野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



梅雨入りした大阪は、蒸し暑くなってきたが、気温がそれほど高くないので御堂筋の散歩はまだ楽しめそうである。



朝の御堂筋を散歩していると、イチョウ並木の葉が先月までの黄緑から深い緑に変わっていることに気がついた。



御堂筋の中でも難波神社の前は、大都会のど真ん中とは思えない森の中を歩いているような錯覚を覚えるくらいである。



その難波神社をふと覗いてみると、菖蒲神事(あやめ祭)のための花菖蒲が境内に置かれ、菖蒲の花が丁度見頃を迎えていた。



早速、難波神社の狛犬や鳥居を背景にして、大輪の花菖蒲をいくつか写真に撮った。



この難波神社は、以前ブログに書いたことがあるが、文楽にゆかりの深い神社で、江戸時代にはこの神社の境内で文楽が上演されていたらしい。



難波神社では、神紋が花菖蒲であることから、境内で育った花菖蒲を神前に御供えする神事が毎年6月に行われているという。



先日訪ねた城北公園の花菖蒲も良かったが、ビジネス街のど真ん中で季節の花を楽しめるのは、歴史の街大阪ならではの特徴であろう。



ただし御堂筋を歩くサラリーマン、OLの中で難波神社の花菖蒲のことを知っている人は少ないのではなかろうか。



今日は、目の保養をした後で、ゆったりとした気持ちで仕事についたので、午前中の仕事をスイスイと片付けることができた。



昼休みに、御堂筋から程近い靱公園まで散歩をしてみたが、なにわ筋に近い植え込みの中のアジサイが見頃となっている。



靱公園もここまで来ると森の中にいるような場所もあり、何種類かのアジサイがどれも綺麗な花をつけていた。



帰りにバラ園を通ってみると、さすがに殆どバラは終わっていたが、小さな一重のツルバラだけがまだ咲いていた。



5月の連休明けから目を楽しませてくれた靱公園のバラもいよいよ終りであろうか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




花博といえば、バブル絶頂期の1990年、83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した大阪花博が有名である。

プロムナードガーデンから下る階段



大阪花博(国際花と緑の博覧会)は、国際博覧会条約に基づく博覧会国際事務局に登録、認定された国際博覧会であった。

ワイルドベリー



一方、2000年の淡路花博と2004年の浜名湖花博は、会期中3週間以内に限り海外の出展参加が可能で、会期6ケ月以内と限定された国内博覧会である。

アーティチョーク



従って総入場者数は、大阪花博の約2312万人に対し、淡路700万人、浜名湖544万人と大差がつく結果となっている。

センニチコウ



淡路花博記念事業協会は、淡路花博の跡地を夢舞台公苑として公開しているが、その中心となる百段苑の頂上から西に少し歩くとプロムナードガーデンに出る。



プロムナードガーデンは、淡路夢舞台公苑で最も展望が開けた380メートルの細長い回廊風の庭園で、毎年春と秋に開催される「淡路花祭」のメインエリアとなっている。



2002年から2004年にかけてこのプロムナードガーデンを5つの区域に区切り、「国際ランドスケープ&ガーデニングコンペ」が開催されている。

アジサイ



コンペは、ガーデニングからメンテナンス、3年後の植栽の成熟までのプロセスすべてを審査対象とする気の長い大会であったという。

ブロック2の展望台



第1ブロック300㎡は羽生田 朋子さんの作品で、香りの芝生と花壇で構成され、ハーブの庭が見せ場であった。



第2ブロック500㎡は峰松 祐子さんの作品で、風の庭というコンセプトで珍しいススキが多数植えられていた。



第3ブロック500㎡は白髪 アンナさんの作品で、ミニログハウスが置かれたイギリス風庭園であった。



第4ブロック700㎡は、柳原 寿夫さんの作品で、芝生の階段と高台におかれた展望ベンチから海の眺めが素晴らしい。



第5ブロック400㎡は、坂口 正幸さんの作品で、田園や山を流れる小川と水車など日本の風景がちりばめられた庭園であった。



審査結果によれば、第3ブロックがグランプリ、第4ブロックが準グランプリ、第1ブロックが奨励賞、第2ブロックが成長賞、第5ブロックが夢舞台賞と全員が何らかの賞を受賞したようである。



第3ブロックを担当した白髪さんは、グランプリ受賞がきっかけで、国営明石海峡公園の女性アドバイザーに就任されたようである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




花菖蒲の中の肥後系は、江戸系を収集した松平菖翁から肥後熊本に渡った品種が改良されたもので、花の姿が重視されたために鉢植で栽培され、花が大きく、豪華なハナショウブが多い。

雲の領(以下肥後系)



1831~2年、肥後藩主の細川斉護が松平菖翁のうわさを聞き付け、ぜひ熊本でも作りたいと花菖蒲の分譲を申しでている。



菖翁は一旦断わっているが、1833年頃から肥後藩に花菖蒲の培養技術や実生の手ほどきをするようになり、苗も分け与えるようになったという。

西行桜



その時菖翁は、花菖蒲がみだりに広がらないように必ず秘蔵するようにと申し付け、この事が熊本における花菖蒲門外不出の鉄則の始まりとなったらしい。



1845年菖翁の家が火事にあった時、熊本から見舞金が贈られたことに感激した菖翁は、手元にある60品種を全部熊本へ送ったと伝えられている。

淡路島



熊本へ渡った菖翁の花菖蒲が、その後改良され、さらに発達していったのが肥後系花菖蒲で、大正末期に一度だけ門外不出が破られたために日本各地で肥後系のハナショウブを見ることが出来るという。



熊本花菖蒲満月会は、その後肥後系花菖蒲の門外不出を固く守り、菖翁の正統であることを今日に伝えている。

虜生の夢



伊勢系は、江戸中期から伊勢松阪地方で改良されてきた品種で、草丈は低く花茎は葉とほぼ同じ高さまでしかならないのが特徴である。

伊勢千歳(以下すべて伊勢系)



優雅で清楚な趣があり、鉢植えや茶庭の植え込みとして栽培され、女性的、上品、繊細な色彩に、たおやかな垂れ咲きの花形を持っている。



南伊勢は、1619年から明治維新まで紀州藩の飛び地藩領で、藩士が参勤交代で松阪に持ち帰ったり、江戸にいる松阪商人が郷里に植えた花菖蒲を藩士の吉井定五郎(1776~1859年)が改良したのが伊勢系の起りという。

宝の山



吉井は、江戸花菖蒲の中から、花弁が垂れ下がり、狂いのあるものを選び出し、時にはノハナショウブの中から、花の変わっているものを見つけ出し、それらと交配して、伊勢花菖蒲という新しい系統を作り出したようである。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日本各地に自生するノハナショウブの中から、花の色や形に変化のあるものを探しだして栽培するようになったのは、室町時代から江戸時代の始めの頃という。

長井古種の村祭



山形県長井市の南に位置する飯豊町では、室町の頃より、野生種の中から見つけ出された花菖蒲が作られていて、その株が1910年になってから長井市あやめ公園の地に移され長井古種と呼ばれている。

長井古種の日月



現在約30の品種が保存されている長井古種の花色は多彩で、花形は原種ノハナショウブの面影を色濃く残し、野趣にとんだ爽やかな容姿が特徴で、放任栽培にも耐え、切り花や茶花に適しているという。

長井古種の出羽の里



江戸中期以降、花菖蒲はさらに改良され、その主要な地名をとって、江戸系、伊勢系、肥後系に分類されているので、長井古種とあわせて4つの系統があるらしい。

長井古種の小桜姫



江戸系は、主に花菖蒲園向き、肥後系や伊勢系は鉢植えの室内鑑賞向きに発達してきたが、アメリカなどで改良された外国系、カキツバタやキショウブとの種間交配種を含め、現存する品種は2000品種以上にも及ぶという。

めざめ江戸系(以下すべて同じ江戸系の花)



江戸系は、旗本の松平左金吾(菖翁1773~1856年)の時代に江戸で収集改良されてきた品種の総称を言い、庭の池や流れの岸に植え、群生美を楽しむための品種である。

沖津白波



2千石取りの旗本、松平菖翁は、若い頃から花菖蒲を栽培し、江戸麻布桜田町にあった2400坪の邸宅で、60年以上にわたり花菖蒲の改良に取り組んだらしい。

初紅



菖翁が作り出した花菖蒲は、300品種、色彩、花形、草勢ともに様々で、他の品種に比べて性質が強く、一般に高性であるという。

小笹川



この時代、江戸っ子に特に好まれたのが、花弁が垂れず水平に、またはやや抱え気味に開く、「平咲き」や「受け咲き」と呼ばれる花形であった。

小青空



花菖蒲の原種であるノハナショウブの花は、外花被の三枚が垂れているため、花菖蒲の花も江戸時代の中頃までは垂れ咲きの品種が主であった。

小町娘



しかし、垂れる花を好まず、花弁がぴんと水平になるような花形を好んだのは、江戸文化としての「粋」によるものらしい。

潮来の夢



このため明治時代、花菖蒲が海外に初めて輸出された時、外国の人々は花菖蒲のことを「ソーサーアイリス」つまり皿の形をしたアイリスと呼んだという。

遊君



その後、輸出される花菖蒲の花形は、外国人の好みに合わせて次第に大輪になり、それにしたがって花弁が垂れる花が増え、受け咲きの花形は次第に作られなくなっている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪市旭区に、一ヶ月しか開園しない花菖蒲園があると聞いたので、早速行ってみることにした。



JR大阪駅前のバス停から、34系統「守口車庫前」行きに乗って約20分で「城北公園前」に到着である。



バス停を下りて公園に入ると、花菖蒲の形をした噴水が出ている大池があり、その池をまたぐように菅原城北大橋が公園を南北に横断している。



明治中期、1885年に発生した大洪水のあと、淀川の付替工事が行われ、その時の河川敷につくられたのがこの城北公園で1934年に開園している。



鶴見緑地公園の106ヘクタールに比べると、広さ僅か9,5ヘクタールしかないが、城北公園の中には、1964年「淀川にちなんだ水生の植物園」ということで広さ1,3ヘクタールの菖蒲園が開園している。



従ってこの菖蒲園は、開園以来43年の歴史を誇る関西初の回遊式菖蒲園なのである。



この歴史の重みが、開園からまだ17年しか経っていない鶴見緑地公園よりもはるかに素晴らしい花の公園を作っている。



今年の菖蒲園の開園期間は、5月19日(土)~6月17日(日)、開園時間午前9時30分~午後5時(入園は午後4時30分まで)までである。



入場料200円を支払って入った園内には、約250種、1万3千株という花菖蒲が植えられていて、今が丁度満開の時期であった。



花菖蒲と良く似たアヤメ科のアヤメ、カキツバタの違いは、以下の通りであるという。



花菖蒲は、葉の幅は中くらい、湿地か池の水際に生育し、開花時期は5月下旬から6月上旬で花の径は15センチと最も大きい。

江戸錦



アヤメは葉の幅が細く、乾燥した土地に生育し、開花時期は5月上旬から中旬と一番早いが、花の径は8センチと最も小さい。



カキツバタは葉の幅が太く、浅い池の中に生育し、開花時期は5月中旬から下旬で、花の径は12センチと中くらいという。

紅千代鶴



従ってアヤメ→カキツバタ→花菖蒲の順番に時期をずらして次第に大きな花が開花するので、アヤメ科の花は長い期間楽しむことが出来るのである。



それにしても、大阪駅からバスで20分の距離にある花菖蒲園を、たった200円で楽しめるとは、大阪市民は幸せものである。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今から7年前の2000年3月18日から9月17日まで開かれた淡路花博ジャパンフローラ2000は、、会場整備費860億円を投入して、入場者700万人、兵庫県レベルの経済効果だけで2950億円(全国では5288億円)と発表されているので成功した博覧会だったようである。



兵庫県は、この博覧会の後の2001年に「財団法人淡路花博記念事業協会」を設立し、会場となった百段苑、プロムナードガーデン、奇跡の星の植物館温室等を含む28ヘクタールを夢舞台公苑として公開している。

手前の建物が夢舞台



一方国は、国際的かつリゾート感溢れる海辺の園遊空間を創り、全国で11番目のイ号国営公園「国営明石海峡公園」として整備を進めているらしい。

海に近い場所が国営明石海峡公園



国営明石海峡公園は、明石海峡を挟んだ『淡路地区』と『神戸地区』の2地区で計画され、現在淡路地区の公園だけがオープンしているが、この地区の計画面積の約39%となる37、2ヘクタールが現在開園している。

ウェスティンホテル淡路と百段苑



淡路花博記念事業協会が運営している百段苑には、エレベーターを使って途中まで上がることができるようになっていた。



百段苑には、縦横4,5mの花壇が丁度100箇所あり、世界のキク科植物およそ100種が植えられているという。

ヘリクリスム・カンニアヌム(オーストラリア原産)



何故キク科の花を選んだかといえば、兵庫県の花が野路菊であったことと、キク科の花は世界に2万3千種類と最も種類の多い花であるからだという。

ノコギリソウ



百段苑に掲示されている解説によれば、キク科植物は春菊のように野菜や山菜として食用に利用される他に、除虫、薬用、染色と幅広く利用されているという。



百段苑にはピンク、黄色、白などキク科に属すマーガレットが色別に植えられていたが、エレベーターのある塔をバックにマーガレットを接写で撮ってみた。



百段苑の中には、ムギワラギクというオーストラリア原産のカラフルな花が丁度満開であったが、これほど鮮やかな色をしたキク科の花は珍しいのではなかろうか。 




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




光厳、光明、崇光の三上皇は、金剛寺で3年(4年という説もある)に渡る監禁生活の後、1357年に帰京しているが、生活していた場所は、境内北側に北朝行在所として現在公開されている。

北朝行在所の大玄関



拝観料を払って中に入ってみると、三上皇が住んでいた北朝行在所は、周囲を廊下で囲われた陰気な建物であった。



幽閉されていた三上皇が外出できた場所は、行在所の中にある庭か、金剛寺の境内の限られた場所だけであったのではなかろうか。

玉座



北朝行在所の中の庭園は、室町初期に造営されたものであるが、豊臣末期(1590年代)に阿波18万石の城主「蜂須賀家政」が修復改装し、さらに1798年にも再修復されている名園である。



庭園の中にある五葉松は、蜂須賀家政の修復当時植えられたもので、樹齢600年以上と言われているが、先日拝観した京都大原にある宝泉院の五葉松(樹齢700年)に比べるとかなり小さい松であった。



金剛寺は、1354~1359年南朝の後村上天皇の行在所とされ、天野行宮と言われていたが、当時の後村上(26~31歳)は働き盛りで、ここを拠点に足利軍と幾度も戦っているので席の暖まる暇は無かったようである。

つき当たりが後村上天皇の行在所



弘法大師の御影が奉安されている「御影堂」(重要文化財)の東側に「観月亭」という後村上天皇が月見をした御座所が残されているが、ゆっくりと月を見るユトリはあったのであろうか。

つき当たりが観月亭



後村上天皇が政務を執ったのが食堂(天野殿)、住んでいたのは摩尼院書院で、いずれも当時の建築様式を今も伝える重要文化財である。



足利尊氏は、光厳、光明、崇光の三上皇が南朝に幽閉されるとすぐに光厳上皇の第2皇子を北朝4代「後光厳天皇」として即位させ、再び南朝に対抗しているが、三種の神器無しの即位は天皇としての正統性を欠いていた。

三上皇の行在所の内部



従って足利尊氏の晩年となる1352~1357年には、京都に正統な天皇が不在となり、この天野山金剛寺に天皇、上皇全員が滞在していたという日本の歴史上まれな状況があったのである。

北朝行在所



今から650年前、皇居が河内長野にあったという歴史を知っている日本人は少ないのではなかろうか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




後醍醐天皇が南朝を建てた吉野の入り口にあたる賀名生(奈良県五条市)から程近い(約30キロ)金剛寺は、南北朝時代(1336~1392年)の歴史にしばしば登場する歴史上重要な寺院である。



1336年、後醍醐天皇配下の楠木正成軍を湊川で破った足利軍が京都に攻め上ったため天皇は比叡山から吉野に、新田義貞は北陸に逃れて抵抗を続けている。

楼門から入った境内



しかし新田義貞は1338年に37歳で戦死、後醍醐も翌年51歳で病死している。

五仏堂



後醍醐の政権を奪った足利尊氏は、政治を実弟の足利直義(ただよし)、軍事を執事の高師直(こうのもろなお)に全面的に任せたために、二人の対立が次第に深刻化し、1349年には高師直が直義を襲撃する事件が発生している。

薬師堂



足利直義は、尊氏邸に逃げ込んだために間一髪で危機を免れたが、1350年12月に南朝に投降し、南朝軍を率いて1351年2月尊氏、高師直軍と戦い、高師直を殺害している。

五仏堂と薬師堂に続く廊下



1351年10月、今度は尊氏が南朝に降伏したために直義が孤立することとなり、直義は鎌倉で幽閉され1352年2月に病死(毒殺という説もある)している。

求聞持堂



尊氏が南朝に降伏した時、北朝にあった3種の神器を南朝に差出したため、明治時代(1911年)になって南朝が正統とされ、北朝の光厳、光明、崇光、後光厳、後円融の5代の天皇は歴代天皇の系統から除外されてしまった。

南朝の後村上天皇が執務した天野殿



北朝初代の光厳天皇(1313~1364年)は、足利尊氏が九州から東征するに当たっての大義名分となる院宣を与え、嫡男崇光上皇(1334~1398年)の皇后は、尊氏の娘「頼子」であったが、尊氏は娘婿を見放したのである。

築地塀の中が北朝3上皇の行在所



この263年後に、徳川秀忠が娘婿の豊臣秀頼を見放した大阪冬の陣(1614年)が起こったが、秀忠は源氏の先輩尊氏と同じ行動を取ったことになる。

経蔵



足利家が内部抗争をしていた1352年2月、楠木正成の3男正儀(1330?~1389年)等が京都を攻略すると、京都にいた足利義詮は、父親の指示に従い北朝の上皇、天皇を置き去りにして近江に遁走している。

北朝光厳天皇行在所とある石碑



そのため光厳、光明、崇光の三上皇は、南朝に捕らえられて賀名生(奈良県五条市)で2年間(1年という説もある)、金剛寺に移され3年間(4年という説もある)幽閉されたのである。



650年前に歴史の舞台となったことがある天野山金剛寺は、京都や大阪から隔絶した場所にあるせいか、今も昔と変わらない姿を見せてくれている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




高野街道の通る河内長野は、商港堺と高野山との物資輸送で平安鎌倉から江戸時代まで大変賑わっていた街である。



南海電車の河内長野駅から、1時間に1本しかないバスで南西に20分走った山中に天野山金剛寺がある。

金剛寺は、真言宗御室派の大本山で、高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれている。



奈良時代に聖武天皇の勅願により行基(668~749年)が開いたとされ、空海(774~835年)もここで修行をしたとされているので、行基最晩年に建造されたとしても1260年の歴史を誇る古い寺院である。



鎌倉時代の建造という楼門を潜ると、右手に食堂(じきどう重要文化財)があるが、1354年から後村上天皇が6年間政務をしたので天野殿と呼ばれている。



食堂の奥少し高くなった敷地にある「金堂」(重要文化財)は、1178年の創建とされているが、江戸初期の慶長年間(1600年前後)の大修理でかなり改造されたといわれている。



境内の中心にある「金堂」に正対する「多宝塔」(重要文化財)も、平安時代(金堂と同じ1178年頃か)の創建とされ、1600年頃に豊臣秀頼、1700年には徳川綱吉によって修復された記録があるという。



昭和に入った1938年に解体修理が行われた際、我が国最古の多宝塔の形式を持つ貴重な建物であると判明している。

「金堂」と「多宝塔」奥の高台に「五仏堂」、その右に「御影堂」(1179年建立、重要文化財)と「観月亭」、「五仏堂」の左に「薬師堂」が建てられている。



薬師堂の左の山道を少し登ると、杉の大木があり、その奥の広場には求聞持堂がひっそりと建っている。



求聞持堂のある高台から境内を俯瞰すると、金剛寺は観心寺よりも広い境内を持つ寺院であった。



金堂の北側には鐘楼があるが、南北朝時代(1350年前後か)の建築とされる重要文化財である。



河内長野市の山中にある金剛寺は、かつて足利幕府に対抗して、天皇親政を目指した第97代後村上天皇の皇居があった由緒正しい場所なのである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




堺から始まる西高野街道は、平安時代後期から鎌倉時代初期には主要な参詣道として使用されていたようで、室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送で大変賑わっていたという。



その高野街道を、堺から16キロ進むと河内長野で、さらに16キロ進むと高野山の入り口、橋本の街がある。

観心寺講堂



河内長野から賀名生(五条市)へ至る道を4キロ入った場所に観心寺があり、賀名生からさらに東の山中に南朝の本拠吉野がある。

観心寺の絵図



檜尾山観心寺(ひのおざん かんしんじ)の前身は、奈良時代前期(704年)、役小角によって草創された「雲心寺」である。

本願堂



815年、空海がこの地を訪れ、如意輪観世音菩薩を刻んで本尊とし、寺号を「観心寺」と改めているので、観心寺は今では高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山と称している。

観心寺の本格的な伽藍造営は、実恵(道興大師)とその弟子真紹によって行われ、869年の符(公式文書)によると、「実恵が国家のために建立を発願し、真紹が実行したのが観心寺であり、その後も法灯よく護持されている」とある。

道興大師廟



観心寺別当には、河内国の国守をあてるとされているので、河内国の官寺とされ、「雲心寺」からは1300年、観心寺になってから既に1192年が経過している。

鐘楼



1359年には、後村上天皇が天野山金剛寺から観心寺へ遷り、翌年大和に移られるまでの10か月間を過ごされ、1368年に崩御の際には観心寺金堂の東側の山中に葬られている。

宮内庁の掲示



室町以降観心寺は次第に衰退したが1594年、豊臣秀吉が観心寺村を検地のうえ25石を寺に寄附している。

弁天堂



1617年には徳川秀忠が観心寺村内で25石を寄進する朱印状を寺に出し、これ以降、家光、家綱、綱吉と代々の将軍から同様な朱印状が寺に出されている。

阿弥陀堂



その後、1633年の洪水によって、金堂、塔、坊舎など多数が破損したが、1646年御影堂が再建され、1659年阿弥陀堂建立、1665年には金堂の修理が完成、1699年には行者堂が再建されている。

御影堂(中央)と行者堂(右)



明治維新前夜の1863年8月、公卿中山忠光18歳(1845~1864年)を主将とする天誅組が大和五條に打ち入る前に、楠木正成の墓前に詣でたという石碑が、正成の首塚の前に残されている。



堺から高野街道を通ってここにきた天誅組は、中山忠光(明治天皇生母の弟)、土佐の吉村寅太郎(1837~1863年)以下38名であったという。

正成首塚



今から144年前の夏、天誅組の彼らは、この光景を見ていたのである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1334年、後醍醐天皇(1288~1339年)の勅願で楠木正成(1294~1336年)を奉行として金堂の造営が着手されたときに、金堂の東側に正成の寄進による三重塔の造営もあわせて着手されたという。



しかし、1339年に湊川の戦いで正成が戦死したために未完成のままの「建掛塔」として現在に至っているが、今では室町初期の様式を伝える貴重な建築として重要文化財に指定されている。

建掛堂と金堂



建掛塔の東側には、開基の実恵(1774年後桃園天皇から道興大師の号が追贈)を祀る御影堂があるが、現在の建物は1646年に再建されたものである。



御影堂の裏は、道興大師の御廟となっているが、そのすぐ横に楠木正成の首塚がある。



1349年頃に書かれた史書「梅松論」では、戦死した正成の首を見て足利尊氏(1305~1358年)が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還するように指示し、楠木家の菩提寺である観心寺まで運ばしたという。

首塚の上にある古い5輪塔



以前ブログに書いたように正成の墓は神戸の湊川神社にあるが、首だけは観心寺に埋葬されたのである。

首塚前の庭の中央には、石灯籠の上部だけが置かれ、首塚を象徴しているようであった。



庭の奥にある一対の石灯籠は天明6年(1786年)と書かれていたので、楠木正成没後450年を記念して建立されたもののようである。



首塚の南側には、後村上天皇の生母、新待賢門院(阿野 廉子)の墓がある。

阿野 廉子(1301~1359年)は、西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮(皇后)に冊立された際に、19歳で入侍し、やがて禧子を押しのけて後醍醐天皇の寵愛を一身に集めるようになっている。



後醍醐天皇との間に、3人の男子と2人の女子を生み、後醍醐の9男(廉子の3男)であった義良親王は、廉子の望み通り天皇となっている。

1332年には、子供と別れ後醍醐の配流に随行して隠岐に渡り、後に後醍醐と一緒に隠岐を脱出するという行動力を見せている。

配流された隠岐別府の風景



そのせいか建武の新政(1333年)においては、太皇太后、皇太后、皇后と同格とされる准三后の栄誉を授かり、後醍醐と対立した護良親王を足利尊氏と謀って失脚させて殺害し、自分の生んだ義良親王を天皇の地位につけることに成功している。

後村上天皇の御陵



子息であった第97代後村上天皇の陵は、母親の新待賢門院が眠る場所から程近い北側の山中にあったが、天皇と生母がこれほど近い場所に埋葬されているのは珍しいのではなかろうか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




南海電車に乗って難波から約30分で河内長野に到着し、駅からバスで20分くらい走った山中に観心寺がある。



楠木正成の銅像を見ながら山門を入ると、すぐ東側に堀に囲まれた敷地があり、第97代天皇であった後村上天皇御旧跡の石碑が建っている。



後醍醐天皇の第9皇子であった後村上天皇(1328~1368年)は、1359年南朝2代目の天皇としてこの地に約10か月滞在し政務を見ているので、この寺は一時皇居であったのである。

後村上天皇は、1368年に住吉大社で崩御されたが、ゆかりの深い観心寺に運ばれて金堂の東側の山中に埋葬されたので、観心寺の境内には宮内庁が管理する御陵(後村上天皇檜尾陵)がある。



後村上天皇御旧跡の参道をはさんだ向かい側には、中院門と楠木正成ゆかりの寺院である中院があり、ここは楠木家の菩提寺であるという。

観心寺の寺伝の中に、「正成八歳の時より来寓し、院生滝覚坊につき文学を修め、院を距る一里余なる加賀田の郷士大江時親に兵法、武芸を学び、日々通勤して十五歳に至れり」とあり、この観心寺で修行したことを伝えている。



金堂に至る石段の途中には、後村上天皇の勅願によって楠木正成の嫡男、正行が奉行として再建した訶梨帝母天堂(鎮守堂ともいう重要文化財)があった。



石段を登り詰めた場所には、大阪府下では最古の建築物という「金堂」(国宝)がある。

金堂は、後醍醐天皇が建武の中興のなった1334年、楠木正成を奉行として造営の勅を出し、南北朝時代(1346~1370年)に完成したと考えられている。



江戸初期の1613年、1665年、明治以降も1898年、1929年、1984年と幾度も修理が行われているためか、今でもしっかりとした建物である。

1613年の金堂修理の棟札が今も宝物館に展示されているが、奉行「片桐且元」とはっきりと読むことができた。



金堂の東側にある後村上天皇御陵までの山道を登ってみたら、かなり急な石段が延々と続いている。



20分くらい歩いてやっと山の中腹にある御陵に到着することができたが、南朝の天皇であったためにおそらく明治以降に整備されたのではなかろうか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鶴見緑地公園の中には、花博の会場内施設だった「咲くやこの花館」、「いのちの塔」、「国際陳列館」「国際展示 水の館」が現存していて、「咲くやこの花館」と「いのちの塔」は常時公開している。

咲くやこの花館



大阪市パビリオンとして建設された「咲くやこの花館」は、熱帯から乾燥地帯、高山、極地圏までの、さまざまな気候帯の植物約2千6百種、約1万5千株を8つのゾーンにわけて展示している総合植物館となっている。

入り口



折角なので入場料5百円を支払って中に入ると、熱帯植物雨林、熱帯花木、サボテン、多肉植物、高山植物、フラワーホールなどのコーナーがある巨大な建物であった。

ゴクラクチョウ花



中でも熱帯植物雨林のスイレンの花、熱帯花木ゾーンのゴクラクチョウ花、サボテンコーナーの奇想天外、多肉植物ゾーンのバオバブの木などが珍しかったが、入場料200円の京都府立植物園観覧温室には正直負けていると思った。

アロエの木



ヒマラヤの青いケシや熱帯スイレンなどを開花調整し、一年中見られるほか、季節の花も含め約3百種の花を常に楽しめるように開花が調整されている。



1980年代に中国の雲南省で発見された「パフィオペディルム・ミクランツム」という蘭が、高山植物室の低温ケースの中で丁度開花していた。



咲くやこの花館の外に出てみると、共生・共走リレーマラソンというイベントが行われていて、その会場でギターを弾いている人の歌声が、公園でカラオケをやっている連中の声と全く違う張りのある声であることに気がついた。



近くに寄ってみると1968年に「受験生のブルース」をヒットさせたフォークシンガー、高石 ともやさん(65歳)ではないか。

高石さんは、ボランティアとしてこのイベントに参加しているらしいが、シニアランナーとして有名で、2002年にはウイスコンシントライアスロン大会に出場し、60~64歳の部で優勝しているほどである。



また有名なホノルルマラソンには30年連続出場し、昨年は名誉の30番のゼッケンをつけて3時間59分で完走しているので凄い。

さくやこの花館の奇想天外



ちなみに、花博に出展したダイコク電機の企業パビリオン「名画の庭」(安藤忠雄設計)は、京都市左京区の京都府立植物園の隣に移築され今も公開されている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪市営地下鉄の鶴見緑地公園で下り、改札を出て広い道路を渡ると1990年開かれた、国際花と緑の博覧会(花博)の跡地を整備し1972年に開園した鶴見緑地公園である。



(花博)は日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した国際博覧会で、総入場者数約2千3百万人を記録した大博覧会であった。

エントランスにある並木



当初は、大阪市市制100周年事業として、国際博覧会ではなく国内博覧会として開催する予定であったが、当時の国の政策と合致したことから国際博覧会に格上げされ、バブル期と重なった事もあり、民間企業からの寄付金総額は、国内開催の博覧会史上最高となったという。



(花博)の会場面積は、126ヘクタールだったが、跡地は花博記念公園鶴見緑地として整備されたとき現在の106ヘクタールに縮小されたようである。



地下鉄の駅にほど近い現在の鶴見緑地公園は、無料で開放されていて緑豊かな起伏のある丘や、滝、いくつもの池があり、市民のちょっとしたハイキングコースとなっている。

池にはアオサギがくるほど自然が豊か



この日も、106ヘクタールもある公園の木陰で持参した弁当を食べているカップルや家族連れを何組も見かけることができた。

公園の東側には、オランダ風車のある丘があり、風車の周りの畑には季節毎に花が植え替えられているようで、春にはチューリップ、今の季節にはサルビアの花とポピーが満開となっていた。



風車の丘の先には、イギリス庭園風のこじんまりとしたバラ園があり、バラはもう盛りを過ぎていた。



バラ園を通って丘を下ると日本庭園があり、池のスイレンが丁度満開であった。



これほど広大なスイレン池は珍しいので、水面に近いアングルから写真を何枚か撮っておいたが、ここで写真を撮っている人を大勢見かけたのでやはり他の人も珍しいと思っているのであろう。



日本庭園から公園の中心部分にある大きな池まで歩き、東屋に坐って持参した弁当を食べたが、五月晴れの公園で食べる弁当は美味い。

中国館跡



花博の時の外国パビリオン跡地を通って、咲くやこの花館を目指して歩くと、公園のアチコチでは本格的なカラオケセットを持ち込んだグループが気持ちよさそうに歌っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




京都府立植物園「観覧温室」の南には、正門付近の1年草を中心とした四季の草花が鑑賞できる正門花壇があり、その東側には「植物園会館」がある。

オレンジスプラッシュ


「植物園会館」の前には、寿命がきて枯れ死したソメイヨシノが根をつけたまま展示してあったが、1924年の開園当時に植えられたソメイヨシノは殆ど寿命を迎えているのではなかろうか。

光華



「植物園会館」の北側には約300品種、2000株を植栽したバラ園があり、中之島公園の89品種4000株、靱公園の88品種3200株と比べ品種が多いのが特長である。

嵐山



このバラ園は、バラを中心とした造形花壇と噴水や滝のある沈床花壇の人工的な造形美で構成されていて、ヨーロッパにある城主の庭というイメージである。

秋月



又300品種もある京都植物園のバラは、日本で作られた品種が多いのが特長で、京都にちなむ名前のついた株がいくつもあり、大輪の花をつけていた。

万葉



バラ園の中央には、北山門にもあったカナリア諸島原産の「エキウム・ウィルドプレッティー」が密集して植えられていたが、京都植物園ではこの花の種子の保存から、播種、鉢上げ、鉢替え、植え込み、開花に至るまでの栽培技術を既に確立しているという。

八甲田



バラ園のある洋風庭園には北米原産のアメリカシャクナゲも満開で、日本のシャクナゲよりもはるかに派手な花をつけている。



バラ園から気持ちの良いクスノキ並木を通って東側にある「かきつばた園」に出てみると、八橋のかかった池の中にかきつばたが咲いている。

魅惑



「かきつばた」の生育場所は水中であるが、花菖蒲は水際の湿った場所に、「あやめ」は水の無い乾いた場所で生育することで区別できるようである。

芳醇



また開花の時期は、あやめが一番早く5月上旬~中旬、「かきつばた」は5月中旬~下旬、花菖蒲が6月上旬~下旬と種類別に少しづつずれているのが面白い。

宇多野



さらに歩いたところにあった「しゃくやく園」には200品種、1500株の芍薬が丁度満開であったが、バラ園でバラの花をたっぷりと見た後なのであまり感動しなかった。



「しゃくやく園」に続いて100種類の珍しい竹を集めた竹笹園を通って北山門まで戻ると京都植物園を丁度一周したことになる。

大文字



それにしても、天気が良ければもっと綺麗な写真がとれたのであるが、来年までの楽しみとしておこう。

丸山



貴船




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »