当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/210502.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/2(No.1120)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
命に責任を持って下さる方と繋がる
‥‥‥†‥‥‥‥
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15・4)繋がりが希薄な現代社会にあって、確実な繋がりを与えるイエスの呼びかけに、耳を傾けましょう。
今週の福音朗読箇所には、ほろ苦い思い出があります。私が助祭だった1991年に、召命の集いで説教の大役を仰せつかりました。それも「上五島地区」と、福岡の「大神学院」と二度もです。上五島では文化センターのホールに大勢の子供が集まった中での説教でした。大神学院では、すり鉢の形になった第二グラウンドにたくさんの子供が集まり、野外ミサの説教でした。朗読箇所は今週の朗読箇所「イエスはまことのぶどうの木」でした。
かなり早くから福音朗読の箇所が示されていたので、わたしは入念に準備をし、子供達に身振り手振りで話しかけ、説教台を飛び出して熱演したわけです。自分としては、後にも先にもない、生涯最高の説教をしたつもりでした。
ところが、先輩司祭達からは不評を買いまして、上五島地区で司式した丸尾武雄地区長神父様からは「けしからん」とお叱りを受けました。大神学院でも、司式された松永司教様や、大先輩の福岡の神父様方から「あんなものは説教じゃない」とケチョンケチョンにけなされました。ですから、小教区を越えた大きな会場での説教デビューは、さんざんだったわけです。
それでも、一つの感触はつかんでいました。あの日の説教では、わたしは子供達と一緒に、ワクワクしながら説教をしたし、子供達も話の中にすっかり入り込んだという体験です。私が、「繋がっている」と心の底から感じた瞬間でした。
実に多くの人が、繋がりを求めています。新型コロナウィルスが猛威を振るう中で、直接のふれあいが断たれています。するとスマホを使ってまったく見知らぬ人とさえ繋がりを得ようとしています。よりどころが欲しくて、安為に繋がってくれる他人に近づき、自分の身を危険にさらすことさえあります。
そんな中でもイエスは、二千年前と変わらず呼びかけるのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」イエスは他のどの人とも違う繋がりを与えてくれます。多くの人々が繋がってくれたことに対価を求めますが、イエスは私たちを豊かにするために、実を結ばせるために繋がってくださり、決して対価を求めないのです。
それは身近なたとえでは親子の繋がりかも知れません。親が子を育てて、立派に育った子供に「育ててやったから何かをくれ」と言わないのと同じです。親は子が成長するためだけに繋がってくださり、対価を求めないからです。イエスも、私たちが豊かに実を結ぶように、いつも繋がってくださいます。
イエスと私たちの繋がりは、突き詰めると生きていられるかどうかの繋がりです。例えるなら、新型コロナウィルスの重症患者が酸素マスクを必要としている状態です。酸素を取り込む力が弱っているために、酸素マスクがなければ命に関わります。イエスと私たちの繋がりが、まさにこの重症患者と酸素マスクの関係です。もちろん酸素マスクを拒否することも出来るでしょう。けれどもその行為は、命に関わるのです。
イエスと私たちの繋がりは、本当は命に関わる問題なのに、実際にはあまり気にしていません。自分では酸素を取り込めなくなっているのに、酸素マスクを使おうとしません。自分では血液中の老廃物や水分を排泄できなくなっているのに、人工透析を避けています。命を繋ぐことが最優先なのに、イエスとの繋がりを遠回しにしてしまいます。なぜでしょうか?
恐らく、イエスと繋がって何かを手に入れたことがないからです。永遠の命に関わるからと説明しても、人間は弱いのですぐ分かる体験をどうしても欲しがります。そういう人には、やはりすぐに手に入る何かを示したほうが良いでしょう。私は病者の塗油で、少なくとも四回、死の淵から帰ってきた人を紹介できます。
一人は、人工呼吸器に繋がれた人でした。口にホースが差し込まれ、鼻にもチューブが入っていました。家族は悔いが残らないようにと病者の塗油を授ける覚悟だったでしょう。私自身も、「ちょっと今回は助からないかも知れないなぁ」と、内心思いつつ病者の塗油を授けたのです。授けている司祭も奇跡を期待してなかったのに、その人は数ヶ月して退院し、半年後には新車を買って、祝別をお願いに来たのです。
他にも並べる必要があるでしょうか。あと三人紹介出来ますが、もう十分でしょう。イエスに繋がって生きることは、命に関わることなのです。「わたしにつながっていなさい」と呼びかける主は、命に責任を持つことが出来るのです。命に責任を持って下さる方と繋がる。私がいよいよ豊かに実を結ぶように、そのことだけを願っておられるイエスと繋がる人を、イエスは「わたしの弟子」と呼んでくださいます。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼福岡の神学院には返せないほどの恩義がある。ここで育てられていなければ、私は司祭職にたどり着けていないだろう。その神学院にも、ここ数年、訪ねていない。今はどんな雰囲気になっているのだろうか。
▼今でも忘れない笑い話がある。規則違反をしてラーメンを食べに行き、後輩と約束していた時間に裏口に戻ってきた。合図をするはずが裏口のドアが勝手に開いた。何とそこにカナダ人司祭の教授が立っていた。「何をしていたんですか。」一緒に出かけた悪友はあたふたしている。
▼私はとっさにこう言った。「ゴミを捨ててきました。」夜10時にゴミを捨てに行くはずがない。しかしカナダ人教授は納得して「ボン、けっこう。それならよろしい」と通してくれた。「ボン」はフランス語。「良い」という意味。あたふたした悪友は司祭にならず、とっさにうそを言った私が司祭で良いのだろうか。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第727回目。連休中、観光の来訪者を止めることになった。予定では9日まで。
http://ss104313.stars.ne.jp/210502.jpg
ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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今週の福音朗読箇所には、ほろ苦い思い出があります。私が助祭だった1991年に、召命の集いで説教の大役を仰せつかりました。それも「上五島地区」と、福岡の「大神学院」と二度もです。上五島では文化センターのホールに大勢の子供が集まった中での説教でした。大神学院では、すり鉢の形になった第二グラウンドにたくさんの子供が集まり、野外ミサの説教でした。朗読箇所は今週の朗読箇所「イエスはまことのぶどうの木」でした。
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それでも、一つの感触はつかんでいました。あの日の説教では、わたしは子供達と一緒に、ワクワクしながら説教をしたし、子供達も話の中にすっかり入り込んだという体験です。私が、「繋がっている」と心の底から感じた瞬間でした。
実に多くの人が、繋がりを求めています。新型コロナウィルスが猛威を振るう中で、直接のふれあいが断たれています。するとスマホを使ってまったく見知らぬ人とさえ繋がりを得ようとしています。よりどころが欲しくて、安為に繋がってくれる他人に近づき、自分の身を危険にさらすことさえあります。
そんな中でもイエスは、二千年前と変わらず呼びかけるのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」イエスは他のどの人とも違う繋がりを与えてくれます。多くの人々が繋がってくれたことに対価を求めますが、イエスは私たちを豊かにするために、実を結ばせるために繋がってくださり、決して対価を求めないのです。
それは身近なたとえでは親子の繋がりかも知れません。親が子を育てて、立派に育った子供に「育ててやったから何かをくれ」と言わないのと同じです。親は子が成長するためだけに繋がってくださり、対価を求めないからです。イエスも、私たちが豊かに実を結ぶように、いつも繋がってくださいます。
イエスと私たちの繋がりは、突き詰めると生きていられるかどうかの繋がりです。例えるなら、新型コロナウィルスの重症患者が酸素マスクを必要としている状態です。酸素を取り込む力が弱っているために、酸素マスクがなければ命に関わります。イエスと私たちの繋がりが、まさにこの重症患者と酸素マスクの関係です。もちろん酸素マスクを拒否することも出来るでしょう。けれどもその行為は、命に関わるのです。
イエスと私たちの繋がりは、本当は命に関わる問題なのに、実際にはあまり気にしていません。自分では酸素を取り込めなくなっているのに、酸素マスクを使おうとしません。自分では血液中の老廃物や水分を排泄できなくなっているのに、人工透析を避けています。命を繋ぐことが最優先なのに、イエスとの繋がりを遠回しにしてしまいます。なぜでしょうか?
恐らく、イエスと繋がって何かを手に入れたことがないからです。永遠の命に関わるからと説明しても、人間は弱いのですぐ分かる体験をどうしても欲しがります。そういう人には、やはりすぐに手に入る何かを示したほうが良いでしょう。私は病者の塗油で、少なくとも四回、死の淵から帰ってきた人を紹介できます。
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▼私はとっさにこう言った。「ゴミを捨ててきました。」夜10時にゴミを捨てに行くはずがない。しかしカナダ人教授は納得して「ボン、けっこう。それならよろしい」と通してくれた。「ボン」はフランス語。「良い」という意味。あたふたした悪友は司祭にならず、とっさにうそを言った私が司祭で良いのだろうか。
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第727回目。連休中、観光の来訪者を止めることになった。予定では9日まで。
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