8世紀はじめ頃の岸和田市八木郷一帯は、例年旱魃に悩まされていたが、僧行基が朝廷の高官であった橘諸兄のバックアップによって灌漑用のため池「久米田池」を築造したと言われている。
現在の久米田池(今も大阪府下最大のため池)
池の建設は、725~738年とされているので、橘諸兄が右大臣となる14年前の41歳頃、行基が57歳頃から着手された事業であった。
橘諸兄(684~757年)の母親は、県犬養三千代(不詳~733年)で、葛城王(後の橘諸兄)を産むが、後に藤原不比等(659~720年)と再婚し、安宿媛(701~760年)を産んでいる。
久米田池(右下)、久米田寺(中央)、貝吹山古墳(寺の左)
この安宿媛(藤原不比等の娘)が聖武天皇(701~756年)と結婚して光明皇后となり、以降藤原氏の全盛期に繋がるのであるが、光明皇后と異父兄妹の関係にあった葛城王は臣籍降下し、橘諸兄と名乗っている。
久米田寺金堂
久米田池の工事が終わる738年、橘諸兄は正三位右大臣に任命されて朝廷の中心的地位に昇り、743年には朝廷最高位となる従一位左大臣に昇進している。
光明塚古墳と書かれた標識
行基(668~749年)は、681年に出家して法相宗などを学び、仏教の布教活動の一環として灌漑池や橋、港の建設など多くの社会事業に取り組み、それに付随して多くの寺院を建立したとされている。
久米田寺多宝塔
行基70歳の時に久米田池が完成しているが、このころには社会事業家として相当有名になっていたようで、久米田池完成から3年後には聖武天皇が会見を望み、東大寺大仏造営の勧進をするようにと要請されている。
行基を起用した効果はすぐに現れ、大仏造営は相当スピードアップしたようで、745年には日本最初の大僧正の位を贈られているほどである。
久米田寺看板の案内地図
久米田寺桜門の近くにある案内看板には、「行基墓」「橘諸兄塚」「光明皇后塚」と書かれているが、行基は、大仏造営中の749年に81歳で入滅して生駒市の竹林寺に墓所があり、橘諸兄塚や光明皇后塚も、古墳時代前期末(4世紀中頃)に築造された別人の塚のようである。
橘諸兄塚と表示のある貝吹山古墳(全長135m、後円部直径85m)
また、久米田寺の南には3基の五輪塔があり、地元では中央が聖武天皇、左端が光明皇后、右端が亀山天皇の墓と伝えられているが、これも天皇陵を厳格に管理している宮内庁の看板が無いので事実と違うようである。
3基の五輪塔
3基の五輪塔は、その様式から鎌倉期に建立された石塔のようであるが、800年前の石塔は今では珍しいものなので、これからもしっかりと保存して欲しいものである。
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