野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



西宮市を東西に通る旧山陽道(国道2号線)から、京都に向けて旧西国街道(国道171号線)が分岐しているが、その分岐地点から1500m北側に広田神社(正しくは廣田神社)がある。



この神社は、天照大神の荒魂を祀っているために、勝負の神として崇敬を集めていて、毎年プロ野球の阪神タイガースが必勝祈願に参拝することで知られている。

本殿前



天照大神は、伊勢神宮の主神でもあるが廣田神社は、西にある伊勢神宮という意味で古くから西宮と呼ばれ、廣田神社の門前町が発展したのが現在の西宮市である。

東側にある石灯籠



もともと廣田神社は、現在地から2,7キロ北北西にある甲山の山麓にあったらしいが、後に御手洗川のほとりに遷座、1604年には豊臣秀頼が社領を寄進し、社殿を改修した記録がある。

御手洗川と上流に見える甲山



しかし、江戸時代の1724年に大きな水害に見舞われたため、徳川吉宗(将軍在位1716~1745年)の寄進で現在地に遷ってきている。

神社の参道は、750m南にある旧西国街道から分岐しているようで、今も両側に松並木のある道路が神社のすぐ東側まで伸びていた。



廣田神社の境内は、明治時代に寄進された石灯籠から始まっていて、そこから西向きに新しい石畳が敷かれ、2本の石柱に石の梁を渡した簡素な鳥居に続いている。



廣田神社は、1995年の阪神大震災で大きな被害を受けたようであるが、今では復旧され、新しい石畳や石灯籠がすがすがしい。



鳥居を潜って石畳の参道を西に進むと広場に出るが、その広場の北にある小高い場所が社殿であった。



江戸期に造られた社殿は、1945年の空襲によって焼失したために、現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を1956~63年に移築したもので、太い7本の鰹木と、細く長く伸びた千木を持つ神明造りの神社建築である。



廣田神社と伊勢神宮は同じ神を祀る神社同士なので近い関係のようで、廣田神社の境内には伊勢神宮の式年遷宮の寄進を呼びかける看板がいくつも置かれていた。


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世界文化遺産、春日大社の「砂ずりの藤」が満開となったようなので、久しぶりに奈良まで出かけて春日大社に参拝してきた。



樹齢800年といわれる藤は見事であるが、写真を撮る人が絶えず藤の周りにいて落ち着いてシャッターを切るチャンスが無い。



そこで人で一杯の春日大社本殿の撮影を諦めて、石灯籠が並ぶ静かな南の参道を奥に向かって歩いてみる。



中には、永正七年(1510年)と銘のある古い石灯籠があり、ゆっくりと探せば、もっと古い石灯籠もありそうであった。

永正七年とある石灯籠(右)



参道を上り切った右手には、幹回り11,46m、高さ24mの巨大な「若宮大楠」が鬱蒼と枝を広げている。



「若宮大楠」と参道を挟んだ向かい側には、樹齢500年以上という「八房藤」があり、「八房藤」の枝と花が森の樹木に絡みついている。

八房藤のつぼみ



その先は、春日大社の摂社の中では最大規模を誇る若宮神社の本殿(重文)と拝舎(重文)である。



若宮神社は、1003年に春日大社の第4本殿に出現し、神託によって1041年に第2、第3本殿の間に移し、さらに1134年に現在の場所に遷座したという。

砂ずり藤



しかし、中右記1119年の条に、若宮神社の灯明料所となっている伊賀国の地名が記載されているので、もっと古くからある神社だったようである。

本殿の正面には大きな明神鳥居を建て、入り口には菱格子組子の扉を持つ春日造りであるが、式年造営によって幕末の1863年に造り替えられたものである。



春日大社では、室町時代1367年頃から式年造替が始まったようで、1613年の造替から江戸幕府によってほぼ20年毎の周期で実施されている。

中門の内側が春日本殿



式年造替の対象建物は、春日本殿4棟と若宮本殿、及びそれを囲う瑞垣、鳥居に限られているので伊勢神宮などと比べると規模が小さく、出費も過大ではなかったようなので戦国期にも途絶えることなく続いている。

回廊と砂ずり藤



しかし明治以降は、修理だけで造替はされていないので、室町から江戸時代に限り式年造替があったことになる。


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春日大社神苑に藤園を寄贈した藤裔会の会長は、九条道弘氏、理事長は近衛忠輝氏という。

九尺藤



近衛家は、鎌倉初期に活躍した初代の基実(1143~1166年)以来、現在も連綿と続いていて、江戸末期には孝明天皇の信頼が篤く、徳川家との公武合体を画策していた第26代近衛忠熙が出ている。

口紅藤



近衛忠熙の養女は、NHK大河ドラマで有名な篤姫であり、近衛忠熙の孫(実際はひ孫)が戦前総理大臣に3度就任している第28代近衛文麿(1891~1945年)である。

海老茶藤



近衛文麿の嫡男、近衛文隆(1915~1956年)は、学習院中等科卒業後、アメリカのプリンストン大学に学び、1938年に帰国して父の秘書官となっている。

本紅藤



その翌年、上海から蒋介石のいる重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、その後も蒋介石との交渉を主張したために、1940年に陸軍に召集され、満州の砲兵連隊に入隊している。

藤の道



近衛文隆は、陸軍中尉にまで昇進した1944年ハルビンで結婚しているが、終戦時にシベリアに抑留され11年後の1956年に収容所で死去している。

白野田藤



嫡男の文隆を失った近衛家は、近衛文麿の次女・温子と熊本藩主細川家の細川護貞の次男として生まれた細川護(1939年~)を養子として迎え、第29代当主近衛忠輝としている。

八重黒龍藤



細川護貞の長男、細川護熙元首相を実兄とする近衛忠輝氏は、1962年学習院大学政治経済学部政治学科を卒業後英国留学を経て日本赤十字社に入社し、現在日本赤十字社の社長である。

八重黒龍藤拡大



一方、近衛家に匹敵する名門である九条家も、初代兼実以来現在も続き、幕末明治にかけては九条道孝(1839~1906年)を輩出している。

本紅藤



九条道孝は、幕末に近衛忠熙らと公武合体を推進したために維新後には一時参内停止処分を受けている。

藤棚



しかし、戊辰戦争では赦されて奥羽鎮撫総督に就任して東北地方を転戦、その後は明治天皇の相談役となっているが、藤裔会現会長九条道弘氏は道孝のひ孫である。


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1937年に開園した春日大社の参道途中にある万葉植物園は、日本でもっとも古い歴史をもつ植物園で、万葉集に詠まれた植物が約300種栽培され、それぞれに代表的な万葉歌がそえられている風流な場所である。

藤園の麝香藤



広さが3ヘクタールもある神苑の南部には、藤原氏ゆかりの藤を20品種、200本も植えた藤の園があり、5月の連休中が見頃である。

八重黒龍と麝香藤



藤園の中にある記念碑によれば、藤原氏の末裔が集う藤裔会が万葉植物園の開園50年を期して藤原氏ゆかりの藤園を1986年5月に開園したとあるので、既に22年が経過していることになる。

本紅藤



本部が春日大社に置かれる藤裔会は、1966年に結成され、現在の会長は九条道弘氏(平安神宮宮司)、理事長は近衛忠輝氏(日本赤十字社長)という。



両家ともに藤原北家、良房の嫡流で、鎌倉初期に藤原忠通(1097~1164年)の子の基実(1143~1166年)と兼実(1149~1207年)がそれぞれ近衛家と九条家を成立させている。

白野田藤



後に近衛家からは鷹司家が、九条家からは二条家と一条家が出て五摂家となっているので、藤原北家の嫡流に近いのは、近衛、九条、鷹司、二条、一条の順となるようである。

黒龍



1615年に江戸幕府は、禁中並公家諸法度を制定して、摂政・関白は幕府の推薦なくして任命できない仕組みとし、朝議を摂政・関白が主宰し、清華家以下の公家は大臣であっても参加権・発言権が剥奪されるようになっている。

海老茶藤



また、五摂家が断絶した場合の後継養子には必ず皇族か同じ摂家からの養子しか認められなくなり、太政大臣の任官に摂政・関白・征夷大将軍の経験者という規定が追加されて、清華家以下の公家は朝廷中枢から排除されている。

九尺藤



その結果、江戸時代の朝廷は五摂家の当主の合意での運営が可能となり、天皇と言えどもそれに抗う事は困難であったという。

藤棚



更にその五摂家の当主ですら幕府が摂政・関白の任命権を事実上掌握している以上、幕府の意向に反する事は出来なかったために、幕府→摂家・武家伝奏→天皇及び諸公家という幕府にとっては非常に効率の良い朝廷統制の仕組みが完成している。

すなずり藤



幕末から明治初期に活躍する三条実美の三条家は、五摂家の次の清華家であったために江戸期には朝議から外される悲哀を味わっていたようである。


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森之宮からスタートした徒歩通勤は、大阪城で大分時間を使ってしまったので、始業時間に間に合うよう外堀の北側を西に急ぎ、大手前交差点をさらに西に歩くと谷町筋である。

大阪城外掘りと大阪府庁



谷町筋を北に折れると大川に架かる天満橋があり、そのすぐ西側が江戸時代、京都から淀川を下る三十石船の船着場のあった八軒家浜である。



平安時代以降、京都から淀川を下って大阪に入る人は、この八軒家浜で船を下りたというが、最近リバークルーズの船着場が完成し、新たな観光スポットとして売り出し中という。



天満橋から大川(旧淀川)の西を見ると、中央に中之島の先端となる剣先公園があり、そこから北の川は堂島川、南は土佐堀川と川の名前が急に変わるので面白い。



剣先公園で分流した土佐堀川は、西に真っ直ぐ流れる本流と、南に流れて東横堀川となる流に分かれ、豊臣秀吉が大阪城の堀として掘削した東横堀川の取り付け部分が良く見える。



中之島公園の東の先端を南北に横断する橋が天神橋で、ふだんはこの橋の中央部分から下の公園に下りる螺旋階段が使えるが、丁度公園の整備中ということで現在は立ち入り禁止となっていた。



そこで、土佐堀通をさらに西に歩き、難波橋の上から中之島公園に下ってみると、ここから東側にあるバラ園も整備中で立ち入り禁止となっていた。



仕方がないので中之島公園のバラのプロムナードを西に向かうと、堂島川の南に沿って植えられたバラが丁度満開となっている。



大阪の中心にある中之島公園の中で、このプロムナードが最もすがすがしい場所なのではなかろうか。



東洋陶磁器美術館の北側にある道を西に向かい、鉾流橋まで来るとバラのプロムナードは終わってしまうが、左手にはレンガ造りの中之島公会堂が見えてくる。



この建物は東向きに建てられているので、朝日に照らされた正面玄関の壁の赤が強調されて綺麗である。



ここから大阪市役所の西にあるケヤキ並木を抜ければ御堂筋となるので本町まではあと10分で到着である。



大阪市内は、大阪城のある上町台地を除いて大抵平坦で、車道と歩道がしっかりと分かれ、歴史的スポットが街に溢れている。



たまにはバラのプロムナードを通って徒歩通勤してみるのも楽しいものである。


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いつも御堂筋を歩いて難波から本町まで通勤しているが、さわやかな季節となってきたので、徒歩通勤のルートを変えてみた。

北西側から見た大阪城



ふだんよりも1時間ほど早く家を出て、7時前に地下鉄の森之宮駅で下車すると、目の前は大阪城公園の広場である。

大阪城公園の森



そこを北に向かって歩くと大阪城東外堀の南端に出るが、この東外堀は陸軍の砲兵工廠があった時代に一旦埋め立てられ、それを戦後になってから再度掘削して造った新しい堀である。



そこからルートを西に変えると上町台地に上る高い石段があり、上りきった場所が大阪城二の丸に入る玉造門である。



江戸時代の玉造門は、大阪城代(多くが京都所司代を経て老中に就任した)に協力する玉造定番(大名が任命される)が守備する場所で、明治維新までは立派な門があったが維新のどさくさで焼け落ちてしまったようである。

玉造門から本丸の桜門に至る道路



玉造門を入り、本丸を囲う内堀の東側、雁木坂までは玉造定番の守備範囲で、ここに広大な定番屋敷を構えていたという。

内掘と雁木坂(右)



本丸の玄関門である桜門までの道は、普段は観光客で一杯であるが、早朝のためか散歩している人がチラホラいるくらいであった。

桜門正面の蛸石(城内第1位の巨石)



桜門の枡形の西側にある城内第3位の巨石「振袖石」に朝日が当たっていたが、この石に太陽が当たるのは早朝の時間帯だけである。



夫婦連れが1組いただけで閑散としていた、天守閣の前を通り、西側から上町台地の北の端、天守閣の裏側となる山里丸まで下りてみる。



この場所は、豊臣秀頼、淀君母子が自刃した場所で、今も石碑が残っているが、大阪城裏門の重要な場所なので、江戸時代には大坂城山里加番(大名)が配置されていた。



山里丸から内堀を渡る極楽橋は、いつも混雑しているが、早朝の時間帯なので観光客は未だ来ていない。



内堀を北から西に廻るとすぐに京橋門があり、この門は戦前まで保存されていたが先の戦争のよる空襲で惜しくも焼失している。



京橋門の枡形には城内第2位の「肥後石」があるが、京橋門から内堀の東にある青屋門までは、京橋定番(大名)の守備範囲で、さらに現在の大阪ビジネスパークは、京橋定番下屋敷の敷地であったという。

京橋口を出た場所から見た大阪城外掘



ここまで一気に歩いたので、だいぶ汗をかいてしまったが、観光客が殆どいない静かな大阪城を見ることができたので、楽しい通勤散歩であった。


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巨大な杉が何本もある五重塔から奥の院に至る山道を進み、原生林に囲まれた急な石段を400段上ると奥の院と呼ばれる高台である。



高台の手前には、懸造(かけづくり)の高い舞台を持つ位牌堂(金剛殿)があり、舞台の上から上ってきた石段を見下ろすと目がくらむ高さであった。



この懸造の位牌堂はまだ新しいようであるが、敷地の突き当たりにある空海を祀る御影堂(重文)は、鎌倉時代の建築で屋根の頂上に石の重しが載っているのが珍しい。

御影堂



奥の院から五重塔に向かって下る途中、五重塔を上から眺めると自然の中に1200年もあるためか実際のスケールよりも大きく見えるのが不思議である。



金堂の前から鎧坂を下り、入山した赤門の前まで戻ると、1459年に焼失し、その後再建された護摩堂がひっそりと建っている。



護摩堂を過ぎ、本坊の手前を左に曲がると出口となっている表門である。

奥の院への参道



室生寺の創建にかかわった人物が興福寺の僧であった関係から、室生寺は長く興福寺との関係が深かったが、元禄期の1698年、将軍綱吉(1646~1709年)が帰依していた大僧正隆光(1649~1724年)の影響で興福寺から離れ、真言宗豊山(長谷寺が本山)の寺院となっている。

参道



元禄期、城軍綱吉と生母桂昌院に京都、奈良の寺社の再建を奨めたのは隆光で、室生寺も隆光の口添えにより綱吉や桂昌院から加増や寄進を受けて繁栄している。

位牌堂と石楠花



表門前にある女人高野室生寺と書かれた石碑にある上の四角マークは、桂昌院の実家である本庄家の家紋「九目結文」である。



寺社への出費は、幕府財政を悪化させたために綱吉の死後隆光は失脚し、失意の内に帰郷して15年後に75歳で没したという。



元禄期に隆光の手腕によって繁栄した寺社は多数あるが、失脚した隆光の墓を維持する寺社は無かったようで、羽曳野市壺井のブドウ畑の中に今も壊れかけてひっそりと残っているのを知る人は少ない。



室生寺の宗派は、元禄以降真言宗豊山派(長谷寺が本山)であったが、1945年に独立し、真言宗室生寺派の大本山となっている。


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室生寺の金堂(国宝)の左手には、鎌倉時代に建立された弥勒堂(重要文化財)があり、金堂よりも小さい弥勒堂の中には、平安時代前期に造られた釈迦如来像(国宝)が本尊の弥勒菩薩像(重文)の隣に安置されている。



金堂、弥勒堂のある敷地から左手に続く石段を上がった場所には池があり、その右手正面に室生寺本堂である潅頂堂(国宝)が見えるが、潅頂堂は工事中のために堂全体が白いシートで覆われてよく見えない。



そこで池の横を奥に進むと、北畠親房(1293~1354年)の墓と伝わる五輪塔(重文)が他の2基の墓石と一緒に安置されているではないか。



北畠親房のことは、楠木正行のブログで書いたことがあるが、南北朝時代に南朝の指導者として八面六臂の活躍をした人物である。

金堂前の石楠花



北畠親房の墓地の手前から右手の石段を上ると、いよいよ室生寺の五重塔(国宝)である。



この五重塔は、16,1mの高さしかない全国最小の屋外五重塔というが、屋根の内側の周囲が白く塗装され、下から見上げると軒先がライトアップされているようにも見える不思議なデザインの五重塔である。



この五重塔は、1998年の台風の被害で解体され、部材の年輪年代測定が実施されているが、その際に794年に伐採された木材を使っていたことが判明している。

金堂と弥勒堂(正面)



その木材が使われて、10年後に五重塔が完成したのであれば、804年頃に建立された計算になるので、1200年以上前からこの地に建ち続けていることになる。

弥勒堂



ゴシック建築が出現する以前、ヨーロッパにおける最初の宗教建築であるロマネスク建築が出現するのが11世紀なので、それらの世界遺産よりもさらに200年も古い室生寺の五重塔や金堂は、日本が世界に誇る遺産である。

2000年には復旧工事が終り、その際に損傷や腐食した部材が取り替えられ、塗装も塗り替えられたので、今は1200年前に新築された時のような五重塔となっている。



室生寺の自然を作る杉木立は、古いものでも4~500年、最大でも700年くらいの樹齢しかないので、自然よりも人間が作った芸術作品のほうが(寿命が)長いというポイントに土門は感動していたようである。



それにしても、巨大な杉木立が台風で倒壊したことは、1200年間に何度もあったであろうに、五重塔をはじめとする室生寺の堂宇が杉の倒壊による大規模な破壊を1998年まで免れていたのが奇跡である。


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お寺と花の記事が続き、読みくたびれた人も多かろうと思うので、今日は一息入れるために別のテーマでブログを書いてみたい。



実は、「日本全国飛行機旅行 旅客機空港ものしり大図鑑」という「昭文社」が発行した子供向けの図鑑に私のブログの写真が掲載されたのである。

もう書店に並んでいると思うので、興味のある方は書店でぜひ見て欲しいし、飛行機の好きな人には面白い図鑑なので、買ってじっくりと読んで貰いたいものである。



子供向けに書かれているが、大人でも十分楽しめる充実した記事と写真、イラストが一杯で飛行機を使って旅行に行くのが楽しくなりそうである。



今年の1月頃、東京都国立市のこどもくらぶ(エヌ・アンド・エス企画)のNさんからメールが来て、私のブログにある写真が面白いので、編集中の子供向けの書籍に掲載したいという。

私が撮った写真が子供向けの本に載るとは名誉な話なので、二つ返事でOKし、Nさんのアドレスまで1枚が2MBくらいある写真データーを送っておいたものが、今回の図鑑に掲載されたのである。



Nさんからは、お礼に出版した本を送りますというメールを貰っていたが、大した写真では無いので一旦はお断りしておいた。

ところが4月末になって、「無事刊行することができました」というお知らせと、本を送りたいという申し出が再びあったので、有難く頂戴することとした。



送られてきた図鑑をみると、子供向けであるのに詳細なデーターや記録、写真、イラストが一杯で、大人でも十分に楽しめる内容となっていたので一気に読んでしまった。



私の写真は、66ページの「日本列島を空から見てみよう」の中に2枚使われていたが、未来を託す子供たちが飛行機に興味を持つキッカケになれば嬉しいものである。



日本の子供たちのために、こういう優れた本を出版された東京都国立市のこどもくらぶ(エヌ・アンド・エス企画)の皆さんの努力に敬意を表し、ますますの発展を願ってやまない。


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室生寺の起源は、延暦年間(782~806年)に雨を祈願する竜穴神社の神宮寺として興福寺の学僧・賢(けんけい)が起こしたのが始まりというので、1200年以上の歴史を誇る古い寺である。



写真集「古寺巡礼」で有名な写真家の土門拳(1909~1990年)は、1939年に室生寺を撮影して以来、憑かれたように来訪するようになり、何十回も訪問したことがあるという。

太鼓橋への入り口



土門拳の写真集「室生寺」は、戦後間もない1954年に出版されているので、宇陀の山中にある室生寺によほどの思い入れがあったのであろう。

太鼓橋



その土門拳が「ぼくの古寺巡礼」の中で、春が一番室生寺らしい季節であると書いていたので、春の石楠花の季節に訪ねてみたのである。



室生川にかかる太鼓橋を渡ると、女人高野室生寺と書かれた石碑と、桧皮葺の表門があるが、境内へは右手にある小さな赤門から入るルートとなっていた。



赤門から境内に入った左手には、朱塗りの巨大な仁王門があり、この門は1964年頃に建築された未だ新しい建物である。



仁王門を潜った左手が金堂(国宝)に続く鎧坂で、今の季節には坂の両側にある室生寺名物の石楠花が満開である。



石段を上りきった高台にある金堂は、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられているが、奈良時代末期か平安時代前期の建設とされている。



中に安置された諸仏(多くが国宝と重要文化財)は、遠くて細かい部分が良く判らないが、土門拳の写真集に1体づつ詳細に載っているので、それを後からじっくりと鑑賞することとし、堂の内部のおごそかな雰囲気だけを味わっておく。

金堂横の石楠花



土門拳は「ぼくの古寺巡礼」の中で、仏像を写すには仏像が何を表わそうとしているのかを見る、仏像の本来の意味とその成立の意義を知る、じっと見ていると胸をついてくるものがあるので、それを丸ごと表すようにシャッターを切る、と写真哲学を書いている。

金堂の西



また、これでいいという満足感を持ったことがないと書いているので、土門拳を室生寺にひきつけたのは、撮っても撮りきれない1200年の歴史に培われた仏像の芸術性ではないであろうか。


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686年に道明上人によって創建された最初の長谷寺は、今の本堂の西側にある狭い敷地に建立されているが、雄略天皇(在位456~479年)が皇居としていた場所は畏れ多いということだったのかも知れない。

下登廊の西側



その寺を「本長谷寺」と呼ぶが、その創建から41年を経た727年、聖武天皇(701~756年)によって現在の本堂の場所に「後長谷寺」が建てられている。

本長谷寺



この「後長谷寺」は、本堂のある南に開けた高台の広い場所で、そこが雄略天皇の皇居の場所だったと私は考えている。

本堂の舞台



聖武天皇は、724年に天皇として即位し、741年国分寺建立、743年東大寺大仏建立、745年平城京遷都を実施した活動的な天皇であったので、727年に生まれた嫡男のため、雄略天皇の皇居のあった広い場所に新しい長谷寺の建立を命じたのであろう。

本堂の内部



現在の本堂(国宝)は、観音菩薩を本尊とする寺に特有の懸造(かけづくり)となっていて、本堂の舞台から南を見ると、1550年前に雄略天皇が見た美しい景色が目の前に広がっている。



本堂は、徳川家光の寄進によって1650年に再建された巨大な建造物で、門前町にある橋の上から初瀬山の中腹にある大きな屋根が良く見える。



本堂舞台の西側には、「本長谷寺」の敷地に建ち自然と溶け合い、緑の山懐に抱かれた浄土というイメージにぴったりの五重塔が見えるポイントがある。



本堂から西に向かう参道を進むと、初瀬山の狭い斜面に御供所、弘法大師御影堂があり、御影堂の前をさらに南に進むと山の斜面の狭い敷地に本長谷寺と五重塔がある。

御影堂



この五重塔は、戦後間もない1954年に再建されているが、五重塔に正対する敷地跡にある三重塔の再建は未だ果たされていないようである。



五重塔から山の斜面にある石段を下りるとお茶所があり、若い僧の法話を参拝者が熱心に聞いていたが、寺での法話イベントは、リピーター確保のために必要なアトラクションの一つであろう。

自然に溶け込んだ石段



六角堂の前を通って西参道を進むと、ヨシズの日よけをした牡丹が多数植えられていて、すべての牡丹が満開であった。

中雀門からの本坊



中雀門の奥が長谷寺宗務の中心部である本坊、大講堂、護摩堂で、本坊の玄関の正面が谷を挟んで本堂と対面する配置となっていた。


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朝8時に大阪の自宅を出て、長谷寺の仁王門前に到着したのが10時頃であったが、長谷寺はもう参拝客でかなり混雑している。



第40代天武天皇が崩御し、41代持統天皇が即位する686年、200年以上前に雄略天皇の皇居のあった場所の近くに自然と溶け合い、山懐に抱かれた浄土というイメージで本長谷寺が創建されている。

本長谷寺



後陽成天皇(1571~1617年)の扁額で有名な仁王門を潜ると、名物の屋根つき階段「登廊」が高台の本堂へ続き、両側の牡丹園の牡丹が満開である。



真言宗豊山派総本山である長谷寺登廊の両側には、塔頭寺院がいくつもあり、そこの牡丹の花も満開であった。



下登廊を登りきった嵐の坂の手前を曲がって中登廊を上ると、右側に牡丹園と下登廊が見え、上り切った右手には蔵王堂がある。



その左には、紀貫之ゆかりの「故里の梅の木」があり、土佐日記の作者紀貫之(872?~945年)が梅の季節に長谷寺に参詣して詠んだ「人はいさ 心も知らず 故里は 花ぞ昔の 香に にほいける」(小倉百人一首35)にちなんだものという。



この和歌は古今集(905年)にあるので、1100年以上前に詠まれたものであるが、毎年咲く長谷寺の花(当時は梅、今では牡丹の花!)のように、人の心も変わらないで欲しいということであろう。



本堂の懸造の舞台は、清水寺よりも広く張り出しているが、登廊の屋根が邪魔をして舞台を支える木組みの全体を見ることが出来ない。



しかし、蔵王堂の前から始まる上登廊を上った左手奥に舞台の懸造柱列をなんとか見ることができるポイントがあった。



その上登廊を上りきった高台には鐘楼があり、その中に1019年に寄進された尾上の鐘と呼ばれる梵鐘が吊るされている。



尾上の鐘については、藤原定家(1162~1241年)の「年を経ぬ 祈る契は初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」という和歌が新古今和歌集(1201年)にあるので有名である。

本堂



本堂の右手の高台には、愛染堂、絵馬堂、三社権現、日限地蔵、能満院などの堂宇があり、この辺りは初瀬山の斜面にある長谷寺の中で堂宇の密集した場所となっている。

愛染堂



日限地蔵の前から本堂のある西側を見ると、新緑が目にしみるようである。


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長谷寺には何度か参詣していて、このブログにも数回書いたことがあるが、今年も春の牡丹の季節に行ってきた。



日本書紀によれば長谷寺のある場所は、大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)ともいう雄略天皇(在位456~479年)が、一時皇居としていた場所で、1550年以上前には日本の中心であった。

仁王門



仁徳天皇の孫、第21代雄略天皇は、中国の宋書で倭王「武」と比定される天皇で、熊本県や埼玉県の古墳から出土した刀剣に「ワカタケル」と読める嵌鉄された銘があることで実在の人物であることが知られている。

登廊



第20代安康天皇が456年に暗殺されると、雄略天皇は暗殺犯と思われる兄弟や政敵を殺害して天皇の座に就き、大伴氏、物部氏を大連(おおむらじ)として軍事政権を樹立している。

本堂の内部



大連(おおむらじ)とは、軍の最高司令官のことで、当時の大伴氏は兵を統率し、物部氏は兵器を担当していたという。

本堂舞台から見た五重塔



物部氏については以前、和光寺のブログで紹介したことがある。

この頃から日本史に登場し、重要な役割を果たす大伴氏、物部氏は雄略天皇によって引き立てられた豪族で、雄略天皇は彼らを使って当時有力な地方豪族であった岡山の吉備氏を征服している。



日本書紀によれば、雄略天皇在位中の464年、日本軍が朝鮮半島に攻め込み高句麗軍を破り、翌年には新羅に攻め込んだという記録があるので、豊臣秀吉よりも1130年以上も前に朝鮮を侵攻していたことになる。

本堂の舞台



中国の三国史記の新羅本紀には、462~3年に倭人が新羅に攻め込んだと記録されているので、数年の食い違いはあるが雄略天皇の指揮による朝鮮への侵攻は間違いないようである。

舞台の基礎



雄略天皇の陵墓は、羽曳野市にある高鷲丸山古墳(全長76m)か平塚古墳(全長50m)に比定されているが、それよりも巨大な松原市河内大塚山古墳(全長335m)とする説がある。



父親の允恭天皇の陵墓は、藤井寺市国府市野山古墳(全長228m)、祖父の仁徳天皇陵は堺市大仙古墳(全長486m)というスケールから考えると、雄略天皇には河内大塚山古墳がふさわしいと思うのは私だけか。


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京都御苑の東側を歩いていると、御所を守るかのように南北に細長い敷地があり、そこが神社の森のようになっているのでちょっと立ち寄ってみた。

1の鳥居



南北に細長い敷地の中央辺りから境内に入ると、拝殿の手前に門があり、その横に梨木神社とあり、三條実萬(さねつむ)とその子息、三條実美(さねとみ)の二柱を祭神としていた。

三条実萬(1802~1859年)は、江戸末期に菅原道眞の生まれかわりと崇められた博覧強記の人で、早くから王政復古を唱え明治維新に大きな影響を与えた人物である。



その三条家は、藤原北家閑院流の嫡流、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつで、三條実美(1837~1891年)の母は土佐藩主山内豊策の娘なので15代土佐藩主、山内容堂(1827~1872年)と三條実美は従兄弟同士となるようである。

1863年、尊攘派の長州藩と三條実美(26歳)らの過激派公家は、孝明天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍に命ずるよう天皇に強要しようと計画していた。

2の鳥居



しかし、事前に察知され、薩摩藩、会津藩、尊攘派と対立する公武合体派の中川宮や近衛忠熙(1808~1898年)等は、尊攘派の公家と長州藩主の処罰を決議している。

そのために長州藩兵と攘夷派の公家7人は京都を落ち延び、3年間の幽閉生活を送っているが、その間に西郷隆盛や高杉晋作らとの交流があり、三条実美にとって貴重な経験だったようである。





三条家(清華家)より格上である五摂家の筆頭、近衛家と徳川家の関係は深く、NHK大河ドラマに出てくる島津斉彬の養女「篤姫」は、忠煕の養女となった後に将軍徳川家定に嫁しているくらいである。

1868年の王政復古に際し、三條実美は31歳で政治の表舞台に復帰、翌年には右大臣となり生涯政権の中枢にあり続けているが、公武合体派であった近衛忠熙は、明治天皇の要請でほとんどの公家が東京に移住した後もすねて永く京都から動かなかったという。

舞殿



近衛忠熙の嫡男、忠房の孫が日中戦争から日米開戦直前まで3度も総理大臣を務めた近衛文麿(1891~1945年、忠熙のひ孫)であるが、明治以降の近衛家からは神社の祭神となった人はいないようである。

1885年、没後26年を経た三条実萬は、旧三條家邸跡に創建された梨木神社の祭神となり三條実美は同年に発足した内閣の内大臣に就任している。

拝殿

 

1889年、実美は黒田清隆総理の辞任をうけて総理大臣を2月間代行しているが、3年後に55歳で死去、内大臣正一位大勲位公爵として国葬で送られている。

大正天皇の即位式があった1915年、三條実美も没後24年を経て梨木神社に第二祭神として合祀されているので、格上の近衛家としては面白くなかったのではなかろうか。


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地下鉄千日前線の玉川駅から程近い場所にある野田の恵比須神社の社伝によれば、1113年にこの地に勧請されたというので、相当古い神社である。



「えびす」は、日本古来の漁業の神で、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などと書くことがある。

恵比須神社の境内



平安時代までのえびす神は、もともと仏教の毘沙門天や不動明王などを神格化した「荒々しい神」として信仰されていたという。

鎌倉時代になると、えびす神を日本神話の伊弉諾岐命(いざなぎ)と伊弉諾美命(いざなみ)との間に生まれ、葦の舟で流されたという蛭子命と結びつける説が現われている。

恵比須神社の摂社



えびす神社の全国総社、西宮神社の第一祭神である西宮大神は、舟で流され、西宮に漂着した蛭子命なので、中世の前期に社伝が創作された可能性がある。

一方、日本神話に登場する大国主神の子とされる事代主神は、国譲り神話において釣りをしていたことから中世後期以降に海と関係の深いえびす神と同一視されるようになっている。

拝殿



大阪今宮戎神社、神戸長田神社、野田の恵比須神社などでは、祭神を事代主神としているので、中世後期以降に社伝が創作されたようである。

雑魚場に近い野田の住民の多くは、古くから漁業に従事していたので、大漁を祈願して恵比須神社を勧請したのであろう。

本殿の裏



この野田の恵比須神社は、1533年(天文2年)兵火にかかり焼失しているが、1570年(元亀元年)三好氏によって祠が再建された記録があるので、500年近い歴史を持っているのは確実である。

本殿裏の鳥居



しかし、1578年には織田軍によって野田城が抜かれために三好氏が再建した祠も焼失、さらに1614年の大坂冬の陣でも野田周辺は兵火で焼失している。

野田城跡の石碑



徳川時代以降、漁業に従事する野田の住民が増え、彼らの寄進によって1717~61年にかけて恵比須神社の社殿が再建されたようである。

東鳥居の前にある狛犬の台座には、安永7年(1779年)「かち網中」(浅い海を歩いて網を引いて魚を取る漁法の従事者)36名の名前が記されている。

東鳥居



商業経済が発達した徳川時代には、一般庶民に「えびす様」が商売繁盛の神として信仰されるようになっている。

狛犬



野田の恵比須神社でも、1月10日の「10日えびす」では、今も多くの商売人の参詣で賑わうという。


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