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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



高野街道の通る河内長野は、商港堺と高野山との物資輸送で平安鎌倉から江戸時代まで大変賑わっていた街である。



南海電車の河内長野駅から、1時間に1本しかないバスで南西に20分走った山中に天野山金剛寺がある。

金剛寺は、真言宗御室派の大本山で、高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれている。



奈良時代に聖武天皇の勅願により行基(668~749年)が開いたとされ、空海(774~835年)もここで修行をしたとされているので、行基最晩年に建造されたとしても1260年の歴史を誇る古い寺院である。



鎌倉時代の建造という楼門を潜ると、右手に食堂(じきどう重要文化財)があるが、1354年から後村上天皇が6年間政務をしたので天野殿と呼ばれている。



食堂の奥少し高くなった敷地にある「金堂」(重要文化財)は、1178年の創建とされているが、江戸初期の慶長年間(1600年前後)の大修理でかなり改造されたといわれている。



境内の中心にある「金堂」に正対する「多宝塔」(重要文化財)も、平安時代(金堂と同じ1178年頃か)の創建とされ、1600年頃に豊臣秀頼、1700年には徳川綱吉によって修復された記録があるという。



昭和に入った1938年に解体修理が行われた際、我が国最古の多宝塔の形式を持つ貴重な建物であると判明している。

「金堂」と「多宝塔」奥の高台に「五仏堂」、その右に「御影堂」(1179年建立、重要文化財)と「観月亭」、「五仏堂」の左に「薬師堂」が建てられている。



薬師堂の左の山道を少し登ると、杉の大木があり、その奥の広場には求聞持堂がひっそりと建っている。



求聞持堂のある高台から境内を俯瞰すると、金剛寺は観心寺よりも広い境内を持つ寺院であった。



金堂の北側には鐘楼があるが、南北朝時代(1350年前後か)の建築とされる重要文化財である。



河内長野市の山中にある金剛寺は、かつて足利幕府に対抗して、天皇親政を目指した第97代後村上天皇の皇居があった由緒正しい場所なのである。


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