万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多文化共生主義とヘイトスピーチの脅威

2018年06月27日 15時07分06秒 | 社会
 ‘ヘイトスピーチ’というものが一種の言論統制の手段となっていることに、多くの人々が、既に薄々気が付いてきております。そしてそれは、移民の増加に伴う多文化共生主義とセットになることで、既存の社会に対する極めて強い攻撃力を秘めているのです。平等という美名の下で。

 全人類レベルからしますと、人種、民族、宗教等の違いから自らとは異なる集団に属する人々を差別したり、中傷したりすることは、一般論としては平等を良しとする倫理・道徳には反しています。しかしながら、地球上に存在する全ての文化、特に、倫理・道徳を含む社会的文化が同等に尊重されるべきか、と申しますと、そうとは言えないように思えます。

 例えば、今日では既に姿を消したとされてはおりますが、地球上には、無垢な子供達を人身供養に捧げる文化、人食いの慣習を持つ文化、女性を‘物’として扱う文化、あるいは、窃盗や嘘が許容される文化も存在してきました。自らの利益のためには、法の網目を巧妙に掻い潜ったり、他者を上手に騙すことを奨励する文化もないわけではないのです。昔よりは安全になったとはいえ、現在でさえ、治安状況が芳しくなく、渡航には相当の注意や備えが必要となる国や地域はあります。

こうした人類社会に散見される倫理・道徳レベルにおける違いに鑑みますと、‘全ての文化の価値は平等である’とする主張には疑問を抱かずにはいられません。多文化平等主義、否、多文化共生主義に盲点があるとすれば、それは、平等原則を徹底することで、利己的他害性=悪を許容する文化に対してまでも‘寛容’の精神を発揮してしまうことです。乃ち、そもそも人種差別反対という人道的な精神の発露としての平等主義が、その実、人々の生命、身体、財産等を危険に晒すという人道上の逆効果を生んでいるのです。

人種、民族、宗教等の違いによる文化の多様性は、たとえ、道徳・倫理レベルにおいて違いがあろうとも、それぞれの集団が棲み分ける形で定住している場合には、それ程の集団間のトラブルは起きないかもしれません。しかしながら、近代以降、人々が自らの定住地を離れて他の集団の内部に移住する移民が増加しますと、言語や習慣等の相違に留まらず、道徳・倫理レベルにおける違いが深刻な社会問題を引き起こすケースが頻発します。特に、他害性に対して許容度の高い文化を有する移民が増加すると、受け入れ国の治安が悪化すると共に、当該国が多文化共生主義を採用している場合、自国に持ち込まれた加害性許容文化を批判することも許されなくなるのです。ヘイトスピーチとみなされ、取締りの対象とされかねないのですから。

このように考えますと、多文化共生主義を背景としたヘイトスピーチ規制は、受け入れ国と移民、並びに、移民送出し国の両者に対してマイナス要因として働くのではないでしょうか。受け入れ国の国民にとりましては、正当なる批判が封じられると共に、治安の悪化や道徳・倫理レベルの全般的な低下をも受け入れるリスクを負わされます。そして、多様な文化の一つとして‘ありのまま’が許される移民、並びに、その送出し国の側も、自らの道徳・倫理レベルを向上させるというチャンスを失うのです。今日の所謂‘知識人’の大半はヘイトスピーチについて肯定的であり、その態度を以って‘進歩’を自負しておりますが、そのマイナス面を無視する、あるいは、その隠された真の目的を探求しない態度は、知性に対して誠実とは言えないように思えるのです。

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コメント (2)
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