが「世界一優しい駅前広場になる」ことを期待するのだ。それはあくまでも「住」を大切にした「センスのいい街」ということだ。故郷を出た者の夢である。(2022.9.16-17)

















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