野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



谷町筋からは直接生国魂神社の鳥居から社殿に向う本参道とは別に千日前通りから北門坂を通る北参道がある。



北参道から生国魂神社に入ろうとすれば、かなり高い石段を登ることになり、この北門坂をからは、石垣で囲まれた生国魂神社の境内が谷町台地西の高台にあることが良く判る。



この石垣は18世紀末に出版された摂津名所図会にもあるので、恐らく秀吉が寄進した当初からあったのでなかろうか。



となればこの石垣は、江戸初期に建設された大阪城の石垣よりも古い421年の歴史を有していることになる。



その石段の脇に官幣大社生国魂神社という石碑と、万延元年(1860年)の石灯籠が建っている。

北門を入り、境内北側を西の奥に向うと、城方向(きたむき)八幡宮、鞴(ふいご)神社、家造祖(やつくりみおや)神社、浄瑠璃神社が仲良く東に向って並んで鎮座していた。



城方向八幡宮は大阪城鬼門の守護神として祀られていた八幡宮、鞴神社は刀匠、製鉄、金物、機械工具業界の神様、家造祖神社は普請造作の神様、浄瑠璃神社は文楽関係物故者の神様という。



以上4社の南側には鴫野神社、源九郎稲荷神社、稲荷神社の3社が並んでいる。



鴫野神社は、もともと大坂城外の鴫野弁天島にあった淀君ゆかりの「弁天社」が、1877年にこの地に移され女性守護の神として祀られたという。



源九郎稲荷神社、稲荷神社は商売繁盛の神様で、赤い鳥居の前にあった石灯籠には宝暦3年(1753年)の銘があった。



境内北側には井原西鶴像があるが、西鶴は1680年「生玉神社南坊」で一昼夜四千句を独吟興行したというからすごい。



西鶴像近くの北向八幡と彫られた石造手水鉢には元禄11年(1698年)とあったので西鶴興行の18年後にここに置かれたのであろう。



又、境内には最近建立された上方落語の祖といわれる米沢彦八の碑があるが、京都の露の五郎兵衛によって始められた落語を生国魂神社を舞台に大阪に広めた人という。



最近になって若手落語家による「彦八まつり」が盛大に催しされるようになったらしい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )