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湖東三山の紹介の中に出てきた佐々木氏は、宇多天皇(867~931年)から5代目となる源成頼(10世紀末~11世紀)が近江蒲生郡佐々木庄に下向、近江鉄道八日市駅近くの小脇に住んだ孫の経方以降、佐々木氏を名乗った事から始まるとされる。



平安期の1156年、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、佐々木秀義(1112~1184年)は天皇方の源義朝に属し勝利するが、1159年平治の乱で敗れ相模の渋谷重国のもとに落ち延びている。

百済寺の庭



1180年、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、秀義の子である定綱、経高、盛綱、高綱の4兄弟は頼朝軍に加わり平家と転戦、数々の武功を上げている。

金剛輪寺



佐々木秀義と渋谷重国の娘との間には、5男義清が生まれ、義清は後に出雲守に補任されているが、義清の次男泰清の子孫から隠岐守護の隠岐氏、出雲守護の塩谷氏が出ている。



1184年、平家攻撃における4男高綱と梶原景季の宇治川の先陣争いは有名で、兄弟は鎌倉幕府の成立後に本拠地近江を含めて17ヶ国もの守護へと補せられているので、佐々木軍が結束すれば執権の北条氏と十分対抗できる力があったようである。

百済寺の紅葉



1221年に後鳥羽上皇と幕府が争う承久の乱が起こると、宗家の定綱(1142~1205年)の長男広綱(1170頃~1221年)を始め一門の多くは上皇方へ味方して幕府と敵対しているので勝算があったのであろう。

しかし、執権北条義時の娘婿となっていた定綱の4男信綱(1181~1242年)は、幕府方義時の長男で従兄弟となる北条泰時(1183~1242年)に着き、佐々木氏一門の結束はならなかったようである。

百済寺の紅葉



佐々木信綱は、宇治川を挟んで対する官軍を攻め、北条泰時の長男時氏(1203~1230年)の援軍と共に急流の宇治川を渡り、この渡河が幕府軍勝利のきっかけとなっている。

佐々木信綱は、37年前に叔父高綱が果たした同じ宇治川で、佐々木氏として二人目の先陣を果たし、幕府軍勝利のきっかけと子孫の繁栄をつかんだのである。

百済寺



これにより乱の大勢は決し、官軍に属した長兄広綱は斬首となり、翌年信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江の地頭職、その後1232年に近江守となっている。

西明寺の南天



乱の後に程なく亡くなった北条義時のあと執権職となった北条泰時は、承久の乱の戦いでの戦友で従兄弟となる佐々木信綱を優遇したようで、信綱は佐々木氏の総領となって京都に近い大国近江全土を領有したのである。


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