万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘グローバル化の波’の呪縛こそ脱すべき固定概念では?

2018年06月30日 15時05分42秒 | 国際経済
 本日の日経新聞朝刊の一面は、日本企業の役員報酬にも‘グローバル化’の波が押し寄せ、「1億円プレーヤー」が500人を越える現状を伝えていました。上位10人の内、5人は外国人ですが、その理由は、グローバル化競争を強いられる企業は、「プロ経営者」と呼ばれる外部人材を登用せざるを得ない状況に追い込まれているためと説明されています。

 役員報酬を高く設定することこそ、恰も当然の既定路線の如くに扱っているのですが、‘グローバル化の波’に呑まれなければならない、というその考え方こそ、実のところ、根拠なき固定概念ではないかと思うのです。何故ならば、役員報酬を高くすればするほど、比例的に高い経営パフォーマンスが実現するとする説は、信憑性が薄いからです。

 日本企業よりも桁違いに役員報酬が高いアメリカ企業を見ましても、必ずしも全ての企業が経営に成功しているわけではなく、むしろ、高すぎる役員報酬が問題視されるに至っています。著しい報酬格差は他の一般社員の労働意欲を削ぎますし、自社に対する帰属意識や愛社精神も低下させます。海外企業の社員は、”職業とは生活に必要となる所得を得るための手段でしかない”と割り切っているのでしょうが、‘働く’ということが、人々の活動時間の大半を占めている以上、個人主義に徹し、役員と一般社員との間に高い垣根を設ける‘グローバル・モデル’というものが、人類にとって必ずしも最適な企業モデルであるとは言えないように思えます。しかも、社員への利益還元が低い状態では、個人消費も伸び悩みますので、経済の連鎖性が働いて企業自身もめぐりめぐってマイナス影響を受けます。

こうしたマイナス点を踏まえますと、日本企業の役員報酬上げは、いわば、周回遅れの失敗策となる可能性も否定はできません。日本モデルでは、終身雇用や正社員主義等に加えて、企業内部における報酬格差の小ささが社員間の連帯性を強め、全社員の目的の共有が各自の意欲を引き出すことで、組織としての強みを発揮してきました。もちろん、‘村社会’と揶揄されてきたように、連帯性や協調性を尊ぶ企業共同体的な日本モデルにも欠点がないわけではありませんが、必ずしも、‘グローバル・モデル’よりも劣っているとは言えないはずです。仮に、日本モデルが’ダメ・モデル’であるならば、今日、経済大国とはなり得なかったでしょうし、むしろ、‘グローバル化の波’に同調し始めてから日本企業は自らの強みを失い、日本経済の衰退も加速化しているようにも見えるのです。

‘グローバル化の波’とは、一見、開放性が強調されるために、より自由な世界へと人々を誘っているかのようですが、その実、他のモデルを追求するのを許さないという硬直した不寛容性があります。グローバル・スタンダードに関連して指摘されるように、画一化された規格や基準が最適ではない場合、一体、どのようにしてより優れたスタンダードに移行するのか、という問題にしばしば直面するのです。自由な競争状態が確保されていれば、より優れた方の採用が拡大したり、新たな参入者の挑戦を受けてスタンダードが変更されることもあり得ますが、一旦、グローバル・スタンダードが確立し、不動の地位を得てしまいますと、そこには自ずと独占問題が発生するのです。

自由を標榜してきたはずのグローバル化が自由を失わせるという深刻な矛盾を直視すれば、日本国は、むしろ、企業モデル間競争を通した経済の伸びやかな発展のためにこそ、日本モデルを維持する、あるいは、欠点を是正しつつ長所を生かして改良し、その良さを世界に向けてアピールしてゆくべきではないかと思うのです。この考え方は、競争メカニズムに照らしても是認されますし、脱するべきは、‘グローバル・モデル’を唯一絶対の企業モデルとみなす硬直した思考なのではないでしょうか。

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コメント (4)
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