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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊臣秀吉に家臣として仕えていた建部氏は、江戸時代に入っても引き続き尼崎郡代として700石を所領していたが、1615年大坂の役で建部政長(1603~1672年)が軍功をたて、1万石の大名に取り立てられている。

建部氏の長久を願って命名された長建寺の山門



当時の建部政長は、僅か12歳という若さだったので、相当しっかりした補佐役がいたのであろう。

外様大名を大阪に近い尼崎に配置するのが問題視されたのか、初代尼崎藩藩主となった建部政長は、1617年になって播磨国林田藩(姫路市)1万石に転封となっている。

長建寺の前には弁天浜の看板



建部政長の次男が建部政宇(まさのき1647~1715年)で、1670年建部家を相続して、従五位下内匠頭に叙任され、1698年には51歳で伏見奉行となっている。

長建寺の参道



交通の要所である伏見に置かれた伏見奉行は、遠国奉行の中では唯一大名が就任することがある役職で、初代は茶人として有名な小堀遠州である。

建部政宇は、1714年に寺社奉行として栄転するまで16年間も伏見にいたので、1701年の浅野内匠頭の切腹、赤穂藩断絶、1703年の赤穂浪士の討ち入り事件をこの地で仄聞したのであろう。

長建寺の赤い土塀



濠川に近い長建寺は、1699年に伏見奉行の建部政宇が深草大亀谷の即成就院から塔頭多聞院を分離して創建した真言宗醍醐寺派の寺である。

周囲を赤い土塀で囲まれた長建寺には、珍しい様式の竜宮門があり「島の弁天さん」と呼ばれ、本堂には本尊の八臂弁財天が安置されている。



インドでは、水の神として尊崇されている弁財天は、河川が神格化したものといわれ、江戸期には淀川を往来する廻船の守護神としての信仰を広く集め、今も毎年夏になると弁天祭がおこなわれているが、広い京都で御本尊が弁財天という寺はここしかないらしい。

弁天浜に繋留された10石船



本堂の左手にある閼伽水(あかすい)は、仏に供え参拝する人を清める水で、閼伽(あか)という言葉はインドから来たようである。

水を意味する「あか」の語源は、ラテン語のAquaと同じで、インド語、英語は勿論世界中の言語に広く使われていて、日本の漁師が使う言葉の中にも船の底に溜まった水を出すことを「あかを掻い出す」という。



ところで、吉良を切りつけて切腹させられた浅野内匠頭(1680年に叙任)と、伏見奉行の建部内匠頭(1670年に叙任)と、同時代に二人の内匠頭がいたことになるが、混乱は無かったのであろうか。


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