万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

フランシスコ教皇の危ない政治性

2019-12-08 15:28:33 | 国際政治
先日、カトリックの頂点の位に位置するフランシスコ教皇が日本国を公式訪問いたしました。訪日目的の一つが‘核ない世界の実現’であったことは、同教皇が被爆地である広島と長崎を主たる訪問地として選んだところからも分かります。キリスト教から発する平和主義という観点からすれば、核は平和に対する重大なる脅威なのでしょうが、核兵器は各国の防衛、並びに、安全保障と直結する問題ですので、ローマ教皇は、政治分野に踏み込んでいることとなりましょう。

 もとよりキリスト教には政治と宗教とを分ける‘二剣論’があり、『新約聖書』には‘神のものは神に、カエサルのものはカエサルに’と記されています。この言葉は、凡そ‘宗教は人々の心を救うことをその使命としているのであって、政治に関することは世俗に任せよ’という意味であって、キリスト教は、近代のフランス革命を待つまでもなく政教分離を原則としています。同原則に原理主義的に従えば、山頂や岩山といった世俗から隔絶された場所に建てられた修道院に籠もってひたすらに神に祈りを捧げるだけの生活が最も正しいキリスト教徒としての生き方となるのですが、これでは、全知全能なる神を信じて心清くして生きることを人々に説き、現世にあって苦しむ人々を救うという役割を果たせなくなります。また、苦しみの原因が悪政など統治にある場合もありますので、真に人々を救おうとすれば、否が応でも世俗に関わらざるを得なくもなります。つまり、キリスト教は、教義とその実践との間に解き難い矛盾を抱えつつ今日に至っているとも言えましょう。

 何れの宗教も多かれ少なかれこうした二律背反性を抱えてはいるのですが、歴史を振り返りますと、ローマ帝国の滅亡後に教会組織のみが生き残り、統治機能の一部をも担った歴史の偶然もあり、原則としての二剣論にも拘わらず、キリスト教、否、教会は、政治な分野にも関与してきました。しかも、教会には、神の権威を後光の如くに背負うことができますので、キリスト教世界では人々に対する影響力も俗人の比ではありませんでした。このため、教会が積極的に政治的活動を行う場合もあれば、世俗の権力者に利用されることもあったのです。特に、ローマ教皇は、何れの国益をも代表せず、神の名の下で善を求める中立公平な存在とみなされていたため、国際社会において国益の利害調整を担う調停役をも期待されていました。

 それでは、現代という時代におけるフランシス教皇の政治的な立場とは、どのようなものなのでしょうか。日本国内のメディアでは、第二次世界大戦末期に日本国が時の教皇に終戦に関する斡旋を依頼していた事実を根拠として、教皇との外交的な関係を強化すべきとする意見が聞かれます。この意見は、教皇に対して中立公平な調整役を期待してのことなのでしょう。しかしながら、教皇は、資金集めが目当ての贖宥状の販売が宗教改革を招いたように自らの‘教会益’のために行動することもありますし、神が具体的な政策を詳細に亘って指示するはずもありませんので、たとえ‘神による人類の救い’を究極の目的に掲げていたとしも、これでは抽象的に過ぎ、手法をめぐる対立は避けられません。日本国におけるフランシス教皇の発言も、カトリック信者には絶対的な言葉であっても、それ以外の人々にとりましては、多々ある意見の一つに過ぎませんし、それが、特定の政治的スタンスや利益と結びついているならば、‘神の言葉’と見なすのはリスク含みとも言えるのです。

とりわけフランシスコ教皇は、核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞したオバマ前大統領との親交も深く、両者は、政治的信条を共にしているようにも見えます。また、香港の民主化運動についても対中批判的な言及を避け、‘私は中国が好きだ’とも発言しています。フランシス教皇は、カトリック史上初めてのイエズス会出身ですが、イグナチウス・ロヨラが創設した同会は、神と云うよりも教皇への絶対忠誠を誓った軍隊を模した組織です(黒マリアに誓いを立てたとも…)。イエズス会を出身母体とするフランシス教皇にとりましては、自らが絶対者になるのですから、教皇と云う地位は格別な意味を持つのでしょう。奇しくもフランシス教皇と中国の習近平国家主席はほぼ同時期にそれぞれの組織のトップの座に就任しております(前者は2013年3月13日、後者は翌日の14日…)。絶対主義的な独裁体制を好むという点においても、両者には思想的な共通性があるのかもしれません。そして、オバマ前大統領も親中派の大統領であったことを想起ますと、これらの要人達の背景には、何らかのリベラルな国際的な政治勢力の存在が推測されるのです(日本国の皇室も?)。

フランシス教皇の中国贔屓の背景には、アジアにおいてカトリック信者を増やしたい‘教会益’の存在が指摘されています。宗教革命後に逸早くアジアに布教の場を求めた戦国期の宣教師たちとその目的においては一致しているのかもしれませんが、両者には大きな違いがあります。後者は、如何なる迫害にも恐れず、殉教を覚悟してアジアに赴きましたが、時代は変わり、前者は、日本国での歓待のみならず、フィリピンといったカトリック教徒の多い国では熱狂的な大歓迎を受けています。そして、キリスト教を認めず、異教徒に対しても暴力的手段で迫害を繰り返す中国政府に対して、それを咎めずして教皇が笑みを浮かべる姿は、悪との妥協と云う意味において(日本国がキリスト教を厳しく取り締まった理由には、伴天連等による奴隷貿易や武器弾薬の取引など、相応の理由があった…)、臆するところなく‘踏み絵’に足を置く棄教者(棄善者?)とどことなく重なっても見えてくるのです。核についても、中国や北朝鮮といった暴力主義の諸国が核を保有する中で、他の諸国に核の全面的な禁止を薦めれば、前者に対して圧倒的に有利な立場を与えることになるのですから。

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