
群馬県の北部に渋川という街がある。特色を挙げることに難渋するほどの地味な街だが、高崎から北へ向かう旅人が沼田から越後へ、あるいは西にそれて草津から信州へ抜ける時、この地で道を分ける追分的宿場町として暮らしが営まれた。そして伊香保温泉の玄関口として、湯治客が通過した街でもある。私がここで社会人の第一歩を踏み出したのはちょうど40年前のこと。40年という時間は、街をどこまで変えるものだろうか。
40年前、人口は4万人足らずだったように記憶している。周辺の町村を加え、広域市町村圏という行政手法が全国的に一般化し始めたころで、渋川市は北群馬郡と勢多郡の一部を含めた市町村圏の中核都市であった。今ではその広域圏のほとんどの町村と合併し、人口8万4000人余の新渋川市になっている。榛名・赤城の山頂付近を縁取りに、利根川の流れを底に仕立てた大きな擂り鉢のような街になった。40年間での大変化である。
《四つ角》は、渋川の賑わいの中心だった。高崎から延びて来る県道と、伊香保へ登る街道が交わる四つ辻のことで、街はその辻から四方に広がっていた。当時は狭い交差点を路線バスが行き交い、「佐鳥」という名のデパートや料亭がそれなりに繁盛しており、和菓子の黄金芋が評判の錦光堂や、賑やかな店主がいた本木カメラがあり、何でもそろうディスカウント店は太田物産といった。
路地奥の居酒屋に入ると「今日はいいマグロがあるよ」と声が掛かった。喜んで注文し、ガリッと噛むとシャリッとして歯が凍みた。「ね、生きがいいだろ、まだ解けていないもん」と板さん。とんでもない山国に来たことに気づいた。まだ群馬に高速道路は通じておらず、海は遥かに遠かった。40年前の渋川はそんな土地だった。
40年後の四つ角が冒頭の写真である。デパートも料亭も廃業したと聞いたのはもうずいぶん以前のことで、今ではその他の商店や銀行もみんな撤去され、道路の拡幅工事の真っ最中だった。道が広がっただけ奥に引っ込んで、同じ場所で新しい店を開いているのは錦光堂だけ。空は広くなり、人影は全く薄れてしまっている。
辻の北西側に奇妙なモニュメントが建っていた。日本地図の中央あたりに十字が彫り込まれている。どうやらそのクロスしているところが《四つ角》と言いたいようで、「渋川は日本の真ん中」を宣言し、「渋川へそ祭り」を開催する根拠であるようだ。6年後に私がこの街を去ってから「へそ祭り」は考案されたようだが、特色の少ない郷土で名物を産み出そうと考えた市民が、四つ角に言い伝えられた俗説を上手に活用したのだろう。
「日本の中心」については兵庫県西脇市の項で書いたから触れないけれど、渋川はたとえこじつけでも頑張っているようでうれしかった。地方の街の疲弊はもう見慣れた光景ではあるのだが、縁のあった街がとめどなく寂れていたりすると辛いものがある。ついでだから伊香保に登ってみる。こちらもしたたかに生きているようだ。
伊香保から水沢に向かう道がゴルフ場を過ぎたあたりに、渋川市総合公園という看板があった。40年前、私が赴任する直前に完成した「成人の森」に違いない。石北という市長が力を入れた施策で、当時は「成人になる森だろう」などと揶揄されたものだった。40年の時間は痩せた軽石層の地に立派な森を育てた。医師であった石北さんの、特異な風貌を思い出す。(2010.8.11)