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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



朝8時に大阪の自宅を出て、長谷寺の仁王門前に到着したのが10時頃であったが、長谷寺はもう参拝客でかなり混雑している。



第40代天武天皇が崩御し、41代持統天皇が即位する686年、200年以上前に雄略天皇の皇居のあった場所の近くに自然と溶け合い、山懐に抱かれた浄土というイメージで本長谷寺が創建されている。

本長谷寺



後陽成天皇(1571~1617年)の扁額で有名な仁王門を潜ると、名物の屋根つき階段「登廊」が高台の本堂へ続き、両側の牡丹園の牡丹が満開である。



真言宗豊山派総本山である長谷寺登廊の両側には、塔頭寺院がいくつもあり、そこの牡丹の花も満開であった。



下登廊を登りきった嵐の坂の手前を曲がって中登廊を上ると、右側に牡丹園と下登廊が見え、上り切った右手には蔵王堂がある。



その左には、紀貫之ゆかりの「故里の梅の木」があり、土佐日記の作者紀貫之(872?~945年)が梅の季節に長谷寺に参詣して詠んだ「人はいさ 心も知らず 故里は 花ぞ昔の 香に にほいける」(小倉百人一首35)にちなんだものという。



この和歌は古今集(905年)にあるので、1100年以上前に詠まれたものであるが、毎年咲く長谷寺の花(当時は梅、今では牡丹の花!)のように、人の心も変わらないで欲しいということであろう。



本堂の懸造の舞台は、清水寺よりも広く張り出しているが、登廊の屋根が邪魔をして舞台を支える木組みの全体を見ることが出来ない。



しかし、蔵王堂の前から始まる上登廊を上った左手奥に舞台の懸造柱列をなんとか見ることができるポイントがあった。



その上登廊を上りきった高台には鐘楼があり、その中に1019年に寄進された尾上の鐘と呼ばれる梵鐘が吊るされている。



尾上の鐘については、藤原定家(1162~1241年)の「年を経ぬ 祈る契は初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」という和歌が新古今和歌集(1201年)にあるので有名である。

本堂



本堂の右手の高台には、愛染堂、絵馬堂、三社権現、日限地蔵、能満院などの堂宇があり、この辺りは初瀬山の斜面にある長谷寺の中で堂宇の密集した場所となっている。

愛染堂



日限地蔵の前から本堂のある西側を見ると、新緑が目にしみるようである。


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