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こうじ神父
「今週の説教」
09/03/01(No.403)
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四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
荒れ野での四十日間が象徴するもの
‥‥‥†‥‥‥‥
先週私は、「カトリック信者でよかった」という例を挙げてみたのですが、誤解しないで欲しいことがあります。それは、「プロテスタントではなく、カトリックでよかった」と、カトリックとプロテスタントの違いを強調しようという狙いではない、ということです。
わたしがカトリック教会の司祭で、カトリック教会のことしか知らないので、「カトリック信者でよかった」という例を挙げたまでのことです。本質的には、「キリスト者でよかった」そういう体験がわたしたちにとって必要なことだと思っています。
ついでの話ですが、誰からどう教わったのか、自分の宗教を「カトリック教」と言う人がいるようです。以前いた小教区でも似たような場面に遭遇したのですが、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「キリスト教です」と答えてください。
なぜ「カトリック教」という言い方がおかしいのか、仏教と比較して考えてみましょう。伊王島には大きく2つの宗教、仏教とキリスト教があると思います。伊王島のお寺は禅宗のお寺です。禅宗は「仏教」の一派です。「禅宗教」とは言いません。
同じように、伊王島の教会はカトリック教会です。カトリックは「キリスト教」です。これも「カトリック教」ではないのです。禅宗や、真宗を「禅宗教」「真宗教」と呼ばないのと同じです。そこはきちんと理解してほしいと思っています。もし病院に入院することになって、「宗教欄」を書く際は、「キリスト教(カトリック)」と書くべきだと思います。いきなり「カトリック教」と書かないようにしてください。わたしたちは「キリスト教」のカトリック信者なのですから。
さて、先週話したように、「カトリック信者でよかった」その喜びは、「イエスと出会えてよかった」という体験につながってこそ本物です。今週の四旬節第1主日に選ばれている福音朗読の箇所にも、「わたしは今日イエスに出会えている」その喜びを体験できる箇所を見つけました。今週の福音の箇所はマルコ1章12節から15節と本当に短い箇所ですが、今年読み返しながら、新たな発見があり、「イエスと出会えているなぁ」と実感できたのです。
それは、1章13節「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」という箇所です。淡々と出来事を紹介しているので、うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな箇所ですが、ここで言う「四十日間」という表現がわたしの目に留まりました。
聖書の中では旧約・新約を通して象徴的な意味を持つ数字があります。イエスが誘惑を受けたとされる「四十日間」という期間は、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、約束の地にたどり着くために荒れ野をさまよった期間の象徴です。ちなみに十二という数字は、イスラエルの十二部族のことで、イエスが十二人の弟子を選んだのはイスラエルの十二部族を象徴的に表している数字です。
この荒れ野での四十年を象徴する「四十日間」ですが、荒れ野で四十年さまよったイスラエルの民は、無事に約束の地にたどり着いています。ということは、イスラエルの民のあの四十年は、人生の中のある四十年という意味ではなくて、人生の全体として捉えた方が適切だと思います。
この捉え方を、今日のイエスの荒れ野での誘惑に当てはめてみたいのです。イエスが四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けた。それは実は、イエスの三十三年間という地上での人生を、象徴的に表しているのではないでしょうか。わたしは今年の説教の準備の中でそのように考えてみたのです。
もし、荒れ野でのイエスの四十日間が、イエスの地上での三十三年間を表しているとしたら。もしそうだとしたら、四十日の間にサタンから誘惑を受けたことと、野獣と一緒におられたこと、天使たちが仕えていたということはイエスの三十三年間の中の出来事と重ね合わせて考える必要があります。福音書の中に、ちょうど重なるような出来事があるでしょうか。わたしは、イエスがゲッセマネで祈っている場面、マルコ福音書で言えば14章が、荒れ野での四十日間の誘惑をうまく表現していると思いました。
最後の時を迎えようとしていたイエスは、ゲッセマネで地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言っています(14・35-36)
この緊張感あふれる祈りの場面で、やはりイエスにはサタンの誘惑があって、「杯をわたしから取りのけてほしい」と思ったわけです。けれども一方では、天使たちが仕えていて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と誘惑をはねのけました。こうした戦いは、イエスの全生涯を通して見られたのではないでしょうか。
このように思い巡らしていくと、イエスが荒れ野で経験された四十日間は、イエスの地上での三十三年間の縮図だったのだろうと思えてきたのです。わたしにとってこの発見は、「荒れ野にいるイエスに出会えた」と感じた瞬間でした。もしここまでの理解にたどり着けていなければ、今年もわたしは荒れ野にいるイエスとただすれ違うだけだったかも知れないと思っています。
イエスの荒れ野での四十日間は、今の私の信仰の中で「イエスに出会えてよかった」という瞬間だと思いますし、「キリスト者でよかった」と思えるひとときでもあります。
ここであえてカトリックということにこだわるなら、カトリック信者として、プロテスタントの信者の方にも通じる喜び・体験を分かち合えた時、本当の意味で聖書の中の何かがつかめたと言えるのではないかと思っています。
つまり、カトリック信者にしか通用しない理屈や解釈では、本当に聖書の中の出来事に肉薄したとは言えないのではないでしょうか。イエスさまがカトリック教会とかプロテスタント教会とかを作ったわけではないのですから、イエスさまの時代の出来事に迫るためには、カトリックとプロテスタントの垣根を越えて、一緒に共感できる何かをつかむ努力が必要だと感じます。
今週わたしの中で「あっ!イエスさまに出会えた」という瞬間は、「イエスの荒れ野での四十日間」という部分でした。皆さんお一人お一人にとっても、「イエスと出会った」という瞬間が日々与えられたらすばらしいと思います。また、そのような体験を求めて、自分の中でイエスと本当に出会える場面はいつだろうか、どんな時だろうかと日頃から準備をしておくことも必要かも知れません。
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ちょっとひとやすみ
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▼2月と5月は予算決算の月で、毎年のことながら頭を痛める月である。だいたい経理のことをまともに学んだことがないので、収支の数字がうまく合っていればそれで何となく納得して「あー、今年も無事に提出できたなぁ」と胸を撫で下ろしているのが現状である。お小遣い帳すらまともに記帳したことのない神父たちが、何百万とか1千万とかの予算決算にたずさわっているのだから、それだけでも驚きではある。
▼「予算・決算はいつも頭が痛い。まあ、足し算と引き算しかできないのだから無理もないか」とこぼしたら、「足し算と引き算がまともにできるだけでも立派だよ。なかには収支が合わないまま予算・決算書を提出している小教区もあるのだから」と言っていた。本当だろうか。本当かも知れない。
▼予算・決算から見えてくるものがある。「今年、この部分に力を入れてみよう」とか、「この部分は出費を見直して、本当に活動に見合っているか考える機会を作ろう」とか、そうしたことは予算・決算を組む中でたしかに考えるようになる。
▼教会学校の子供たちの宗教教育について、大人の信徒の信仰育成について、礼拝に関わる祭器具や維持管理の充実についてなど、主任司祭になればのほほんとしていられなくなる。何だか、経営者みたいな気持ちになり、もっと運営面から自由になって、宣教のことに深く傾注した方がいいのではないかなぁと思ったりもする。
▼こうして本部と関わりのある大きな務めを果たすと、あーどこかに行きたいという気持ちが湧いてくる。海に行くか、遠くに行くか、五島に行くか、それともどこかに消えるか。いずれにしてもリフレッシュの必要性は目の前まで来ていると感じている。
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新企画今週の1枚
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第10回目。ちょっと古いけど、26聖人殉教記念ミサです。わりとよく写っていました。
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
荒れ野での四十日間が象徴するもの
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先週私は、「カトリック信者でよかった」という例を挙げてみたのですが、誤解しないで欲しいことがあります。それは、「プロテスタントではなく、カトリックでよかった」と、カトリックとプロテスタントの違いを強調しようという狙いではない、ということです。
わたしがカトリック教会の司祭で、カトリック教会のことしか知らないので、「カトリック信者でよかった」という例を挙げたまでのことです。本質的には、「キリスト者でよかった」そういう体験がわたしたちにとって必要なことだと思っています。
ついでの話ですが、誰からどう教わったのか、自分の宗教を「カトリック教」と言う人がいるようです。以前いた小教区でも似たような場面に遭遇したのですが、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「キリスト教です」と答えてください。
なぜ「カトリック教」という言い方がおかしいのか、仏教と比較して考えてみましょう。伊王島には大きく2つの宗教、仏教とキリスト教があると思います。伊王島のお寺は禅宗のお寺です。禅宗は「仏教」の一派です。「禅宗教」とは言いません。
同じように、伊王島の教会はカトリック教会です。カトリックは「キリスト教」です。これも「カトリック教」ではないのです。禅宗や、真宗を「禅宗教」「真宗教」と呼ばないのと同じです。そこはきちんと理解してほしいと思っています。もし病院に入院することになって、「宗教欄」を書く際は、「キリスト教(カトリック)」と書くべきだと思います。いきなり「カトリック教」と書かないようにしてください。わたしたちは「キリスト教」のカトリック信者なのですから。
さて、先週話したように、「カトリック信者でよかった」その喜びは、「イエスと出会えてよかった」という体験につながってこそ本物です。今週の四旬節第1主日に選ばれている福音朗読の箇所にも、「わたしは今日イエスに出会えている」その喜びを体験できる箇所を見つけました。今週の福音の箇所はマルコ1章12節から15節と本当に短い箇所ですが、今年読み返しながら、新たな発見があり、「イエスと出会えているなぁ」と実感できたのです。
それは、1章13節「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」という箇所です。淡々と出来事を紹介しているので、うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな箇所ですが、ここで言う「四十日間」という表現がわたしの目に留まりました。
聖書の中では旧約・新約を通して象徴的な意味を持つ数字があります。イエスが誘惑を受けたとされる「四十日間」という期間は、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、約束の地にたどり着くために荒れ野をさまよった期間の象徴です。ちなみに十二という数字は、イスラエルの十二部族のことで、イエスが十二人の弟子を選んだのはイスラエルの十二部族を象徴的に表している数字です。
この荒れ野での四十年を象徴する「四十日間」ですが、荒れ野で四十年さまよったイスラエルの民は、無事に約束の地にたどり着いています。ということは、イスラエルの民のあの四十年は、人生の中のある四十年という意味ではなくて、人生の全体として捉えた方が適切だと思います。
この捉え方を、今日のイエスの荒れ野での誘惑に当てはめてみたいのです。イエスが四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けた。それは実は、イエスの三十三年間という地上での人生を、象徴的に表しているのではないでしょうか。わたしは今年の説教の準備の中でそのように考えてみたのです。
もし、荒れ野でのイエスの四十日間が、イエスの地上での三十三年間を表しているとしたら。もしそうだとしたら、四十日の間にサタンから誘惑を受けたことと、野獣と一緒におられたこと、天使たちが仕えていたということはイエスの三十三年間の中の出来事と重ね合わせて考える必要があります。福音書の中に、ちょうど重なるような出来事があるでしょうか。わたしは、イエスがゲッセマネで祈っている場面、マルコ福音書で言えば14章が、荒れ野での四十日間の誘惑をうまく表現していると思いました。
最後の時を迎えようとしていたイエスは、ゲッセマネで地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言っています(14・35-36)
この緊張感あふれる祈りの場面で、やはりイエスにはサタンの誘惑があって、「杯をわたしから取りのけてほしい」と思ったわけです。けれども一方では、天使たちが仕えていて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と誘惑をはねのけました。こうした戦いは、イエスの全生涯を通して見られたのではないでしょうか。
このように思い巡らしていくと、イエスが荒れ野で経験された四十日間は、イエスの地上での三十三年間の縮図だったのだろうと思えてきたのです。わたしにとってこの発見は、「荒れ野にいるイエスに出会えた」と感じた瞬間でした。もしここまでの理解にたどり着けていなければ、今年もわたしは荒れ野にいるイエスとただすれ違うだけだったかも知れないと思っています。
イエスの荒れ野での四十日間は、今の私の信仰の中で「イエスに出会えてよかった」という瞬間だと思いますし、「キリスト者でよかった」と思えるひとときでもあります。
ここであえてカトリックということにこだわるなら、カトリック信者として、プロテスタントの信者の方にも通じる喜び・体験を分かち合えた時、本当の意味で聖書の中の何かがつかめたと言えるのではないかと思っています。
つまり、カトリック信者にしか通用しない理屈や解釈では、本当に聖書の中の出来事に肉薄したとは言えないのではないでしょうか。イエスさまがカトリック教会とかプロテスタント教会とかを作ったわけではないのですから、イエスさまの時代の出来事に迫るためには、カトリックとプロテスタントの垣根を越えて、一緒に共感できる何かをつかむ努力が必要だと感じます。
今週わたしの中で「あっ!イエスさまに出会えた」という瞬間は、「イエスの荒れ野での四十日間」という部分でした。皆さんお一人お一人にとっても、「イエスと出会った」という瞬間が日々与えられたらすばらしいと思います。また、そのような体験を求めて、自分の中でイエスと本当に出会える場面はいつだろうか、どんな時だろうかと日頃から準備をしておくことも必要かも知れません。
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▼2月と5月は予算決算の月で、毎年のことながら頭を痛める月である。だいたい経理のことをまともに学んだことがないので、収支の数字がうまく合っていればそれで何となく納得して「あー、今年も無事に提出できたなぁ」と胸を撫で下ろしているのが現状である。お小遣い帳すらまともに記帳したことのない神父たちが、何百万とか1千万とかの予算決算にたずさわっているのだから、それだけでも驚きではある。
▼「予算・決算はいつも頭が痛い。まあ、足し算と引き算しかできないのだから無理もないか」とこぼしたら、「足し算と引き算がまともにできるだけでも立派だよ。なかには収支が合わないまま予算・決算書を提出している小教区もあるのだから」と言っていた。本当だろうか。本当かも知れない。
▼予算・決算から見えてくるものがある。「今年、この部分に力を入れてみよう」とか、「この部分は出費を見直して、本当に活動に見合っているか考える機会を作ろう」とか、そうしたことは予算・決算を組む中でたしかに考えるようになる。
▼教会学校の子供たちの宗教教育について、大人の信徒の信仰育成について、礼拝に関わる祭器具や維持管理の充実についてなど、主任司祭になればのほほんとしていられなくなる。何だか、経営者みたいな気持ちになり、もっと運営面から自由になって、宣教のことに深く傾注した方がいいのではないかなぁと思ったりもする。
▼こうして本部と関わりのある大きな務めを果たすと、あーどこかに行きたいという気持ちが湧いてくる。海に行くか、遠くに行くか、五島に行くか、それともどこかに消えるか。いずれにしてもリフレッシュの必要性は目の前まで来ていると感じている。
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