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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



臨済宗相国寺派大本山の相国寺は京都御所の北、同志社大学と同志社女子大学の間の路地をさらに北に入ったところにある。

京阪電鉄の終点、出町柳から今出川通りを西に約1km歩くと北に同志社女子大、南に御所の今出川御門が見えて来る。



その御門の前の信号をまっすぐ北に入ると、「万年山相国承天禅寺」の総門が見えてくる。



本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石で、足利将軍家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。

参道



相国寺は五山文学の中心地でもあり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身で、現在観光名所として著名な鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣は、相国寺の付属寺院「塔頭」である。

最盛期には東は寺町通りから西の大宮通りまで1500m、南は一条通りから北の上御霊神社との境までの1000mが相国寺の寺域であったらしい。



室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを1382年に発願し着工され10年後の1392年竣工しているが、2年後には火災で全焼、さらに足利義満没後の1425年にも再度全焼している。

鐘楼



応仁元年1467年には応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失し、1551年には管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて、4回目の焼失があったという。

1584年、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進め、現存する重要文化財の法堂(はっとう)はこの時期に建立されている。



相国寺の場所が市街地の中心にあるせいか、京都市中で火災がおこるたびに類焼が続き、1620年と1788年の火災では法堂以外のほとんどの堂宇を焼失したという。

法堂



応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、かつての土台だけが残っており、現存する法堂以外の伽藍は19世紀はじめの文化年間の再建である。


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