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856 日南(宮崎県)国産みの神話の道は眼に眩し

2019-01-23 21:24:37 | 大分・宮崎
青島から南へ、私たちは晴天無風の日南海岸を走っている。七草粥の日の午前、往き交う車は少ない。入り江に回り込むと小さな漁村が現れ、そして再び岬に出て海を見晴らすことを繰り返す。漁船は陸に揚げられ、船体や漁網が水洗で浄められている。まるで伊豆の海岸を行くようだけれど、ヤシやフェニックスが日向国にいることを思い出させる。静かな海に照り返す陽の光は、伊豆よりも眼に痛いのではないだろうか。



国道220号線を、堀切峠を経て鵜戸神宮へと向かっている。国産み神話の舞台だ。古事記の語る神話は実に面白い。《高天原の神々から「海月(くらげ)のように漂える国を固めよ」と命じられた伊邪那岐・伊邪那美の2神は、脂の如き何かを天沼矛で書き鳴し、淤能碁呂島を産む》。そして《伊邪那美は火の神を産んで死に、伊邪那岐は「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊をするのである》。ここで舞台は宮崎となる。



竺紫(つくし=九州)の日向(ひむか)、つまり宮崎市内には今も「橘」の通り名が残り、小戸(おど=小門)神社も現存する。宮崎市観光協会のパンフレットは阿波岐原(あはきはら)を市内の一ツ葉海岸だと断定しているが、古事記が宮崎市内の小さな瀬戸のほとりだと言っているのは間違いないだろう。そこで禊をした伊邪那岐命の左眼から天照大御神が、右眼からは月讀命、鼻からは須佐之男命が生まれるのだ。



神話のスターたちは、多くが宮崎生まれなのである。天上では須佐之男命が狼藉を繰り返し、天照大御神は天岩戸に隠れてしまったりといろいろあって、天照は孫の邇邇藝(ににぎ)命に三種の神器を与え、「葦原の中つ国」を治めるようにと「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」に降臨させるのである。この「くじふる岳」は宮崎県北部の高千穂町か霧島連山の高千穂峰か、あるいは全く別の地か、論争は決着していない。



邇邇藝は国つ神の娘・木花咲夜姫を娶り、天と地がここで結ばれる。そして海幸彦・山幸彦が生まれ、山幸彦は海の神の娘・豊玉姫との間に鵜茸草葺不合命を儲ける。山民と海民の合体である。鵜茸草葺不合は豊玉姫の妹・玉依姫を妻とし、その四男に神倭伊波礼毘古命、後の神武天皇が生まれる。豊玉姫が神武の父を生んだ産屋の地が、現在の鵜戸神宮である。45歳になった神倭伊波礼毘古は、美々津から東征に出る。



稗田阿礼が暗唱していたという古事記の物語は、壮大かつ人間臭い神々で彩られているけれど、まさか史実ではあるまい。となれば誰が構想を練り、なぜ舞台を日向国に置いたのか、が問題になる。根源は太陽信仰にあるのだろう。大和に朝廷を拓くことに成功した一族は、そのルーツを太陽と合体する地に求め、長い物語によって太陽の子孫だと主張することで立場の正当性を示したのだ。日向と伊勢はその最適の地であった。



日南海岸を南下することは、陽光を掻き分けて進むようなものである。そして海沿いの細道を岬へと回り込むと、岩礁に張り付くように鵜戸神宮が朱塗りを輝かせている。本殿は窟の洞(うろ)に置かれて、その裏の乳岩からは豊玉姫に代わって鵜茸草葺不合命を育てたと言われる水が今も滴り、不思議な神域を形成している。伝承は後にこじつけられたのか、あるいはそれら奇岩から生み出された物語なのか。(2019.1.7)



















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