こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第19主日(マタイ14:22-33)イエスはわたしたちのそばにいて教育する

2014-08-10 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140810.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/10(No.722)
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年間第19主日
(マタイ14:22-33)
イエスはわたしたちのそばにいて教育する
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「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)。イエスはペトロの心の動揺さえも教育のために用いてくださいます。今週の福音朗読を「信仰の薄い者をそばで教育するイエス」とまとめたいと思います。

ここ十日間、車の運転中ずっと海を見ていました。ボートは陸揚げしているので海を眺めても仕方がないのですが、前も見ずにずっと海を眺めて運転していました。前を見ないで運転する技術が身に付きました。冗談の分からない人のためにあえて言っておきますが、冗談です。

福音朗読では湖の上を歩くイエスが現れます。弟子たちの乗った舟は、逆風のために波に悩まされていました。悩まされていた弟子たちとは、信仰をまっすぐに生きるのが難しい現代社会に置かれているわたしたちでもあります。

イエスは湖で突然弟子たちに現れたのではありません。2つの背景が添えられています。1つは、ひとり山にお登りになり、祈っておられたということです。もう1つは、イエスは夜が明けるころに湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたということです。

次のように考えてみました。イエスが祈るのは、御父との深い一致を保つためです。もともと御父と御子イエスとは固く一致していますが、祈る姿は御父と御子の深い一致を見える形で示すものです。いかなる意見の違いもない、完全に御父と一致しておられる御子イエスが、弟子たちの前に現れたということです。

また、夜が明けるころとありますが、「夜」は「昼」に対立するものとして描かれ、太陽によってすっかり取り払われます。ここでは御父と完全に一致しているイエスが現れることで弟子たちの悩みが取り払われる、信仰をまっすぐに生きるのに困難を感じているわたしたちをも照らしてくださる、そういう意味合いが込められているのだと思います。

ただし、弟子たちはイエスの出現におびえました。すぐに安心したわけではなく、イエスが現れても自分たちの置かれている困難からまだ解放されずにいたのです。そんな中で、ペトロはイエスに依り頼もうとしました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14・28)

ペトロは自分の言葉をそのまま実行すれば、「そちらへ行く」つまり御父と完全に一致している御子イエスのそばに、夜を取り払う太陽であるイエスのもとに行けるはずでした。けれども、ペトロの信仰は揺らいでしまうのです。「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」(14・30)とは、御父との完全な一致を保っているイエスに依り頼みたいけれども、信仰を脅かす出来事に足元をすくわれる人間の弱さが映し出されています。人間は自分の力だけでは、イエスの保っておられる御父への完全な信頼にたどり着けないのです。

そこでイエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)と言われました。ペトロを非難しているのではありません。ペトロに「わたしは手を伸ばしてあなたを捕まえるくらいの場所にいつもいる。恐れずにこれからもついてきなさい」と呼びかけているのです。

もしかしたら、イエスがすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえなかったら、ペトロはおぼれていたかもしれません。人間の力では、イエスにすがりつくことさえできなかったかもしれないのです。イエスはそれをよく御存知で、イエスのほうからすぐに手を伸ばして捕まえてくださいます。イエスにつき従おうとする歩みが沈みかけたとしても、イエスのほうから助けて、さらに信頼を寄せる者となれるように教育するのです。

信仰を簡単に言い表すと、イエスに信頼を置いて生きることだと思います。この生き方を常に最優先に生きようとすると、さまざまな困難に悩まされるでしょう。まさにそれは水の上を歩いて、御父に完全に一致しているイエスのもとに渡ろうとするようなものです。気が付くと信仰に対する迫害や無理解に足元をすくわれ、おびえてしまうのです。

けれども、イエスはすぐに手を伸ばしてわたしたちを捕まえるくらい近くにおられます。このことを忘れてはいけません。現代がどれだけ逆風のただ中であったとしても、イエスへの信仰に土台を置いて生きるわたしたちを完全に沈ませることはできないし、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえることができるくらいそばにおられるのです。何度もこのような経験をくぐらせて、イエスはわたしたちを教育なさるのです。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)。イエスの言葉をあらためて聞き直すと、今度は力強い励ましに聞こえてくるでしょう。信仰を土台にしては生きていけないと自分の考えにとどまることは、生きる場所を最も危険にさらしてしまいます。

イエスの導きを固く信じて生きるなら、何度沈みそうになってもすぐ手を伸ばして捕まえ、歩を進める力を授けてくださいます。わたしたちの選ぶ道は明らかです。イエスがすぐ手を伸ばしてくださる場所まで、信じて歩み続ける。そのための力と助けを、このミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近負荷をかける運動をするたびに反動が来るようになった。負荷をかけるような運動の翌日、膝に違和感があったり、手首、肘、いろんな関節に違和感がある。直立した状態で膝がぐらつき、足が地面をしっかり踏みしめていないような気さえする。
▼ある朝わき腹を捻ったような痛みがあり、おやと思ったが原因を思い出せなかった。わき腹をさすりながら朝ミサを終え、昨日何をしたか考えてみた。特に思い当たることもなく、おかしいなぁと思いながら一日過ごした。
▼その翌日、「久しぶりに素振りでもしてみるか」と思ってソフトボールのバットを握った時に思い出した。二日前に確か素振りをしたんだった。素振りをしたことすら思い出せない、たかだか20スイングくらいしか振っていないのに、わき腹痛である。
▼ほかにも、小学生のドッヂボールの練習に付き合って、ダッシュを数本繰り返しただけで、翌日は膝の違和感である。情けないやら、腹立たしいやら。手首に痛みがあったり、肘に痛みがあったりした前日、ふだんとちょっと違うことをしただけなのである。
▼運動の理論も知らないし、どのようにすれば痛みが出ないで済むのかも分からないが、おそらく運動後のケアに時間をかけよということなのだろう。準備体操はしても、整理体操をしない。負荷のかかる運動をした後に、入念に体をほぐしておけば、痛い思いをしなくて済むかもしれない。
▼いくつかの思い当たることをを総合すれば、「年齢をわきまえよ」と言われている気がする。48歳にもなって35歳のつもりで運動していれば、当然あちこちにしわ寄せが来るはずだ。気持ちと実際の肉体との開きが、埋められなくなってきているのだ。
▼体のさまざまな部品の、あるはずの角が丸くなっていたり錆びていたり、少し曲がっていたり、そういうことが起こっているのをよく考えもせずに、無理をしていたのかもしれない。これからは運動後に十分時間をかけることにしよう。

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今週の1枚
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第329回目。こんなところにもくまモンが。そのうち、ふなっしーも飛ぶか?

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