今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1016 宇野(岡山県)静寂の連絡船が去った港町

2022-04-09 09:55:18 | 岡山・広島
岡山駅前のホテルに連泊し、吉備路の東西南北へ足を延ばそうと考えている。東は伊部を訪ねたから、次は南の瀬戸内の島に渡ろうと思う。そこで思いついたのがアートで評判の直島だ。地図を確認すると、玉野市宇野港に近く、フェリーで20分ほどだ。それなのに香川県である。岡山駅から「宇野みなと線」に揺られて40分余、宇野駅に到着する。吉備路はもとより四国にも縁の薄い私だけれど、それでも「宇高連絡船」は耳に馴染んでいる。



岡山の宇野港と香川の高松港を結んでいた鉄道連絡航路のことで、1910年から瀬戸大橋が開通する1988年まで、本州と四国を結ぶ交通の大動脈として、列車を飲み込んだ連絡船が18キロの海路を行き来していた。大阪や東京に向かう場合、四国の人たちはこの列車に乗って海を越え、宇野から岡山に出て山陽本線に乗り継いだわけだ。大変だったなあと、四国の友人・知人の顔を思い浮かべる。「本四連絡橋」は革命をもたらしたのだな、と。



宇野駅までの2両編成のローカル列車は、長閑な田園風景の中を南下する。東から吉井川、旭川、高梁川の岡山3大河川が南下してくるこの一帯を、岡山平野と呼ぶらしい。かつては20余りの島が点在する「吉備の穴海」と愛でられたという風光の地は、戦国時代に始まった開墾・干拓が昭和まで続けられ、380年間に10000ヘクタールを超える新田が産み出されたのだという。風景は凡庸でも、注ぎ込まれた人間の努力は目を惹きつける。



宇野駅は小さな駅だけれど、駅前には広大な空間が広がっている。おそらくそこに連絡船と接続するたくさんの引込み線が敷かれていたのだろう。広場には怪しげなポーズをとる「愛の女神像」と、玉野産業振興ビルというガラス張りの建屋がぽつんと建っているだけで殺風景だ。連絡船で賑わっていたころは、乗り継ぐ列車の座席確保のために、下船した乗客が駅へとダッシュする姿で埋まったということだが、そうした喧騒も今は昔である。



築港銀座とあるから賑わいの商店街と思われる通りも人影はまばらで、閑散としている。街出身の漫画家による案内板を参考に歩いていると、白い壁が妙に煤けた2階家が現れた。もはや役割を終えた建物のようだけれど、赤茶けた屋根瓦と白い壁、縦長に並ぶ窓のバランスが実にいい。掠れた看板に目を凝らすと「医院」とある。かつて街が賑わっていたころ、病人やけが人の拠り所であったのだろう。私はこの建物に、街が経てきた時間を見る。



玉野市は重要港湾指定の宇野港を抱える港湾都市で、人口は1977年にはあと130人で8万人に達するところまで増加していた。しかし宇高連絡船が廃止された年には75000人となり、現在は55000人ほどにまで減少している。連絡船という大きな経済基盤を失うことが、地方都市にとっていかに大きなことか、人口の推移が物語っている。市は「瀬戸内というブランド」を生かすべく総合計画を策定、新たな街づくりに歩み始めている。



「岡山は晴れの国と言われましてな」と、岡山市内で乗車したタクシーの運転手さんが自慢した。周囲は遠く穏やかに柔らかな山影が囲み、瀬戸内の水面はまるで湖であるかのように静かだ。この風光があれば「たまのはよいところ」と讃えられる街づくりは可能であろう。当面は連絡船跡地の再開発だろうか。ただ余計なことを一つ言わせてもらうと、インド人アーティストの作品であるらしい「愛の女神像」は、移転した方が良さそうだ。(2022.4.2)


























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