どこかに「立町通り」と書いてあった。石巻に到着した私たちは、街を歩いてみようとホテルからほど近いアーケード街にやって来たのだ。駅や市役所が近いようだし、銀行の支店も点在しているから、おそらくこの辺りが中心商店街なのだろう。しかし午後6時を回ったばかりだというのに人通りは途絶え、開いている店はまばらで車も滅多に通らない。鮮やかな衣装の「サイボーグ009」のメンバーが鋭い目を光らせているだけである。 . . . 本文を読む
仙台から石巻に向かうには、多賀城と塩釜の二つの街を通過する。6年前のほぼ同じ日、私は同じ街を訪れて「古代」を感じていい気持ちになったものだった。その気分が懐かしくてまた多賀城跡にやって来た。近くに、6年前にはなかった東北歴史博物館が出現していて、東北全体の歴史がおさらいできる。なかでも興味深かったのは巨大なナマハゲの面で、血走った眼を見開いた憤怒の相は、怒りより哀しみを湛えているように見えた。 . . . 本文を読む
東日本大震災から2年半になる秋の初め、仙台から釜石まで海岸線を北上した。いつものように旅の記憶を留めておこうと思うのだけれど、帰って3ヶ月になるというのに何も書けないでいる。それはあまりの被害の甚大さに打ちのめされた私に、「お前に何が書ける」と現実が迫って来るようで、私の内が混乱しているからだろう。確かに私は傍観者に過ぎず、被災地に何の手助けもできないでいる。それでも私は見ておきたかったのだ。 . . . 本文を読む
遠野物語で私が最も衝撃を受けたエピソードは、巻末に採録されたデンデラノ(柳田は『蓮台野』の文字を当てている)のことである。「六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追ひやるの習ひありき。」という、姥捨て伝説らしき風習である。そして驚くべきは「老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆえに、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。」との記述だ。では捨てられた親は、息子と顔を合わせることもあったのか? . . . 本文を読む
遠野の宿は大震災の被災者が避難していて、どこもいっぱいだった。ようやく見つけた民宿にも、大阪の病院から応援に来ている医師・看護師や、被災地の復旧に当たっている土木関係者らが長期滞在しているようだった。私も釜石で津波被害の様子を確認し、ここまで戻って来たところなのだ。30年ほど昔、釜石に行く途中この街を通過し、いつか立ち寄ってみたいと思い続けていた遠野である。もちろん「遠野物語」に惹かれてのことだ。 . . . 本文を読む
私は初めての街に行くと、早朝の駅で通勤の人波を眺める機会を窺う。一日の活動に向けて市民の生き生きした表情に接し、その街が身近に感じられるからだ。岩手県北上市で宿泊したこの朝も、午前8時ころの北上駅前にいた。列車が到着したのだろう、おじさんおばさんに混じって高校生の集団が元気に登校して行く。ところが視界を遮る幟旗がうるさい。全国高校総体の歓迎幟である。気が付くと、駅前は看板類の氾濫ではないか。 . . . 本文を読む
大震災発生から3ヶ月半、釜石では瓦礫の多くはとりあえずの空き地に集められ、道路は通行可能になっていた。しかしそれは街の中心域に限られたことで、港に行くと巨大な貨物船が防波堤に乗り上げ、その先は通行止めなのだった。ジリジリと日に照らされた街に人の気配は薄く、奇妙な静寂が支配している。こうした街が沿岸数百キロに累々と続いているのだと頭の中ではわかっているのだが、受け入れるには余りに過酷な惨状である。 . . . 本文を読む
寂寥感などと書くと、いささか気取った言い回しになって気恥ずかしいのだが、盛岡の街を歩きながら、しだいに膨らんで来るその種の感情に戸惑い、困惑した。街の様子が貧相で侘しいというわけではない。人口30万人ほどの、県都としては規模の小さな街ではあるけれど、盛岡は寡黙ながら、南部20万石の歴史を沈潜させたいい街なのだ。ところが駅に降り、駅西側の総ガラス張りのビルに入って、そうした想いが募って来たのである . . . 本文を読む
雫石に行くことになった。岩手県にある街だということは承知しているけれど、他に何の知識も無い。ただ私の世代では多くの人がそうであるように、その町の名を聞くと、かつて全日空機と自衛隊機が衝突した悲惨な事故を思い出す。衝突地点が町の上空だったのだ。改めて地図を広げ、街の位置を確認してみる。岩手山の南麓にあって、秋田県境に接していることを知る。東北地方の真ん中のような位置だ。いかにも山深そうである。
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ある時代に傑出した繁栄を見せ、その後は歴史に埋もれてしまった街は、その名を耳にするだけで自動的に特定の世界が連想されるものだ。東北でいえば「三内丸山」は縄文を、「十三湊」は中世を、「会津若松」は幕末に結びつく。そして「多賀城」といえば、古代そのものであろう。もちろん今もそこには活き活きとした生活があり、喜怒哀楽が交錯する「現役の街」なのだが、私にとって多賀城は、あくまでも古代の響きとともにある。 . . . 本文を読む
仙台は大きな街だ。人口が100万人を超える、東北屈指の大都会である。そのうえ「杜の都」と呼ばれる緑豊かな美しい街だ。仙台に行くたびにそのことを感じるのだが、もうひとつ、いつも思うことがある。それは街を行く人、特に女性のファッションが垢抜けないことへの驚きだ。目鼻立ちは致し方ないとしても、それをカバーするセンスは磨くことができるはずだ。なのに街の賑わいに比べ、街行く人々が野暮ったいことの不思議・・ . . . 本文を読む
威勢がいいだけの、殺伐とした漁師町なのだろう――などと、勝手にイメージして塩釜へと出かけた。しかし私がいかに浅はかであるかは、その街を歩き始めてたちまちのうちに思い知らされた。狭く、小さな街ではあるけれど、落ち着きがある。地方らしく、疲れた寂れがにじんでいるものの、街角には気品すら感じさせる佇まいがある。さすがに陸奥一ノ宮・塩竈神社の鎮座地である。木犀の香りが漂ってきた。
夕暮れ前のこと、JR . . . 本文を読む
律令の時代以来、東北地方と呼ばれる広大な地域は、陸奥と出羽の2国に大別されていた。合わせて「奥羽」である。その大雑把さがいかにも「みちのく」にふさわしいともいえるが、それは大和朝廷の視点に立ってのこと。奥羽は独自の経済と文化を育みながら、群雄が覇を競う「もうひとつの日本史」を展開していたのである。そして中世、その統一と独立を掌中にしかかったのが藤原氏であり、その本拠の地が平泉であった。
陸中・ . . . 本文を読む
「松島」といえば「日本三景」であるが、それはもはや過去の話である。「天橋立」や「安芸の宮島」はともかく、松島はもう終わりである。さまざまな形をした島々が松の緑に覆われて、蒼い海に点在する風景は相変わらず美しいのだが、その向こうに2本の巨大な煙突が建ち、赤と白の模様で水平線を乱した時点で「三景」の資格を失った。芭蕉翁の意見も聞いてみたい気はするが、ここは権威ある機関によって速やかに「新日本三景」選 . . . 本文を読む