私が向き合っているのは、岡本太郎が「ノン」と名付けた作品である。仏語で「Non」つまり英語の「No」であろう。顔と思われる造形は不気味で、眼は釣り上がり、大きく裂けた口は鋭い牙で埋まっている。胸の位置に、手のひらをこちら側に向けて並べているのは拒絶するポーズだろうか。「太陽の塔」と同じ1970年の制作で、大阪万博で展示されたらしい。作者の狙いや意図はともかく、私が注目したのは「顔が作者に似ている」ことなのだ。
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強い北風になぶられた波が、飛沫を浴びせようと打ち寄せて来る。先ほどまでちらほらと、雪が舞うほどの冷え込みなのだ。それでもじっと佇む二人は、何を見ているのだろう。視線の先をたどると、ガンダムがいた! テレビアニメのヒーロー・機動戦士ガンダムの「実物大」が造られたと聞いてはいたが、あれがそれかと目を凝らす。背景のデッキに並ぶ見物客との比較から、その巨大さがわかる。2021年の大晦日。横浜・山下公園の岸壁で凍える。 . . . 本文を読む
久しぶりの川越散歩を楽しんでいると、カラフルなワッペンを貼ったゴミ収集車がやってきた。目を凝らすと「100th Anniversary」とある。川越市は2022年、市制100年を迎えるのだという。それは埼玉県で初めて誕生した「市」だった。江戸時代を通じて武蔵国の最有力城下町であった歴史を思えば、川越が「一番目の市」になるのは当然だっただろう。しかしそれが大正11年とは遅過ぎはしないか? 全国で90番目以下の順になる。 . . . 本文を読む
東武東上線の高坂(たかさか)駅と言っても、位置を特定できない人が多いかもしれない。池袋から急行で50分、東松山の一つ手前の駅だ。それでもなお見当がつかないというお方には、関越自動車道の渋滞情報でよく耳にする高坂パーキングエリアのある街、と言ったら聞き覚えがあるだろうか。とにかく私は吉見百穴を見物した帰り、東松山界隈を歩きたいとネットを漁っていて、高坂駅前から延びる「高坂彫刻プロムナード」を知ったのである。 . . . 本文を読む
吉見百穴の、黒い穴がたくさん口を空ける古代横穴墓を眺めていて、近年、都会で流行る「合同墓」ビルは似た発想だと可笑しくなった。檀家制度から解き放たれた現代人は、同時に、納まる墓所を失いもした。新たに墓を求めるにしても、高額で遠い霊園を探すしかなく、結局は子孫たちに「墓仕舞い」の苦労を残しかねない。そこで生まれた新たな仕組みが合同墓なのだろうが、突然「薄葬令」を出された古墳時代人も、似た状況に置かれて考えたのだろう。 . . . 本文を読む
鎌倉と藤沢を結ぶ江ノ島電鉄は、沿線に高校があるのだろう、午後4時ころの藤沢駅は、江ノ電が到着すると下校の高校生でデッキが溢れる。江の島帰りの私も同じ電車に乗り合わせ、一緒にデッキに吐き出されている。ほとんどがJRか小田急に乗り継ぐのか、迷わず先を急いでいる。通路の端では地味な雰囲気のおじさんが、フルートで彼ら彼女らの1日を癒すような優しげな曲を奏でているのだけれど、若者はおしゃべりとスマホに夢中だ。 . . . 本文を読む
江ノ島に近い住宅地に囲まれて、藤沢市と鎌倉市を分かつように延びる緑の丘陵は片瀬丘陵だ。その南麓に甍を広げるのは龍口(りゅうこう)寺で、「日蓮宗霊跡本山」を掲げている。鎌倉で「龍ノ口」と耳にすれば、とっさに「刑場」が思い浮かぶのは、その時代をいささか聞きかじっているからかもしれない。門の脇には「刑場跡」の碑が建ち、門前の複雑な交差点は、「電車優先」と書かれた狭い道を江ノ電が行き交っている。中世に遡る道だろう。 . . . 本文を読む
だいぶ以前のことになるが、江ノ島にやって来たことがある。弁天橋を歩いて渡り、せせこましい仲見世通りを抜けて石段を登り、いくつもある江島(えのしま)神社の宮々に辟易しながら丘頂に出て、展望灯台は一瞥するだけで帰った記憶がある。狭い小島にむりやり詰め込んだ俗悪なテーマパークという印象しか残らなかった。それでも再訪したのは、東京五輪のセーリング競技のせいだ。テレビ観戦していて、爽快な風を浴びたくなったのだ。
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72万人の相模原市民はどこにいるのか。わからないまま八王子経由で帰ろうと、再び横浜線に乗る。せっかく来たのだからと隣りの橋本駅で降りてみる。この気まぐれによって、私はようやく政令市・相模原の雑踏に出会うことになった。京王相模原線の改札に通じる連絡路は、ちょうど電車が着いたのか、先程までの相模原駅から市役所通り界隈で出会った人の合計の数十倍は多い人の波が吐き出されてくる。混雑が、なぜか私をホッとさせる。
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関東平野南部は、多摩丘陵によって内陸部(北側)の武蔵国と、海へと開ける南側の相模国に分けられる。北の「野」は武蔵野、南の「原」は相模原と呼ばれた。「野」と「原」は古代、明確な使い分けがなされていたと万葉集の解説書で読んだ記憶があるけれど、内容は忘れた。いずれにしてもこの地域には、広大な「野原」が広がっていたのだろう。そして近代、武蔵野台地には幾つもの飛行場が建設され、相模の原では帝国陸軍が軍都建設の夢を見た。 . . . 本文を読む
所沢を半日ほど歩いて、三つの「発祥の地」に出会った。「航空発祥の地」「保健所発祥の地」「トトロ発祥の地」である。これらには互いに関連はなさそうだが、なぜ所沢発祥かを考えると、自ずとこの地の特色が分かってくるようだ。キーワードは「武蔵野台地」だろう。一帯は西武鉄道の路線が縦横に走り、所沢駅前には鉄道本社も置かれている。駅ビルはずいぶんと賑わって、まるで西武王国のようだ。しかし「西武グループ発祥の地」ではない。 . . . 本文を読む
飯能市立博物館は、自分たちの街を「山と里が出会う町」だと紹介している。西の山から流れてくる川が、東側の里に出会う「谷口」に陣屋が置かれ、「市」が立てられて山と里の産物交易が始まった。それは江戸幕府開府間もないころで、飯能の街もそこから始まったという。山地と平野部の接点に多くの街が生まれてきたことは既に書いた。飯能もその典型的な例なのだろう。街の構造は今も変わらず、谷の口の陽だまりに約7万人の暮らしがある。 . . . 本文を読む
横浜に伊勢山という山はないけれど、伊勢山皇大神宮というお宮がある。街としてわずかに150年ほどの歴史しかない横浜のくせに、随分と仰々しい名称を冠していると思ったものだが、幕末の開港で異国の文明と対峙することになった横浜の、アイデンティティー確立のためにお伊勢さんから招かれた神様だと聞けば、なるほどと納得できなくもない。今日は七五三の参詣ラッシュらしく、境内は大変な混みようである。 . . . 本文を読む
横浜で病気療養中の友人を見舞った帰路、川崎に立ち寄る。この街を歩いたことはある。しかしそれは、川崎球場をフランチャイズとする大洋ホエールズが去り、代わってロッテオリオンズがやって来たころだから、40年も昔のことになる。もちろんその後も、幾度も列車で通過してはいるけれど、立ち寄る機会はなかった。ただ車窓から、街がしだいに綺麗に変化しているように見受けられ、再訪したいと思っていた。 . . . 本文を読む
墓参りに行く。わが家の墓は横浜市最南部の霊園にあって、むしろ鎌倉に近い。大船からバスに乗って行く便の悪いところなので、つい足が遠のくのだが、今回は「自作の骨壺がちゃんと納まるか」を確認する必要に迫られてのことだ。事前に墓の寸法を確認しない粗忽さが私らしいのだが、焼き上がってみると大き過ぎるような気がしてならない。いざ納骨の段階になって「納まらない!」というのでは喜劇ではないか。
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