江戸時代の初期、1625年に開削された長堀川の川幅は、平均38メートルもあったというが、1964年に埋め立てられて現在の長堀通りとなっている。
長堀通りと交差する三休橋筋(正面)
江戸時代、長堀川に架けられた橋は、当初丸太を組合せた上に板を敷いた粗末な橋であったために、橋を破損する恐れのある荷車等は引いて渡る事を禁止し、橋の袂で荷解きして手で運んだらしい。
今の長堀通
そのために、明暦年間(1655~58年頃)に架けられていた長堀橋・中橋・心斎橋の三橋から人通りを分散させて三つの橋を休める新しい橋を架けることとし、その橋を三休橋と名づけたという。
1905年の大阪地図にある長堀川の橋
さらに明治後期の1908年、医師の藤中泰によって藤中橋が中橋と長堀橋との間に架けられている。
1924年に発行された大阪パノラマ地図にある旧長堀川と橋
三休橋は、心斎橋から2筋東側にあり、その三休橋筋をまっすぐ北上すると本町通り、土佐堀通りを横断して栴檀木橋から中之島中央公会堂につき当たる。
中央公会堂
三休橋筋は、1905年の地図にある通り心斎橋筋と同じ狭い道路であったが、御堂筋と堺筋の中間にある道路であったために、1929年に拡張されて今の広さとなったという。
三休橋筋
本町から北側は栴檀木橋筋とも呼ばれていたこともあったらしいが、長い名前が嫌われたのかいつしか三休橋筋と呼ばれるようになったらしい。
栴檀木橋越しの中央公会堂
三休橋筋と本町通りの交差点北東角には、大手商社丸紅大阪本社ビルがあり、この辺りは戦前、戦後を通じて日本を代表する繊維会社街があり、丸紅のすぐ北側には重要文化財に指定されている綿業倶楽部ビル(1931年完成)が今も当時のまま残っている。
1936年に発行された大阪地図にある綿業クラブ
現在、本町通りから北側の三休橋筋の歩道拡張改修工事が進んでいて、これに合わせて街路樹のトウカエデはすべて抜かれ、約1キロの区間が栴檀木橋にちなむセンダンの木に植え換えられるという。
三休橋筋のトウカエデ
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