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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



巨大な杉が何本もある五重塔から奥の院に至る山道を進み、原生林に囲まれた急な石段を400段上ると奥の院と呼ばれる高台である。



高台の手前には、懸造(かけづくり)の高い舞台を持つ位牌堂(金剛殿)があり、舞台の上から上ってきた石段を見下ろすと目がくらむ高さであった。



この懸造の位牌堂はまだ新しいようであるが、敷地の突き当たりにある空海を祀る御影堂(重文)は、鎌倉時代の建築で屋根の頂上に石の重しが載っているのが珍しい。

御影堂



奥の院から五重塔に向かって下る途中、五重塔を上から眺めると自然の中に1200年もあるためか実際のスケールよりも大きく見えるのが不思議である。



金堂の前から鎧坂を下り、入山した赤門の前まで戻ると、1459年に焼失し、その後再建された護摩堂がひっそりと建っている。



護摩堂を過ぎ、本坊の手前を左に曲がると出口となっている表門である。

奥の院への参道



室生寺の創建にかかわった人物が興福寺の僧であった関係から、室生寺は長く興福寺との関係が深かったが、元禄期の1698年、将軍綱吉(1646~1709年)が帰依していた大僧正隆光(1649~1724年)の影響で興福寺から離れ、真言宗豊山(長谷寺が本山)の寺院となっている。

参道



元禄期、城軍綱吉と生母桂昌院に京都、奈良の寺社の再建を奨めたのは隆光で、室生寺も隆光の口添えにより綱吉や桂昌院から加増や寄進を受けて繁栄している。

位牌堂と石楠花



表門前にある女人高野室生寺と書かれた石碑にある上の四角マークは、桂昌院の実家である本庄家の家紋「九目結文」である。



寺社への出費は、幕府財政を悪化させたために綱吉の死後隆光は失脚し、失意の内に帰郷して15年後に75歳で没したという。



元禄期に隆光の手腕によって繁栄した寺社は多数あるが、失脚した隆光の墓を維持する寺社は無かったようで、羽曳野市壺井のブドウ畑の中に今も壊れかけてひっそりと残っているのを知る人は少ない。



室生寺の宗派は、元禄以降真言宗豊山派(長谷寺が本山)であったが、1945年に独立し、真言宗室生寺派の大本山となっている。


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