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こうじ神父
「今週の説教」
13/10/13(No.673)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第28主日
(ルカ17:11-19)
あなたはその出来事から何を見ますか
‥‥‥†‥‥‥‥
10月9日の水曜日、この日は夕方のミサで、説教は小学生を相手に話すことにしているので、いつもの通り小学生の席まで降りていって話をしました。毎回、いろんなことを質問して、子どもたちの反応を見ています。質問されるのが恐ろしくて、この日のミサに子どもが行きたがらないという噂も聞いていますが、わたしは何と言われようが水曜日のスタイルは変えないつもりです。
さてこの日の質問はこういう内容でした。「昨日、10月8日(火)の台風はすごい雨風だったねー。屋根が吹き飛んだ人いますか?車がひっくり返った人いますか?そうかー。被害は少なかったんだね。なぜ被害が少なかったと思う?」子どもたちは思い思いの返事でした。「偶然そうなった」「奇跡が起こった」「分からない」でもわたしが期待する答えではありませんでした。
わたしが期待したのは、「神さまのおかげで被害が少なかった」「わたしたちが神さまにお祈りしたから、被害が少なかった」という答えです。実際、8日の火曜日は朝6時のミサを始める時に、「台風の被害が少なくて済むように、ミサの中でお祈りいたしましょう」と呼び掛けてからミサを始めました。
わたしはこう思うのです。大きな台風が上陸して、大変な被害が予想される中で、結果的に被害は少なくて済みました。台風の進路がどうだとか、科学的な説明は後からいくらでもできるでしょう。けれども、そんな説明はつまらないし、天気図の説明は東京に住んでいる気象予報士でもできることです。
わたしは台風のただ中で過ごし、そして感じたのです。台風が無事に通過してくれた。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ。」わたしの考えは非科学的でしょうか。子供じみているでしょうか。
確かに今回の24号台風は、都合よく通過していってくれたのでしょう。ですがただ単に幸運だったというだけでしたら、いったい何に感謝するのでしょうか。感謝することもなければ、被害がなかった、あーよかったで、台風が来たことも忘れてしまうのではないでしょうか。わたしは、台風が無事に通過したその向こうに、感謝する相手を見つけました。これは神に感謝すべきだと、心から思いました。
さて今週の朗読箇所は、「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語です。この重い皮膚病を患っている人々は、時代が違えば、イエスに憐れみを求める必要も無かったかもしれません。重い皮膚病と言われている病がハンセン病であれば、いまは特効薬が発見されていて発病している人でも完治しますし、日本でこの病気にかかる人はゼロです。
ただし、当時は重い皮膚病にかかった人は社会から切り離されて暮らす必要がありました。重い病でも、社会に取り残されずに暮らすことができるなら、まだ慰めもあるでしょう。けれども彼らはその慰めを期待できませんでした。
イエスは憐れみを求めるこの十人に、深い憐れみを示してくださいます。イエスはこの場面で人間社会が与えることのできなかった憐れみを与えることができるお方です。しかも彼らに、救いの喜びをも与えるため、重い皮膚病という鎖から彼らを解いてくださいました。
ところが、「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」(17・15)のは一人のサマリア人だけでした。確かに十人とも重い皮膚病はいやされたのですが、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(17・16)のはサマリア人だけでした。
思い出してください。わたしは説教の始めに、なぜ24号台風の直撃を受けたにもかかわらず、被害が少なかったのでしょうかと子どもに問いかけました。わたしの答えはどんな答えだったでしょうか。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ」というものでした。
わたしは、福音に登場する重い皮膚病を患っている人々のいやしにも、同じことが言えると思うのです。理論的に、あるいは医学的に、これこれこのようにして重い皮膚病が治ったと説明することは可能かもしれません。けれどもそんな説明は、つまらないと思うのです。何の感動もないし、そこから感謝の気持ちも湧いてこないと思うのです。
実際に、十人のうち九人は、清くされたはずなのにその後のことは何も触れられていません。彼らは自分の病がいやされ、清くされたことを理解していたはずです。それでも感謝の気持ちが湧いて、神を賛美するということには繋がらなかったのです。重い皮膚病がいやされたことに自分なりの説明は付いたかも知れませんが、自分たちが体験した奇跡の向こうに、感謝する相手を見ることができなかったのです。
わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは奇跡的に災難を免れて、生き残った体験がないでしょうか。助からないと言われるような病気を背負って、それでも生かされている人がいないでしょうか。あなたが体験したことは、「大声で神を賛美し」「イエスの足もとにひれ伏して感謝」してよい出来事ではないでしょうか。
わたしたちは奇跡的な出来事の向こうに神の働きを見て、神に感謝することがあまりに少なくなったのかもしれません。そうした考えを子供じみていると考えているのでしょうか。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)というイエスの御言葉は、もはや時代遅れなのでしょうか。
十人のうち九人が「これは理論的に説明できるから、だれにも感謝する必要がない」と言ったとしても、わたしは神に感謝したいと思います。神は今も「絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗闇のあるところに光を」届けてくれていると、言い続けたいと思います。出来事の向こうに神の働きを見る人は今日もイエスと出会い、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17・19)と声をかけていただけるのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼先週はお風呂のお湯を沸かすボイラーが壊れ、ずっとお風呂に入れなかった。と言ってもまったく体を洗わなかったわけではなくて、巡回教会の福見教会司祭館に行ったり来たりして風呂に入った。
▼この原稿を準備している段階では電気店の人が新品のボイラーを取り付けているので、出張から帰ったら不便は解消されているはずだ。何でもそうだが、不便になった時、それまでいかにありがたい暮らしをさせてもらっていたかが分かる。
▼出張は「教区広報担当者全国会議」という長ったらしい名前のもので、これを読んで反応するだろうなぁと思う人が数名いるのだけれども、予定が詰まっているので、予定を立てている人以外には個人的な声かけはせずに行こうと思っている。「言ってくれればいいのに」と言われそうだなぁ。
▼出張の名目に偽りはないのだが、わたしは「教区広報」の委員長ではない。そこだけが気が引ける。代理だから、ちゃんと報告を委員長にしなければならないなぁと出かける前から出かけた後のことを考えてしまう。
▼それでも、ちょっとした旅行だから、まったく違う環境で、長崎のことを考える機会になるかもしれない。あるいは、長崎のことをたくさん尋ねられて、長崎の良い所を見直す機会かもしれない。
▼12日(土)大学院生のインタビューがあるようだ。11日(金)の朝に電話があり、1週間かけて上五島の教会を訪ねてまわり、論文の研究テーマを深めるのだそうだ。どうやらあちこちの教会でインタビューを断られ、電話の声では藁にもすがる思いが伝わってきた。
▼わたしは足で稼いで資料を準備する論文を用意したことがないので、こうした論文を準備している人の苦労を十分理解してあげることができない。ただあっちでもこっちでも断られて意気消沈して自分に電話する学生をほうっておくのはちょっと可哀想である。
▼もちろん他の教会がていねいにお断りするにはそれなりの理由があるだろう。だからなおさら、最後に困り果ててやって来る人に協力する。何だか最後の砦みたいだ。最後の砦と言うと聞こえは良いが、最後の砦は善人かもしれないし、悪人かもしれない。
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今週の1枚
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第280回目。半年も経ってしまったが、百周年の時の集合写真。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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13/10/13(No.673)
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年間第28主日
(ルカ17:11-19)
あなたはその出来事から何を見ますか
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10月9日の水曜日、この日は夕方のミサで、説教は小学生を相手に話すことにしているので、いつもの通り小学生の席まで降りていって話をしました。毎回、いろんなことを質問して、子どもたちの反応を見ています。質問されるのが恐ろしくて、この日のミサに子どもが行きたがらないという噂も聞いていますが、わたしは何と言われようが水曜日のスタイルは変えないつもりです。
さてこの日の質問はこういう内容でした。「昨日、10月8日(火)の台風はすごい雨風だったねー。屋根が吹き飛んだ人いますか?車がひっくり返った人いますか?そうかー。被害は少なかったんだね。なぜ被害が少なかったと思う?」子どもたちは思い思いの返事でした。「偶然そうなった」「奇跡が起こった」「分からない」でもわたしが期待する答えではありませんでした。
わたしが期待したのは、「神さまのおかげで被害が少なかった」「わたしたちが神さまにお祈りしたから、被害が少なかった」という答えです。実際、8日の火曜日は朝6時のミサを始める時に、「台風の被害が少なくて済むように、ミサの中でお祈りいたしましょう」と呼び掛けてからミサを始めました。
わたしはこう思うのです。大きな台風が上陸して、大変な被害が予想される中で、結果的に被害は少なくて済みました。台風の進路がどうだとか、科学的な説明は後からいくらでもできるでしょう。けれども、そんな説明はつまらないし、天気図の説明は東京に住んでいる気象予報士でもできることです。
わたしは台風のただ中で過ごし、そして感じたのです。台風が無事に通過してくれた。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ。」わたしの考えは非科学的でしょうか。子供じみているでしょうか。
確かに今回の24号台風は、都合よく通過していってくれたのでしょう。ですがただ単に幸運だったというだけでしたら、いったい何に感謝するのでしょうか。感謝することもなければ、被害がなかった、あーよかったで、台風が来たことも忘れてしまうのではないでしょうか。わたしは、台風が無事に通過したその向こうに、感謝する相手を見つけました。これは神に感謝すべきだと、心から思いました。
さて今週の朗読箇所は、「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語です。この重い皮膚病を患っている人々は、時代が違えば、イエスに憐れみを求める必要も無かったかもしれません。重い皮膚病と言われている病がハンセン病であれば、いまは特効薬が発見されていて発病している人でも完治しますし、日本でこの病気にかかる人はゼロです。
ただし、当時は重い皮膚病にかかった人は社会から切り離されて暮らす必要がありました。重い病でも、社会に取り残されずに暮らすことができるなら、まだ慰めもあるでしょう。けれども彼らはその慰めを期待できませんでした。
イエスは憐れみを求めるこの十人に、深い憐れみを示してくださいます。イエスはこの場面で人間社会が与えることのできなかった憐れみを与えることができるお方です。しかも彼らに、救いの喜びをも与えるため、重い皮膚病という鎖から彼らを解いてくださいました。
ところが、「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」(17・15)のは一人のサマリア人だけでした。確かに十人とも重い皮膚病はいやされたのですが、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(17・16)のはサマリア人だけでした。
思い出してください。わたしは説教の始めに、なぜ24号台風の直撃を受けたにもかかわらず、被害が少なかったのでしょうかと子どもに問いかけました。わたしの答えはどんな答えだったでしょうか。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ」というものでした。
わたしは、福音に登場する重い皮膚病を患っている人々のいやしにも、同じことが言えると思うのです。理論的に、あるいは医学的に、これこれこのようにして重い皮膚病が治ったと説明することは可能かもしれません。けれどもそんな説明は、つまらないと思うのです。何の感動もないし、そこから感謝の気持ちも湧いてこないと思うのです。
実際に、十人のうち九人は、清くされたはずなのにその後のことは何も触れられていません。彼らは自分の病がいやされ、清くされたことを理解していたはずです。それでも感謝の気持ちが湧いて、神を賛美するということには繋がらなかったのです。重い皮膚病がいやされたことに自分なりの説明は付いたかも知れませんが、自分たちが体験した奇跡の向こうに、感謝する相手を見ることができなかったのです。
わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは奇跡的に災難を免れて、生き残った体験がないでしょうか。助からないと言われるような病気を背負って、それでも生かされている人がいないでしょうか。あなたが体験したことは、「大声で神を賛美し」「イエスの足もとにひれ伏して感謝」してよい出来事ではないでしょうか。
わたしたちは奇跡的な出来事の向こうに神の働きを見て、神に感謝することがあまりに少なくなったのかもしれません。そうした考えを子供じみていると考えているのでしょうか。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)というイエスの御言葉は、もはや時代遅れなのでしょうか。
十人のうち九人が「これは理論的に説明できるから、だれにも感謝する必要がない」と言ったとしても、わたしは神に感謝したいと思います。神は今も「絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗闇のあるところに光を」届けてくれていると、言い続けたいと思います。出来事の向こうに神の働きを見る人は今日もイエスと出会い、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17・19)と声をかけていただけるのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週はお風呂のお湯を沸かすボイラーが壊れ、ずっとお風呂に入れなかった。と言ってもまったく体を洗わなかったわけではなくて、巡回教会の福見教会司祭館に行ったり来たりして風呂に入った。
▼この原稿を準備している段階では電気店の人が新品のボイラーを取り付けているので、出張から帰ったら不便は解消されているはずだ。何でもそうだが、不便になった時、それまでいかにありがたい暮らしをさせてもらっていたかが分かる。
▼出張は「教区広報担当者全国会議」という長ったらしい名前のもので、これを読んで反応するだろうなぁと思う人が数名いるのだけれども、予定が詰まっているので、予定を立てている人以外には個人的な声かけはせずに行こうと思っている。「言ってくれればいいのに」と言われそうだなぁ。
▼出張の名目に偽りはないのだが、わたしは「教区広報」の委員長ではない。そこだけが気が引ける。代理だから、ちゃんと報告を委員長にしなければならないなぁと出かける前から出かけた後のことを考えてしまう。
▼それでも、ちょっとした旅行だから、まったく違う環境で、長崎のことを考える機会になるかもしれない。あるいは、長崎のことをたくさん尋ねられて、長崎の良い所を見直す機会かもしれない。
▼12日(土)大学院生のインタビューがあるようだ。11日(金)の朝に電話があり、1週間かけて上五島の教会を訪ねてまわり、論文の研究テーマを深めるのだそうだ。どうやらあちこちの教会でインタビューを断られ、電話の声では藁にもすがる思いが伝わってきた。
▼わたしは足で稼いで資料を準備する論文を用意したことがないので、こうした論文を準備している人の苦労を十分理解してあげることができない。ただあっちでもこっちでも断られて意気消沈して自分に電話する学生をほうっておくのはちょっと可哀想である。
▼もちろん他の教会がていねいにお断りするにはそれなりの理由があるだろう。だからなおさら、最後に困り果ててやって来る人に協力する。何だか最後の砦みたいだ。最後の砦と言うと聞こえは良いが、最後の砦は善人かもしれないし、悪人かもしれない。
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今週の1枚
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第280回目。半年も経ってしまったが、百周年の時の集合写真。
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