万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

陰謀説とは合理的な作業仮説では

2024年04月18日 13時01分36秒 | 日本経済
 自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、いかなる学問分野にあっても、研究とは、事実(真実)の探求に他なりません。もっとも、事実の探求やそれの証明の仕方や手法には違いがあり、自然科学の場合には、観察結果や実験によって証明するという方法が採られます。自らの唱える説は、事後的に他者によって再現性が確認できれば、事実であることが客観的に証明されます。演繹法であれ、帰納法であれ、自然科学の証明方法は極めて合理的、かつ、明晰ですので、近代以降、学問に‘科学’を付すときには、仮説の提起、観察や実験によるデータの収集(今日の実験は、コンピューターによるシミュレーションの場合も・・・)、データの分析・解析、仮説の真偽の検証というプロセスを伴う研究手法を意味することとなったのです(帰納法の場合には、最初に現象の観察が置かれる・・・)。

 観察機器や実験装置の長足の進歩もあって、近代とは、まさに科学の時代とも称されるのですが、社会科学の分野にあっても、自然科学の分析的な手法を取り入れる動きが強まります。早くも19世紀にあって、カール・マルクスの盟友であったフリードリッヒ・エンゲルスは、その著書『空想から科学へ』において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、シャルル・フーリエなどの社会主義の理論家達を理想論者として批判しています。そして、とりわけ第二次世界大戦前後にあっては、アメリカを中心に、よりシステマティックで分析的な研究方法が広がったのです。かくして社会科学における科学的手法の導入は、一見、政治学を合理化し、発展させたようにも見えるのですが、現実の政治の世界は、未だに非合理性に満ちているように思えます。

 それは、‘過去や現在において人間が行なった、あるいは、行なっている事実の解明’という、政治学や歴史学において特有となる研究課題において顕著となります。人や集団は自らの意思や目的をもって行動しますので、事実を突き止め、何が起きた、あるいは、起きているかを正確に理解するためには、これらの行動主体やそれらが抱く目的を明らかにしなければならないのです。こうした意思や目的の解明と言った作業は社会科学に固有のものであり、それらが人々に与える影響が大きいほどに、その解明は、人類にとりまして重大な課題となりましょう。

 同課題の重要性に照らしますと、今日の状況は、退行的ですらあります。例えば、昨今、政治の世界において起きた不可解な事件や出来事については、その不審点や辻褄の合わない点を指摘しただけで、‘陰謀論’として嘲笑される風潮があります。自然科学にあっては、何らかの既存の知識では説明できない現象や事象が観察されますと、詳細に調査した上で、先ずもって、その現象が起きる原因を合理的に解明するための仮説が提起されます。自然科学においては、当然のアプローチであり、これを愚かで非合理的な態度と見なす人はいません。ところが、政治の世界では、不可解な現象を素直に不可解と見なし、その原因や因果関係などを仮説として提起しても、‘陰謀論’として頭ごなしに否定されてしまうのです。

 合理的な根拠(矛盾や物理的な不可能性・・・)に基づいて推論として陰謀や謀略の実在性を主張することは、科学的な論証のプロセスにおいては、作業仮説に当たります。不可解な諸点は現実に観察されているのですから、それを合理的に説明することのできる仮説を提起することは、科学的なアプローチなはずです。たとえ情報の隠蔽や捏造等によって現時点では証拠を示すことができなくとも、やがて明らかとなる日が来るかも知れません。その間は仮説のままであったとしても、事実である可能性の高い仮説が存在し、人々がそれを意識していることがリスク対策の上でも重要なのです。

 科学の時代を称しながら、その実、今日の政治を取り巻く状況は、合理的で科学的なアプローチを許さず、政府やマスコミの見解や公表内容を疑うことなく‘信じる’ように強要されているかのようです。人々が‘事実を知る’ことよりも、‘事実と信じさせること’に力点が置かれているのですから。そして、‘信じない者’に対する迫害は、中世の異端審問にも通じるのです。

 なお、この点、上述した『空想から科学へ』におけるエンゲルスの科学に対する認識に、既にこの問題の萌芽が見られます。エンゲルスは、マルクス主義を擁護するために、ヘーゲルの弁証法が分析的であることを理由に科学的手法として評価したに過ぎないからです。しかしながら、ヘーゲルの弁証法そのものが観念的な運動法則の図式である以上、今日的な視点からは科学的とは言えず、‘空想から空想へ’、あるいは、‘空想から信仰へ’という表現の方が相応しいとも言えましょう。過去の歴史から普遍的な運動法則を見出し、未来にまでそれを適用しようとすれば、絶対法則に反する事象は全て否定されるか、無視されてしまいます。国家イデオロギーにまで昇格した主観的法則の絶対化は、今なお、共産党一党独裁体制をもって多くの人々を苦しめていますが、自由主義国における‘陰謀論’に垣間見える‘支配者’の精神性も、似たり寄ったりなのです。

 現代という時代は、先端的なテクノロジーとしての科学は飛躍的に進歩しながら、物事の探求において基本となる‘科学的な論証方法’については冬の時代と言えましょう。そしてそれは、人類の精神性や知性の発展を著しく阻害し、国家レベルであれ、国際レベルであれ、未来に向けた善き社会の構築を妨げているのではないかと思うのです。

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