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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪駅を朝7時45分の新快速に乗り、京都で山陰線に乗り換えると二条駅には8時40分くらいに到着である。



そこから二条城の東大門までブラブラ歩き、二条城の中に入ったら丁度9時くらいであったが、既に観光客が大勢押しかけている。

唐門から直接二の丸庭園に入り、二の丸御殿の奥にある白書院の前から西へ折れると本丸を囲む内堀に出た。



内堀に架かる東橋を渡ると櫓門があるが、門の背後の巨大な石垣を見ると櫓門の上にはかなりの規模の建造物があったようである。



櫓門を入ると高い石段を登ることになるので、本丸の敷地は内堀の外よりもかなり高くなっていた。



又、櫓門も東大手門と同じように門の正面に築地塀があり、左に大きく迂回してから本丸庭園に入る構造であった。

この本丸部分は家光の時代になってから拡張された区域で、家康の創建時の天守は『洛中洛外図屏風によると二の丸北西部分にあったという。



二の丸にあった家康創建の天守は家光の代に撤去され、拡張築造した本丸の南西隅に伏見城の天守が移築され本丸天守とされたらしい。

通常、城の天守は本丸の中央にあることが多いが、二条城天守は内堀の南西隅にあるのが珍しい。

西橋から見た本丸天守の石垣



徳川幕府は幕府創設以来、西日本の外様大名を警戒していたので、敵は南西から襲来すると考え、南西が見渡せる場所としたのかも知れない。

この五重の本丸天守は取付矢倉と小天守が付属する複合式天守であったが、1750年に焼失し、以降再建されていないので内堀からの高さが21mもある天守台の石垣のみが残っている。



段差の大きい石段を大股で頂上天守台まで上ると、445㎡しかない敷地から内堀まではかなりの高さがあるが、今では外堀にある樹木が生長してその外側を見る事ができない。

天守台広場



天守台を下りた所にある本丸庭園は、家光が本丸を創建したときから存在していたと考えられているが、1788年の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓と共に延焼して荒れ地となったらしい。

天守台から南側を見る



幕末になってから本丸内に徳川慶喜の居室が建てられた際、本丸庭園は一旦茶庭風に作られたというが、1881年に取り壊されて再び空地となっている。

天守台から西を見る



1895年になって明治天皇が本丸に行幸された際に荒れた庭園の改造を命じ、1896年ようやく現在の芝庭風築山式庭園が完成したという。

明治期に再建した本丸御殿と芝の庭園



従って本丸庭園は築後100年少々、京都の庭園としてはかなり新しいものである。


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