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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



信綱の死後、名門佐々木氏の力を恐れた北条氏は、大国である近江国を信綱の四人の息子に分割して継がせることとし、この時に北条義時の娘を母親とする3男の佐々木泰綱(1213~1276年)が宗家佐々木六角氏の祖となり、4男の佐々木氏信が分家の佐々木京極氏の祖となっている。

湖東平野



長男と次男が冷遇されたのは、母親が北条氏の出ではなかったためで、3男の泰綱の泰の文字は、叔父の北条泰時の「泰」、4男の佐々木氏信の氏は、従兄弟の北条時氏(1203~1230年)の「氏」を貰ったものであろう。

金剛輪寺のモミジ



有力守護である佐々木氏は当時、京都の館が六角東洞院と京極高辻に館を持っており、泰綱が六角、氏信が京極の館を相続したので六角と京極と分けて呼ばれるようになったという。

金剛輪寺のモミジ



1288年、祈祷で元軍を破った功績があったとして金剛輪寺に本堂を再興した佐々木六角頼綱は、泰綱の子息である。

金剛輪寺のモミジ



室町以降、南近江を領した六角氏は、近江の覇権をめぐって北近江の京極氏と、また応仁の乱では西軍に属して幕府とも対立したがしぶとく生き延び、戦国時代に六角定頼(1495~1552年)が登場する。

西明寺のモミジ



定頼は足利将軍家の準管領となり、観音寺城(安土城の東側にある山城)を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した人物である。

百済寺のモミジ



しかし後を継いだ六角義賢(承禎)は、1566年に浅井長政と戦って敗れたことで六角氏の勢力は陰りを見せはじめ、1568年には織田信長にも敗れて領地を失っている。

西明寺のモミジ



一方、信綱の4男であった氏信の京極氏の系統からは、足利尊氏の盟友として室町幕府の重鎮となった佐々木道誉(1296~1373年)が出ている。


西明寺のモミジ



京極氏は、佐々木道誉(高氏)の活躍で守護大名四職の一つとして繁栄したが、応仁の乱の後は家督争いにより衰退している。

西明寺のモミジ



しかし、佐々木道誉の孫に尼子氏の祖となる尼子高久が出て、そのひ孫の経久は、山陰を中心に勢力拡大に励み、孫の尼子晴久の時代には山陰八ヶ国を領する大大名にまでになっている。

西明寺の落ち葉



京極本家は京極高次、高知兄弟が戦国時代をかろうじて生き延び、両京極家ともに鎌倉以来の名門外様大名として徳川時代を生き延びて明治維新を迎え、華族に列せられている。


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