自力整体でいきいき歩き: 狛 雅子

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私にとっての介護  3  魔法と技術のあいだ  「ユマニチュード」

2021-05-04 13:32:40 | 推薦図書


この方の文章(内容)も全て覚えておきたいので全文書き写します。
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魔法と技術のあいだ 白石正明
   ユマニチュードという介護技法がある。
   赤いサロペットを着た人のよさそうなフランスのおじ さんが、
   満面の笑みで「ボンジュ~ル」などと言いながらお年寄りに近づいていくと、
   あーら不 思議、それまで大声を出して怒鳴りまくっていたお年寄りが急に
   笑顔になって、別れ際にはキス までしてしまう、あれである。

   NHKでよく放映されるのでご覧になった方も多いと思う。
   あれは赤いサロペットのおじさん (ユマニチュード開発者のイヴ・ジネストさん) の
   独特なパーソナリティのなせる業であり、「普通の 人には無理じゃね?」と
   思う方も多いと思う。

   五年前にジネストさんらと『ユマニチュード入門』という本をつくり、
   帯に「魔法? 奇跡? いえ技術です。」とデカデカとコピーを付けた手前、
   「特別な人じゃなくても、誰でもできるんだ よ」と言いたくなる。しかし
   本稿では、あえて「半分当たっているかも」という話を書いてみようと思う。

   ユマニチュードについて知ったのは、その本をつくる一年ほど前である。
   フランスで新しい介 護方法ができた、とか、じっと目を見てやさしく触ると
   魔法みたいにケアできるんだ、みたいな 話だった。
   それまで私はDVDも含めていろいろな介護方法を教える商品を作ってきたので、
   何 を今更というのが正直な気持ちだった。

   数日後、あまり気乗りしないまま研修会に参加してみた。すると、どうも
   これまで参加したも のと雰囲気が違う。圧倒的に参加者がウキウキと楽しそう
   なのである。しばらく経って「ああ、 そうか!」合点がいった。

   行為の効果というものは一般的に、「誰が」「どのように」行うかによって
   決まる。それが技術 にかかわることであれば、前者の「誰が」は後ろに引いて、
   後者の「どのように」だけが焦点化 されるだろう。

   こんなことはわざわざ言わなくても、世にあふれるマニュアルを見ればわかる。
   「この技術は正直な人でないと扱えません」なんてことは絶対にないのである。
   属人性というノ イズを排除したところにこそ、技術の技術たるゆえんがあるわけだ。

   しかし、濃厚な身体接触を伴う介護をされる側にとってはどうだろうか。
   しかも、身の回りの 状況がうまく飲み込めない認知症のお年寄りである。
   なによりもまず「誰が」が重要になるのではないか。
   「あの人なら何をされてもいいが、この人には何をされてもイヤ」と。
   ここに、ケア がぐっと人格化してくる契機がある。

   この人格化が介護職を苦しめることになる。トレーニングで改善可能な技術ではなく、
   持って 生まれた人柄的なものがぐっと前景に出てくる。さらに「認知症高齢者にウソは
   通じない」とい う、自分とは違う者に対するある種のオリエンタリズムも手伝ってか、
   介護研修会は「認知症を ネガティブに感じるあなたがいけない!」とばかりに、
   一気に人格改造セミナー化していく場合 さえあるのだ。

   「技術」を教えるユマニチュードにはそんなことはない。
   しかし実際に研修会に参加してみて 気づいたのは、教えるのはあくまでも
   技術なのだが、それがそのまま「その人のことが好きにな る」ように
   構造化されているということだ。

   「最初は感度の鈍い背中から触り、顔は最後に触れ るように」とか。
   「飛行機が着陸するようにすーっと触ってください」とか。
   「手順が大事、いき なりはダメ」とか。まるでフランス式恋愛術のようではないか。
   一言でいえば、快感をベースに した「身体接触技法」なのである。

   快。それは医療の文脈からすればノイズに過ぎない。気持ちよくたって治らなければ
   意味がな いのだから。だからそんな快の技法は、せいぜい患者を治療ルートに乗せる
   ための手練手管、つまり手段として必要とされてきたにすぎない。しかし
    認知症介護では、快は手段ではなく目的になる。暴れるのはその行為が不快だからだ。
   暴言を吐くのはその人が嫌いだからだ。

   だから介護者は、「快を与える人」としてその人の前blueに 現れなければならない。

   ユマニチュードは、そのための技術を提供していると思った。
   研修会では人への近づき方、体 への触り方、声の出し方など、
   どうしたら自らの身体そのものを使って相手に快を与えることが できるかが
   伝授される。

   実は身体接触を含めた快を与える技術は、属人性を嫌うマニュアル文化から
   長らく無視されてきたものだ。さらに性的なニュアンスを含んでしまうため、
   特に日本では 看護教育を含めた学校教育から避けられていた。

   だからある種のエアポケットだったのかもしれ ない。
   「誰が(=人格化/属人化)」と「どのように(=技術化/標準化)」という二つに
   分割されていたケ アの世界に、ユマニチュードはその分割線自体を無効にする
   「「誰が」を含みこんだ身体技術」 という新しい文脈で乗り込んできたように思う。
   そこでは技術がその人の魅力に転化してしまい、
   「誰が」と「どのように」が溶け合ってしまうのだ。

   ここで冒頭の問いに戻る。魔法でなく技術である、というのはそのとおりである。
   なんら秘技 ではなく伝達可能な身体所作だからだ。持って生まれた才能や人柄にも
   依存しない。ただ、いま帯のコピーをより正確に書き直すとしたらこうなるのでは
   ないか。「魔法を宿らせる身体をつく りあげる技術である」と。

   実際の体どうしが触れ合う介護の世界では、机上の世界で当然の前提となっていた
   ことが、あ っさりと乗り越えられてしまうことがある。そこがおもしろい。

しらいし・まさあき 1958年生。編集者。医学書院で看護実務書の ほか、
「シリーズ ケアをひらく」(第七三回毎日出版文化賞)を手がけている


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