職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

主任が「田原総一郎」になれ! 最近、教育界にこの田原的人間がいなくなった。教育再生会議もそうだ。

2007-05-18 10:01:47 | Weblog



■本日も「○日~○日まで、試験問題作成期間のため、ご来校のみなさまは校長室にお入りください」という立て札の影響か、来校者が少ない。

 きょうは、生徒が忘れた検尿を届けにきた保護者1名、メール便業者1名、高校関係者(進路)1名、PTA役員1名、はんこ屋さん1名。

 試験問題作成で大忙しなのだしィィ~、職員室に自由に入れないのなら用は足せないしィィ~、職員を校長室に呼び出してもらってじゃ、めんどうだしィィ~、じゃ、今度にするかァァ~という、いわば自己規制が働いているのだろうが、なんだか地域社会から隔絶され、ポツンと我れひとり孤立している?感じがしてくる(^_^)v。

■先日、水本徳明氏の講演で、氏が述べた「教育の質に関わる危機こそが本質」ということから、自分の教育的魂?の位置が数ミリずれるくらいの衝撃を受けた……という話をした。

 そのつづきだが、水本氏からはもうひとつ価値ある示唆を受けている。
 それは、職場のディスカッション能力をアップすることが、危機管理能力のアップにつながるという指摘だ。
 これは同感である。
 わたしも同じ認識をもち、その能力アップのために、いくつかの試みを実践してきたのだが、わたしのものとは比較にならない水本氏の圧倒的な実践に敬意を表したい。

■わたしの実践だが、今年の1月の教育課程編成会議で、前教頭の四戸康彦Tと相談して、TV「サンデープロジェクト」の司会者である田原総一郎的手法を取り入れたみた。
 そのときのテーマは「学力の保証を実現する補習のあり方」だった。
 一歩引いた教育的&NHK的司会者になるのではなく、司会者自身が前面に出て、相手に対してどんどんきりこんでいく。

 「そんなことを言えば、世間からこう言われますよ」
 「要するに、あなたは補習をやるのですか? やらないのですか?」
 「その程度の補習だとほとんど効果がないと○○Tが言っていますよ」
 「そうでしたね、○○T。今の意見に対してどうですか? ダメだと言ってくださいよ」
 こうして質問をなげかけながら、あいまいな部分をそぎ落としつつ、反対派と賛成派を単純明快に分類し、あるときは一方をつぶす、あるときは互いに譲らず喧々囂々のなか番組が終わる。
 これが田原流だ。

 ま、わたしたちの場合、議論を視聴者にみせるのが本旨ではないから、一方がつぶれてしまうのはいっこうにかまわないけれど、喧々囂々、時間切れというのは、やはり困る。
 きりこみつつ、状況と課題を整理し、明確にしていく。
 これは田原と同じだ。
 そのうえで反対なのか? 賛成なのか? 自身の立場をはっきりさせる。
 これも田原と同じだ。
 しかし、次が異なる。
 実際の現場では、この田原流に加えて、当然のことだが、反対・賛成の両方をアウフヘーベンさせて、新しいステージに至ろうとする、いや、至らしめる芸当、神業、離れ業、荒業、寝業が、要するに真の意味で、高いコミュニケーション能力が求められる。
 次の職員会議のある場面で、再びこの「芸当、神業……」が試される。 
 楽しみだぜ、SZK(^_^)v。

■ここで「ディスカッション能力」の話題から外れる。
 断っておくが、わたしは田原の思想にはまったく興味はない。
 しかし、あのやりくちは好きだ。
 蛇足だが、わたしは主任会のメンバーに、いつも「バカ者同士が、かばいあったり、なぐさめあったりして、仲良くやっているような部会にしてほしくない(そんなことではこの教育界の今の苦境を突破できないよぉぉぉ!)」と言っている。
 これは言い換えれば、主任が「田原」になれ!ということだ。
 最近(特にここ数年)、教育界にこの田原的人間がいなくなった。
 教育再生会議もそうだ。
 臨教審にくらべて教育再生会議がいまひとつパッとしないのは、臨教審には存在した田原的人間が、教育再生会議にはいないというのも理由のひとつだ。

[2007年05月18日(金)]

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