京都御苑の東側を歩いていると、御所を守るかのように南北に細長い敷地があり、そこが神社の森のようになっているのでちょっと立ち寄ってみた。
1の鳥居
南北に細長い敷地の中央辺りから境内に入ると、拝殿の手前に門があり、その横に梨木神社とあり、三條実萬(さねつむ)とその子息、三條実美(さねとみ)の二柱を祭神としていた。
三条実萬(1802~1859年)は、江戸末期に菅原道眞の生まれかわりと崇められた博覧強記の人で、早くから王政復古を唱え明治維新に大きな影響を与えた人物である。
その三条家は、藤原北家閑院流の嫡流、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつで、三條実美(1837~1891年)の母は土佐藩主山内豊策の娘なので15代土佐藩主、山内容堂(1827~1872年)と三條実美は従兄弟同士となるようである。
1863年、尊攘派の長州藩と三條実美(26歳)らの過激派公家は、孝明天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍に命ずるよう天皇に強要しようと計画していた。
2の鳥居
しかし、事前に察知され、薩摩藩、会津藩、尊攘派と対立する公武合体派の中川宮や近衛忠熙(1808~1898年)等は、尊攘派の公家と長州藩主の処罰を決議している。
そのために長州藩兵と攘夷派の公家7人は京都を落ち延び、3年間の幽閉生活を送っているが、その間に西郷隆盛や高杉晋作らとの交流があり、三条実美にとって貴重な経験だったようである。
門
三条家(清華家)より格上である五摂家の筆頭、近衛家と徳川家の関係は深く、NHK大河ドラマに出てくる島津斉彬の養女「篤姫」は、忠煕の養女となった後に将軍徳川家定に嫁しているくらいである。
1868年の王政復古に際し、三條実美は31歳で政治の表舞台に復帰、翌年には右大臣となり生涯政権の中枢にあり続けているが、公武合体派であった近衛忠熙は、明治天皇の要請でほとんどの公家が東京に移住した後もすねて永く京都から動かなかったという。
舞殿
近衛忠熙の嫡男、忠房の孫が日中戦争から日米開戦直前まで3度も総理大臣を務めた近衛文麿(1891~1945年、忠熙のひ孫)であるが、明治以降の近衛家からは神社の祭神となった人はいないようである。
1885年、没後26年を経た三条実萬は、旧三條家邸跡に創建された梨木神社の祭神となり三條実美は同年に発足した内閣の内大臣に就任している。
拝殿
1889年、実美は黒田清隆総理の辞任をうけて総理大臣を2月間代行しているが、3年後に55歳で死去、内大臣正一位大勲位公爵として国葬で送られている。
大正天皇の即位式があった1915年、三條実美も没後24年を経て梨木神社に第二祭神として合祀されているので、格上の近衛家としては面白くなかったのではなかろうか。
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