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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京福電鉄の北野白梅町から西大路通りを北へ5分くらい歩くと、道路の東側に平野神社の赤い西の鳥居が見えてくる。



平野神社の社域は江戸時代初期に再建された社殿を中心に、方約150メートル、8000坪の社の森に囲まれ、特に春の桜が有名である。

西の鳥居を潜るとすぐに桜園となっていて、ここには名木、珍種など約50種類400本の桜樹があるという。



参道を道なりに北に向うと絵馬堂の前の広場に出て右に東鳥居、左に楼門がある。



楼門を潜ると真正面に拝殿、その奥に東向きに建てられた本殿があり、平野神社は本殿、拝殿、楼門、東鳥居が直線上に配置されている珍しい建築様式であった。

このことから、かつては東の狭い平野通り側が神社の正面であったのではなかろうか。

拝殿



4棟が並列に並んだ本殿は平野造りと呼ばれており、国指定の重要文化財で、第一は今木皇(いまきすめら)大神、第二は久度(くど)大神、第三は古開(ふるあき)大神、第四は比賣(ひめ)大神という。



平野神社は桓武天皇の平安京遷都にともない、794年に平城京の田村後宮から現在の地に遷祀され、859年に正一位に叙されている。

その後平安時代には源氏.平氏をはじめ、高階氏、大江氏、菅原氏など皇室を直接の先祖とされる氏族の氏神として平氏政権や源氏の歴代将軍からも手厚い保護を受けていたらしい。

樹齢400年という楠木



平安中期には朝廷から奉幣を受ける二十二社の最高ランク「上7社」(伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、伏見稲荷、春日)の第5位に選ばれて、歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録している。

ちなみに大阪の住吉大社は「中7社」、平野神社のすぐ近くにあり広大な敷地が残る北野天満宮は「下8社」に位置づけられている。

南から見た拝殿



応仁の乱の頃から朝廷や貴族の保護がなくなり、慶長年間(1596~1615年)には社領も失われ社殿、社地は荒れ果てたと記録されている。

しかし寛永年間(1624~1644年)に平野神社の社寺伝奏となった西洞院時慶の努カにより皇室、公卿、徳川、島津、伊達家等の援助を受けて1625年に南の本殿2棟、1632年には北の本殿2棟が再建されている。



西洞院時慶は神社の社地に桜を植え、その後も西洞院家と歴代宮司がこれを受け継いで、「平野の桜」が御室、嵐山などと並ぶ都を代表する桜苑になっている。

南門



明治維新の後、明治4年(1871年)には官幣大社にも列せられているが、他の有名神社に比べると社域も狭く地味な存在である。

恐らく他の神社よりも京の中心に近い場所にあったため、戦国期に徹底して破壊されてしまったのであろう。


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