万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

二つの正反対な「上から目線」-大切な「上から目線」もあるのでは?

2018年06月05日 15時06分59秒 | 社会
昨日6月4日の産経新聞朝刊の正論欄に、社会学者の竹内洋氏による「「上から目線」は厄介な殺し文句」とする一文が寄せられておりました。氏は、階層間の流動性が止まってしまった今日という時代にあっては、上下関係を前提とした上位者の優越意識からくる発言や態度は、「上から目線」という言葉一つで葬り去られてしまうと述べています。

 同論説の基本的な論調としては、こうした世間一般で見られる現象に対して理解を示しつつも、どちらかと言えば批判的であり、特に、‘厄介な殺し文句’と表現されているように、反論を許さない言葉の力に対して警戒感を滲ませています。「上から目線」という言葉は、タテ社会が形骸化し、権力や権威の座にある者がそれに伴う義務を果たさなかったり、高い地位に相応しい行動をせずに不正や腐敗に塗れている現状に思い至れば当然の批判表現にも思えますし、その一方で、氏が示唆するように、如何に正当なる意見や批判、反論であっても、上位のポストにあるというだけでそれを封じてしまうのであれば、言論封殺という忌々しき結果を招きかねません。かくして氏の「上から目線論」論は、この言葉が持つ二面性を浮かび上がらせているという意味で極めて興味深い文章であったのですが、「上から目線」については、もう一つ、留意すべき点があるように思えます。それは、「上から目線」には、上部からの公平な視点と言う意味合いもないわけではないからです。つまり、超越的な視点からの「上から目線」です。

竹内氏の「上から目線」論は、主として、人々の間に上下関係としてのヒエラルヒーが存在していることを前提としており、この構図の不平等性こそが、「上から目線」批判が絶対的な威力を発揮する基盤でもあります。何故ならば、ヒエラルヒーは、全ての者が平等で同格であるとする今日の平等の価値観からは逸脱しており、人と人との間の不平等性を認めるからです。人という存在が本質的に平等を求める以上、ヒエラルヒーは、否が応でも平等感覚に抵触してしまうのです。もっとも、人には特定の基準に照らして違いを認める均衡感覚もありますので、平等感覚のみの絶対化は危うく、この点こそ、同氏が懸念する‘厄介さ’なのかもしれません。

その一方で、上述した超越的な視点からの「上から目線」とは、必ずしも、こうした現実社会におけるヒエラルヒーを前提としているわけではありません。個々の個人的な利害関係や立場を離れたところからの視点は、むしろ、特定の立場に偏らないという意味において、平等や公平という価値観とは合致しているからです。かつて、この超越的な視点は神の視座でもありましたが、今日、無神論者の増加等により、神の存在を前提とした超越的視座の想定に対しては全ての人々を納得させることは困難です。それは、今日、神ならぬ生身の‘人’が超越的な視座を獲得する必要があることを意味しています(超越的視座は、動物には存在しない‘人’の特質…)。

‘人’とは不完全で欠点だらけであり、利己心をも有する存在ですので、この超越的な視点を得ることは決して簡単なことではないのですが、そうではあっても、個々の利益や立場から離れて全体を公平に俯瞰する視線は、特に公に関する物事を考えたり、公的な問題を解決するには不可欠なように思えます。“「上から目線」バッシング”によって、こうした人類の特質でもある超越的視座まで損なわれるとしますと、それは、人類の動物化を意味しかねません。多くの人々が公平なる目線の意味での「上から目線」を育むことこそ、今日抱えている様々な問題を解決する上で大切なことではないかと思うのです。

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